第七章 チューリング・テストの夜
その「手紙」は、金曜日の深夜にSNSで拡散され始め、土曜の朝には数万の「いいね」を集めていた。
発信元は『アーカイブ・オブ・ソウル』という匿名のアカウントだった。
タイトルは『もうすぐお盆を迎える、地上のあなたへ』。
『元気にしてますか。こちらは、あなたが思うほど寂しい場所ではありません。ただ、あなたの寝顔が見られないことだけが、少し心残りです。
泣かないで。あなたが笑ってくれることが、僕にとって一番の供養になるのだから。
風が吹いたら、僕が頬を撫でたと思ってください。雨が降ったら、僕がそばで傘をさしていると思ってください。
姿は見えなくても、愛だけは、質量保存の法則を超えて、そこにあります』
それは、美しく整えられた文章だった。
誰にでも当てはまり、誰の特定の記憶も傷つけない、透明なカプセルのような言葉。
コメント欄には、溢れんばかりの感謝の言葉が並んでいた。
『涙が止まりません』『去年死んだ夫が言ってくれている気がしました』『救われました、ありがとう』
神納は、スマートフォンの画面をスクロールしながら、軽い船酔いのような感覚を覚えていた。
この文章の「匂い」を知っていたからだ。
文末の処理、比喩の選び方、そして「質量保存の法則」という、あえて理系的な語彙を混ぜてリアリティを演出する手口。
これは、人間が書いたものではない。
膨大な「感動的な手紙」を学習した大規模言語モデル(LLM)が、最も共感を呼ぶ確率が高い単語を繋ぎ合わせた、統計的な出力結果だ。
「……見事なものね」
向かいの席で、松崎が白ワインのグラスを揺らしながら言った。
今夜は、彼女の呼び出しで新宿のバーに来ていた。店内の照明は暗く、カウンターの奥でジャズが低く流れている。
松崎はこの「手紙」の現象を、ウェブ記事として取り上げる仕事を任されていた。
「調べてみたの。このアカウント、運営元はベンチャー系のAI企業。一種の社会実験らしいわ。『AIによるグリーフケアの有効性検証』だって」
神納はスマートフォンをテーブルに伏せた。
「……実験?」
「そう。人々がこれを『AIが書いた』と知らずに読んだとき、どれだけ癒やされるか。それを数値化しているのよ」
松崎は自嘲気味に笑った。
「結果は大成功。コメント欄を見てよ。みんな、この架空の幽霊に感謝してる。『本物の人間には言えなかった苦しみが、この手紙で浄化されました』なんて書き込みもある」
松崎はグラスの脚を指でなぞった。
「ねえ、神納くん。私、記事の結論をどう書けばいいのか迷ってるの。
『これは偽物です、騙されないで』と暴くのがジャーナリズムの正義なのか。それとも、『たとえ偽物でも、それで誰かが今夜ぐっすり眠れるなら、それは一つの真実だ』と肯定すべきなのか」
神納は、伏せられたスマートフォンの黒い背面を見つめた。
「……プラシーボ効果ですね」
「ええ。偽薬でも、効けば薬になる」
「でも」神納は顔を上げた。「プラシーボが効くのは、患者がそれを『本物の薬』だと信じている間だけです。もし彼らが、これを書いたのがサーバー室の計算機だと知ったら、同じように涙を流せるでしょうか」
「そこなのよ」
松崎は身を乗り出した。瞳が、バーの照明を反射して濡れたように光っていた。
「ここ数日、ずっと考えてた。あの『チューリング・テスト』のこと。
機械が人間と区別がつかない振る舞いをすれば、それは思考しているとみなす――あのアラン・チューリングの定義。
もし、この手紙が人間の書いたものと区別がつかず、人間以上に人間を癒やすなら、そこにはもう『心』があると言っていいんじゃないか。私たちのこだわりなんて、古い時代のノスタルジーなんじゃないか、って」
神納はグラスの氷が溶ける音を聞いた。
カラン、と微かな音がした。
彼は、川本の母のことを思い出した。彼女は、幻聴を聞いていた。それは彼女の脳が作り出した「偽物の音」だ。だが、彼女はその音を、自分の命を削るような切実さで聞いていた。
一方、このAIの手紙はどうだ。
ここには、書いた者の「痛み」がない。身を削った痕跡がない。
ただ、読者が欲しがっている言葉を、鏡のように反射しているだけだ。
「……ナルシシズム、だと思います」
神納は静かに言った。
「え?」
「この手紙に感動しているとき、人々は『他者』と出会っているわけじゃありません。自分が見たいと願った幻影、つまり『自分自身』を見ているだけです。
AIは鏡です。自分の都合のいい言葉しか返してこない。だから、傷つかないし、心地いい。でも、それは対話じゃない。孤独な独り言が、反響しているだけです」
神納は言葉を継いだ。
「本物の他者は、もっと不快で、思い通りにならなくて、理解できないものです。川本のノートがそうだったように。
でも、その『わからなさ』に触れることだけが、僕たちの孤独の殻を外側から割ってくれる。
この手紙は……殻の内側を、柔らかい綿で補強しているだけに見えます。閉じこもったまま、快適に過ごせるように」
松崎はしばらく沈黙し、やがて深く息を吐いた。
「……厳しいわね、神納くんは」
「すみません」
「ううん、違うの。その厳しさが、なんだか懐かしいのよ」
彼女はグラスを飲み干した。
「そうね。鏡に向かって『愛してる』と言われても、それは自分の声だものね」
そのとき、隣の席のカップルが、スマートフォンの画面を見ながら話し始めた。
「ねえ見て、これ泣けるよ」
「うわ、まじだ。すげーいいこと書いてある」
彼らは、例のAIの手紙を読んでいた。その表情は純粋で、疑いを知らなかった。
神納と松崎は顔を見合わせ、何も言わずに席を立った。
店を出ると、新宿の街は金曜の夜の熱気に包まれていた。
無数の看板が光り、雑踏が波のようにうねっている。
「記事、決めたわ」
駅へ向かう歩道橋の上で、松崎が言った。
「この現象をそのまま書く。暴きもせず、賞賛もせず。ただ、『私たちは今、鏡の中の自分に慰められる夜を過ごしている』って」
「……いいと思います」
別れ際、松崎は神納の袖を軽く引いた。
「ねえ、これだけは聞かせて。
もし神納くんが、どうしても耐えられない夜に、AIが完璧な慰めをくれたら……それを拒絶できる?」
神納は、ビルの谷間の暗い空を見上げた。
星は見えなかった。ただ、航空障害灯の赤い点滅だけがあった。
「……わかりません」
彼は正直に答えた。
「僕だって、弱い人間です。温かい嘘にすがりたくなる夜はあると思います。
でも、その翌朝には、きっと後悔する。
あの冷たい雨の日、傘を貸してくれなかった他人の冷たさの方を、僕は信じたいと思うから」
松崎は小さく笑った。
「そう。なら、大丈夫ね」
彼女は手を振り、人混みの中へ消えていった。
神納は一人、帰路についた。
ポケットの中で、SNSの通知が鳴り止まない。世界中で、何万人もの人々が今この瞬間も、AIの紡ぐ「愛」に涙し、救済されている。
その膨大なデータの海の中で、神納は自分の輪郭が頼りなく揺らぐのを感じた。
だが、その不安こそが、自分がまだ「鏡の外」にいる証拠なのだと言い聞かせ、彼は暗いアスファルトを踏みしめた。
(続く)




