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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
21/32

第十章 診断名「正常」


 大学の保健センターの待合室は、いつも消毒液と古紙の匂いが混ざり合っていた。

 神納は長椅子に腰掛け、壁に掛けられたアナログ時計の秒針を目で追っていた。カチ、カチ、カチ。その規則的なリズムは、先日まで見ていたサーバー室の点滅するカーソルとは違い、どこか物理的な重みを持って時を刻んでいた。

 「神納くん、どうぞ」

 名前を呼ばれ、診察室に入る。

 雨宮医師は、少し疲れた顔でカルテを見ていた。

 「……バイトを辞めたそうだね」

 「はい。少し、あそこの空気が合わなくて」

 神納が答えると、雨宮は眼鏡の奥で目を細めた。

 「正解だと思うよ。君の顔色は、前回会ったときよりずっとマシだ。あの時は、まるで幽霊に精気を吸い取られたような顔をしていたからね」

 雨宮は聴診器を当て、神納の胸の音を聞いた。


 「心音、正常。血圧、正常。……不眠はまだ続いているかい?」

 「少しだけ。でも、以前のように、夜中に何かに追い詰められるような感覚は減りました」

 「そうか。それは良い兆候だ」

 雨宮は椅子に戻り、ボールペンを回した。

 「診断名をつけるなら、『正常』だ。君は病気じゃない」

 神納は意外に思って顔を上げた。

 「でも、眠れないし、時々めまいがします。社会生活にも支障が出ている気がするんですが」

 雨宮は苦笑した。

 「それはね、君の『倫理の時計』と、社会の『効率の時計』がズレているから起きる摩擦熱みたいなものだ。

 君は、他人の痛みや沈黙を、無視せずに立ち止まって考えようとする。だが、社会はそれを『遅延』とみなして急き立てる。そのギャップが体に負荷をかけているだけだ。


 君の機能が壊れているんじゃない。君のOSが、この高速化された社会に対して誠実すぎるんだよ」

 雨宮は机の引き出しから、小さな薬袋を取り出した。

 「軽い睡眠導入剤と、不安を和らげる薬だ。処方はしておく。でも、飲むかどうかは君に任せる」

 神納は薬袋を受け取った。手のひらに軽い質量を感じた。

 「……飲まなくてもいいんですか?」

 「薬は、君の感受性の感度を下げる『フィルター』のようなものだ。飲めば楽になる。夜もぐっすり眠れるだろう。社会の速度に合わせて、スムーズに歩けるようになるかもしれない。

 でも、君はその『眠れない夜』にこそ、大切な思索をしているんじゃないのかな?」


 神納はハッとした。

 川本のノート。AIへの入力。松崎との対話。

 それらはすべて、効率的に眠ることができなかった夜に生まれたものだ。

 もし薬を飲んで、脳内のノイズを消去してしまったら、それは九条がAIに行った「修正パッチ」と同じことにならないか。

 「……痛みを消すことは、問いを消すことでもあるんですね」

 「医学的には痛みは敵だ。だが、哲学的には、痛みは『ここが問題だ』と知らせてくれる警報器でもある。警報を切れば静かにはなるが、火事は消えない」

 雨宮は穏やかに言った。

 「無理はするな。本当に辛いときは、迷わず飲みなさい。逃げることも技術だ。でも、君がその痛みを抱えたまま歩きたいと願うなら、私はそれを止める権利を持たない」


 診察室を出ると、廊下の窓から夏の日差しが差し込んでいた。

 神納は薬袋をポケットにしまった。

 「正常」という診断。

 それは「あなたは今のままで苦しんでいていい」という、残酷で、しかし何よりも力強い許可証のように思えた。

 彼は自動販売機で水を買ったが、薬は飲まなかった。

 代わりに冷たい水を喉に流し込み、自分の身体が内側から冷える感覚を確かめた。

 この感覚。この重さ。

 これを持って、また歩き出そうと思った。

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