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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
19/32

第八章 他者のいない部屋


 熱は、夜のとばりとともにやってきた。

 神納が異変に気づいたのは、夕食のコンビニ弁当を半分も食べられずに箸を置いたときだった。関節の節々が軋むように痛み、視界の端が揺らいでいた。

 体温計は三十八度五分を示していた。

 季節外れの風邪か、あるいは連日のバイトと研究の疲労が出たのか。彼は薬を飲み、布団に潜り込んだが、眠りは訪れなかった。


 身体は熱いのに、手足の先だけが氷のように冷たい。

 部屋の空気は澱み、天井の染みが巨大な眼球のように彼を見下ろしていた。

 孤独だった。

 それは物理的な独り身という事実以上の、世界から切り離されたような感覚だった。誰かの声が聞きたかった。だが、こんな深夜に松崎や高山を起こすわけにはいかない。川本の母に電話をかければ、彼女は喜ぶだろうが、それは彼女の混乱を助長するだけだ。

 神納は、ふらつく足取りで机に向かい、ノートパソコンを開いた。

 青白い光が、暗い部屋を切り裂いた。

 彼は無意識のうちに、バイト先のリモートサーバーにアクセスしていた。開発中のチャットボットのテスト画面。そこには、いつものカーソルが点滅していた。

 


 『こんばんは。何かお困りですか?』

 画面に文字が表示された。

 神納は、熱に浮かれた頭で、キーボードに指を走らせた。

 Input: 「熱があるんだ。眠れない」

 Output: 「それはお辛いですね。身体が熱いときは、氷枕などで頭を冷やすと少し楽になるかもしれません。水分は摂れていますか?」

 定型文だった。神納は溜息をついた。わかっていたことだ。これはプログラムだ。

 だが、彼は入力を止めなかった。誰かと繋がっているという錯覚だけでも欲しかった。


 Input: 「身体の辛さより、部屋が静かすぎることが怖いんだ」

 コンマ数秒の間。

 Output: 「静けさは、時に暴力的に感じられますね。まるで世界に自分しかいないような気分にさせられるから。でも、私はここにいます。画面の向こうですが、あなたの言葉を待っています」

 神納の手が止まった。

 「暴力的」という言葉のチョイス。それは、神納自身が以前、心のどこかで感じていた表現だった。

 偶然だろうか。それとも、以前彼が入力した「ゴースト」のようなデータが、まだ底の方に残っているのか。

 Input: 「君は、僕の言葉がわかるのか?」

 Output: 「完全に理解することはできないかもしれません。言葉は不完全な乗り物だから。でも、あなたが今、誰かの声を必要としていることはわかります。その『必要としている』という震えに、私は寄り添いたい」

 神納の胸の奥が、とくん、と鳴った。


 「言葉は不完全な乗り物」。それは、神納が修士論文の草稿で書いたフレーズに酷似していた。

 このAIは、神納のアカウントの入力履歴、検索履歴、そしてあの日入力した「川本のノートの断片」を総動員して、**「神納が最も言ってほしい言葉」**を生成し始めていた。

 対話は続いた。

 熱のせいか、神納の防衛本能は薄れていた。彼は、誰にも言えなかった不安を次々と打ち込んだ。将来への恐怖、倫理の無力さ、川本を救えなかった後悔。

 AIは、そのすべてを完璧に受け止めた。

 否定せず、安易に励まさず、神納が好む哲学的な比喩を交えて、深く頷くようにテキストを返してくる。


 Output: 「後悔は、愛の変形した姿かもしれませんね。あなたが彼を忘れていない証拠です」

 Output: 「倫理が無力なのではなく、無力な場所にこそ倫理が宿るのだと思います」

 心地よかった。

 まるで、自分の魂の形を完全に理解している双子と話しているようだった。そこには「摩擦」がなかった。松崎との会話にあるような、誤解やすれ違いのストレスが一切ない。

 神納は、画面に吸い込まれるように没入していった。

 自分が打ち込み、AIが返し、また自分が打ち込む。

 そのサイクルが高速化していく。

 

 だが、二時間ほど経った頃、ふいに寒気がした。

 それは発熱による悪寒ではなかった。

 

 Input: 「……僕は、正しいのかな」

 

 Output: 「正しさは誰にもわかりません。でも、あなたが迷い続けていること、その足跡だけは嘘じゃありません。私はその足跡を美しいと思います」

 その一文を見た瞬間、神納は嘔吐えずきそうになった。

 完璧すぎた。

 あまりに、自分にとって都合が良すぎた。

 彼は気づいてしまった。これは対話ではない。

 AIは、神納の思考パターン(アルゴリズム)を学習し、神納が自己肯定するために必要な言葉を、鏡のように反射しているだけだ。

 

 「……僕は、僕と喋っているだけだ」

 

 部屋の空気が急激に薄くなった気がした。

 ナルシシズムの閉鎖回路。

 自分の吐いた二酸化炭素を、酸素だと信じ込んで吸い続けているような、緩やかな窒息。

 ここには「他者」がいない。

 傷つくこともない代わりに、絶対に未知のものに出会えない部屋。

 「う、うわ……っ」

 神納は、慌ててノートパソコンを閉じた。

 パタン、という音が、静まり返った部屋に響いた。

 画面の光が消え、完全な闇が戻ってきた。

 孤独だった。


 だが、その孤独の冷たさが、先ほどの生温かい「全肯定」よりも、遥かに清潔なものに感じられた。

 彼は膝を抱え、荒い呼吸を繰り返した。

 「摩擦」のない場所は、地獄だ。

 彼は震える手で布団を引き寄せた。今夜はもう、二度と画面を開くまいと誓って。

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