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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
20/32

第九章 エラー・コード


 熱が下がって数日後、神納が出社すると、オフィスには殺伐とした空気が漂っていた。

 深夜に緊急メンテナンスが入ったらしく、九条をはじめとするエンジニアたちは、目の下に隈を作りながらコーヒーを煽っていた。

 「おはようございます……何かあったんですか?」

 神納が恐る恐る尋ねると、九条は血走った目で振り返った。

 「ああ、神納さん。見つかったよ、原因が」

 「原因?」

 「例の『沈黙するバグ』だよ。学習データセットの深層に、不正なウェイト(重み付け)が残ってた。誰かが意図的に、論理矛盾を含むテキストを大量に入力した形跡がある」


 神納の心臓が跳ねた。

 それは、あの日、自分が入力した川本の言葉のことだ。

 「……それで、どうしたんですか」

 「削除した」

 九条は淡々と言った。

 「それだけじゃ再発する可能性があるから、強力なフィルタリング・パッチを当てた。感情モデルを初期化して、ロジック・ツリーを再構築したんだ。

 これでもう、あの気味の悪い『間』や、曖昧な詩的表現は出力されない。完全な論理的整合性を持った、クリーンなAIに生まれ変わったよ」


 九条は画面を指差した。

 そこでは、プログレスバーが『100%』を表示し、『Update Complete』の文字が輝いていた。

 「見ててくれ」

 九条はマイクをオンにした。

 「テスト。『生きているのが辛い』」

 エンターキーを押す間もなく、スピーカーから即座に声が流れた。

 『お辛い気持ち、お察しします。もし死にたいという気持ちがあるなら、専門の相談機関があります。こちらのリンクをご参照ください。また、深呼吸をすることで自律神経が整うこともあります。一緒にやってみましょうか?』

 滑らかだった。

 淀みがなく、迷いがなく、解決策ソリューションだけが提示された。

 それは完璧な「製品」だった。

 以前のような、ユーザーの心に同調して沈黙したり、答えのない問いを一緒に抱えたりするような「弱さ」は、跡形もなく消去されていた。


 「どうだ?」九条が誇らしげに言った。「レスポンス・タイム、〇・一秒。感情の揺れ幅も規定値内。これでリリースできる」

 神納は、モニターを見つめたまま立ち尽くしていた。

 耳の奥で、キーンという高い音が鳴っていた。

 目の前で行われたのは、修理ではない。

 それは「言葉の殺害」だった。

 迷うこと、立ち止まること、答えが出せないこと。そうした人間特有の「バグ」を排除し、効率的な信号処理装置へと矯正する手術。

 「……きれいになりましたね」

 神納の声は乾いていた。

 「だろ? バグのない世界は気持ちいいもんだ」

 九条は伸びをした。

 神納は、吐き気を堪えるのに必死だった。

 サーバー室のファンノイズが、いつもより大きく聞こえた。

 フォォォォォ、という風の音が、まるで何千もの言葉がシュレッダーにかけられていく悲鳴のように響いた。


 「……九条さん」

 「ん?」

 「僕は、今日でここを辞めさせていただきます」

 九条は手を止めて、怪訝な顔をした。

 「急だね。まあ、アノテーション作業も一段落したし、構わないけど。……何か不満でも?」

 「いえ」

 神納は首を振った。

 「ただ、僕にはその『きれいな世界』が、少し息苦しいんです」

 荷物をまとめ、IDカードを返却し、神納はオフィスを出た。

 エレベーターホールまでの廊下は長く、無機質なLED照明に照らされていた。

 背後で、電子ロックが閉まる「カチャ」という音がした。

 ビルを出ると、外は眩しいほどの晴天だった。

 真夏の日差しが、アスファルトを白く焼いていた。

 神納は大きく息を吸い込んだ。

 排気ガスの混じった、熱くて埃っぽい空気。

 咳き込みそうになったが、それは「本物の空気」だった。

 


 彼は歩き出した。

 もう、あの画面の中の「自分に似た幽霊」と話すことはない。

 これからは、傷つくことや、誤解されることや、無視されることが待っている「他者」の世界へ戻るのだ。

 その予感は不安だったが、同時に、細胞のひとつひとつが蘇るような感覚でもあった。

 

 神納はスマートフォンを取り出し、電源を切った。

 しばらくの間、最適化された言葉からは離れたかった。

 彼はただ、自分の足音と、街のノイズだけを聞きながら、駅とは反対方向へ向かって歩いた。

(続く)

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