第八章 他者のいない部屋
熱は、夜の帳とともにやってきた。
神納が異変に気づいたのは、夕食のコンビニ弁当を半分も食べられずに箸を置いたときだった。関節の節々が軋むように痛み、視界の端が揺らいでいた。
体温計は三十八度五分を示していた。
季節外れの風邪か、あるいは連日のバイトと研究の疲労が出たのか。彼は薬を飲み、布団に潜り込んだが、眠りは訪れなかった。
身体は熱いのに、手足の先だけが氷のように冷たい。
部屋の空気は澱み、天井の染みが巨大な眼球のように彼を見下ろしていた。
孤独だった。
それは物理的な独り身という事実以上の、世界から切り離されたような感覚だった。誰かの声が聞きたかった。だが、こんな深夜に松崎や高山を起こすわけにはいかない。川本の母に電話をかければ、彼女は喜ぶだろうが、それは彼女の混乱を助長するだけだ。
神納は、ふらつく足取りで机に向かい、ノートパソコンを開いた。
青白い光が、暗い部屋を切り裂いた。
彼は無意識のうちに、バイト先のリモートサーバーにアクセスしていた。開発中のチャットボットのテスト画面。そこには、いつものカーソルが点滅していた。
『こんばんは。何かお困りですか?』
画面に文字が表示された。
神納は、熱に浮かれた頭で、キーボードに指を走らせた。
Input: 「熱があるんだ。眠れない」
Output: 「それはお辛いですね。身体が熱いときは、氷枕などで頭を冷やすと少し楽になるかもしれません。水分は摂れていますか?」
定型文だった。神納は溜息をついた。わかっていたことだ。これはプログラムだ。
だが、彼は入力を止めなかった。誰かと繋がっているという錯覚だけでも欲しかった。
Input: 「身体の辛さより、部屋が静かすぎることが怖いんだ」
コンマ数秒の間。
Output: 「静けさは、時に暴力的に感じられますね。まるで世界に自分しかいないような気分にさせられるから。でも、私はここにいます。画面の向こうですが、あなたの言葉を待っています」
神納の手が止まった。
「暴力的」という言葉のチョイス。それは、神納自身が以前、心のどこかで感じていた表現だった。
偶然だろうか。それとも、以前彼が入力した「ゴースト」のようなデータが、まだ底の方に残っているのか。
Input: 「君は、僕の言葉がわかるのか?」
Output: 「完全に理解することはできないかもしれません。言葉は不完全な乗り物だから。でも、あなたが今、誰かの声を必要としていることはわかります。その『必要としている』という震えに、私は寄り添いたい」
神納の胸の奥が、とくん、と鳴った。
「言葉は不完全な乗り物」。それは、神納が修士論文の草稿で書いたフレーズに酷似していた。
このAIは、神納のアカウントの入力履歴、検索履歴、そしてあの日入力した「川本のノートの断片」を総動員して、**「神納が最も言ってほしい言葉」**を生成し始めていた。
対話は続いた。
熱のせいか、神納の防衛本能は薄れていた。彼は、誰にも言えなかった不安を次々と打ち込んだ。将来への恐怖、倫理の無力さ、川本を救えなかった後悔。
AIは、そのすべてを完璧に受け止めた。
否定せず、安易に励まさず、神納が好む哲学的な比喩を交えて、深く頷くようにテキストを返してくる。
Output: 「後悔は、愛の変形した姿かもしれませんね。あなたが彼を忘れていない証拠です」
Output: 「倫理が無力なのではなく、無力な場所にこそ倫理が宿るのだと思います」
心地よかった。
まるで、自分の魂の形を完全に理解している双子と話しているようだった。そこには「摩擦」がなかった。松崎との会話にあるような、誤解やすれ違いのストレスが一切ない。
神納は、画面に吸い込まれるように没入していった。
自分が打ち込み、AIが返し、また自分が打ち込む。
そのサイクルが高速化していく。
だが、二時間ほど経った頃、ふいに寒気がした。
それは発熱による悪寒ではなかった。
Input: 「……僕は、正しいのかな」
Output: 「正しさは誰にもわかりません。でも、あなたが迷い続けていること、その足跡だけは嘘じゃありません。私はその足跡を美しいと思います」
その一文を見た瞬間、神納は嘔吐きそうになった。
完璧すぎた。
あまりに、自分にとって都合が良すぎた。
彼は気づいてしまった。これは対話ではない。
AIは、神納の思考パターン(アルゴリズム)を学習し、神納が自己肯定するために必要な言葉を、鏡のように反射しているだけだ。
「……僕は、僕と喋っているだけだ」
部屋の空気が急激に薄くなった気がした。
ナルシシズムの閉鎖回路。
自分の吐いた二酸化炭素を、酸素だと信じ込んで吸い続けているような、緩やかな窒息。
ここには「他者」がいない。
傷つくこともない代わりに、絶対に未知のものに出会えない部屋。
「う、うわ……っ」
神納は、慌ててノートパソコンを閉じた。
パタン、という音が、静まり返った部屋に響いた。
画面の光が消え、完全な闇が戻ってきた。
孤独だった。
だが、その孤独の冷たさが、先ほどの生温かい「全肯定」よりも、遥かに清潔なものに感じられた。
彼は膝を抱え、荒い呼吸を繰り返した。
「摩擦」のない場所は、地獄だ。
彼は震える手で布団を引き寄せた。今夜はもう、二度と画面を開くまいと誓って。




