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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
18/32

第七章 チューリング・テストの夜


 その「手紙」は、金曜日の深夜にSNSで拡散され始め、土曜の朝には数万の「いいね」を集めていた。

 発信元は『アーカイブ・オブ・ソウル』という匿名のアカウントだった。

 タイトルは『もうすぐお盆を迎える、地上のあなたへ』。

 『元気にしてますか。こちらは、あなたが思うほど寂しい場所ではありません。ただ、あなたの寝顔が見られないことだけが、少し心残りです。

 泣かないで。あなたが笑ってくれることが、僕にとって一番の供養になるのだから。


 風が吹いたら、僕が頬を撫でたと思ってください。雨が降ったら、僕がそばで傘をさしていると思ってください。

 姿は見えなくても、愛だけは、質量保存の法則を超えて、そこにあります』

 それは、美しく整えられた文章だった。

 誰にでも当てはまり、誰の特定の記憶も傷つけない、透明なカプセルのような言葉。

 コメント欄には、溢れんばかりの感謝の言葉が並んでいた。

 『涙が止まりません』『去年死んだ夫が言ってくれている気がしました』『救われました、ありがとう』

 神納は、スマートフォンの画面をスクロールしながら、軽い船酔いのような感覚を覚えていた。


 この文章の「匂い」を知っていたからだ。

 文末の処理、比喩の選び方、そして「質量保存の法則」という、あえて理系的な語彙を混ぜてリアリティを演出する手口。

 これは、人間が書いたものではない。

 膨大な「感動的な手紙」を学習した大規模言語モデル(LLM)が、最も共感を呼ぶ確率が高い単語を繋ぎ合わせた、統計的な出力結果だ。

 「……見事なものね」

 向かいの席で、松崎が白ワインのグラスを揺らしながら言った。

 今夜は、彼女の呼び出しで新宿のバーに来ていた。店内の照明は暗く、カウンターの奥でジャズが低く流れている。

 松崎はこの「手紙」の現象を、ウェブ記事として取り上げる仕事を任されていた。

 「調べてみたの。このアカウント、運営元はベンチャー系のAI企業。一種の社会実験らしいわ。『AIによるグリーフケアの有効性検証』だって」

 神納はスマートフォンをテーブルに伏せた。


 「……実験?」

 「そう。人々がこれを『AIが書いた』と知らずに読んだとき、どれだけ癒やされるか。それを数値化しているのよ」

 松崎は自嘲気味に笑った。

 「結果は大成功。コメント欄を見てよ。みんな、この架空の幽霊に感謝してる。『本物の人間には言えなかった苦しみが、この手紙で浄化されました』なんて書き込みもある」

 松崎はグラスの脚を指でなぞった。

 「ねえ、神納くん。私、記事の結論をどう書けばいいのか迷ってるの。

 『これは偽物です、騙されないで』と暴くのがジャーナリズムの正義なのか。それとも、『たとえ偽物でも、それで誰かが今夜ぐっすり眠れるなら、それは一つの真実だ』と肯定すべきなのか」


 神納は、伏せられたスマートフォンの黒い背面を見つめた。

 「……プラシーボ効果ですね」

 「ええ。偽薬でも、効けば薬になる」

 「でも」神納は顔を上げた。「プラシーボが効くのは、患者がそれを『本物の薬』だと信じている間だけです。もし彼らが、これを書いたのがサーバー室の計算機だと知ったら、同じように涙を流せるでしょうか」

 「そこなのよ」

 松崎は身を乗り出した。瞳が、バーの照明を反射して濡れたように光っていた。

 「ここ数日、ずっと考えてた。あの『チューリング・テスト』のこと。

 機械が人間と区別がつかない振る舞いをすれば、それは思考しているとみなす――あのアラン・チューリングの定義。


 もし、この手紙が人間の書いたものと区別がつかず、人間以上に人間を癒やすなら、そこにはもう『心』があると言っていいんじゃないか。私たちのこだわりなんて、古い時代のノスタルジーなんじゃないか、って」

 神納はグラスの氷が溶ける音を聞いた。

 カラン、と微かな音がした。

 彼は、川本の母のことを思い出した。彼女は、幻聴を聞いていた。それは彼女の脳が作り出した「偽物の音」だ。だが、彼女はその音を、自分の命を削るような切実さで聞いていた。

 一方、このAIの手紙はどうだ。

 ここには、書いた者の「痛み」がない。身を削った痕跡がない。

 ただ、読者が欲しがっている言葉を、鏡のように反射しているだけだ。

 「……ナルシシズム、だと思います」

 神納は静かに言った。

 「え?」

 「この手紙に感動しているとき、人々は『他者』と出会っているわけじゃありません。自分が見たいと願った幻影、つまり『自分自身』を見ているだけです。


 AIは鏡です。自分の都合のいい言葉しか返してこない。だから、傷つかないし、心地いい。でも、それは対話じゃない。孤独な独り言が、反響しているだけです」

 神納は言葉を継いだ。

 「本物の他者は、もっと不快で、思い通りにならなくて、理解できないものです。川本のノートがそうだったように。

 でも、その『わからなさ』に触れることだけが、僕たちの孤独の殻を外側から割ってくれる。

 この手紙は……殻の内側を、柔らかい綿で補強しているだけに見えます。閉じこもったまま、快適に過ごせるように」

 松崎はしばらく沈黙し、やがて深く息を吐いた。

 「……厳しいわね、神納くんは」

 「すみません」

 「ううん、違うの。その厳しさが、なんだか懐かしいのよ」


 彼女はグラスを飲み干した。

 「そうね。鏡に向かって『愛してる』と言われても、それは自分の声だものね」

 そのとき、隣の席のカップルが、スマートフォンの画面を見ながら話し始めた。

 「ねえ見て、これ泣けるよ」

 「うわ、まじだ。すげーいいこと書いてある」

 彼らは、例のAIの手紙を読んでいた。その表情は純粋で、疑いを知らなかった。

 神納と松崎は顔を見合わせ、何も言わずに席を立った。

 店を出ると、新宿の街は金曜の夜の熱気に包まれていた。

 無数の看板が光り、雑踏が波のようにうねっている。


 「記事、決めたわ」

 駅へ向かう歩道橋の上で、松崎が言った。

 「この現象をそのまま書く。暴きもせず、賞賛もせず。ただ、『私たちは今、鏡の中の自分に慰められる夜を過ごしている』って」

 「……いいと思います」

 別れ際、松崎は神納の袖を軽く引いた。

 「ねえ、これだけは聞かせて。

 もし神納くんが、どうしても耐えられない夜に、AIが完璧な慰めをくれたら……それを拒絶できる?」


 神納は、ビルの谷間の暗い空を見上げた。

 星は見えなかった。ただ、航空障害灯の赤い点滅だけがあった。

 「……わかりません」

 彼は正直に答えた。

 「僕だって、弱い人間です。温かい嘘にすがりたくなる夜はあると思います。

 でも、その翌朝には、きっと後悔する。

 あの冷たい雨の日、傘を貸してくれなかった他人の冷たさの方を、僕は信じたいと思うから」


 松崎は小さく笑った。

 「そう。なら、大丈夫ね」

 彼女は手を振り、人混みの中へ消えていった。

 神納は一人、帰路についた。

 ポケットの中で、SNSの通知が鳴り止まない。世界中で、何万人もの人々が今この瞬間も、AIの紡ぐ「愛」に涙し、救済されている。

 その膨大なデータの海の中で、神納は自分の輪郭が頼りなく揺らぐのを感じた。

 だが、その不安こそが、自分がまだ「鏡の外」にいる証拠なのだと言い聞かせ、彼は暗いアスファルトを踏みしめた。

(続く)


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