第六章 忘却の技法
六月の空気は、水分をたっぷりと含んだスポンジのように重かった。
神納が川本の母の家を訪ねたのは、一ヶ月ぶりのことだった。手土産の和菓子が入った紙袋の底が、湿気で少し柔らかくなっているのを指先に感じながら、彼はインターホンを押した。
いつもなら、すぐに「はーい」という穏やかな声が返ってくるはずだった。だが、今日は反応が遅かった。二度目を押そうかと迷った頃、ようやくドアが開いた。
「……ああ、神納さん」
顔を出した母親は、以前よりも少し痩せて見えた。着ているカーディガンのボタンが一つ掛け違っていることに、神納は気づいたが、視線をそこから逸らした。
「すみません、急に押しかけて」
「いいえ、いいのよ。……ちょうど、あの子も帰ってくる頃だと思っていたから」
「え?」
神納は顔を上げた。
彼女はふわりと微笑んでいた。その笑顔には、冗談を言っている風情も、言い間違えたことへの照れもなかった。まるで「雨が降りそうですね」と言うのと同じ平熱で、死んだ息子の帰宅を口にしたのだった。
通された居間は、どこか雑然としていた。
以前は塵一つなく整えられていた飾り棚には、請求書の封筒やチラシが無造作に積まれていた。そして、いつもその中央に置かれていた川本の写真は、なぜか伏せられていた。
「お茶を淹れますね」
彼女は台所へ向かった。
神納は座布団に座り、庭の方を見た。
ガラス戸の向こうで、ツツジの植え込みが茶色く変色していた。春には鮮やかなピンク色を誇っていた花弁はとうに落ち、今は伸び放題の枝が、枯れたまま放置されている。
手入れがされていない。
その事実が、この家の中で静かに進行している「何か」を雄弁に物語っていた。
「どうぞ」
運ばれてきた湯呑みからは、ほうじ茶の香りがした。
彼女は向かいに座ると、愛おしそうに神納の顔を見た。
「大学院は、どう? 忙しいの?」
「ええ、まあ。今は少し、学外で仕事もしていて」
「そう……偉いわね。昔から、あなたは真面目だったものね」
彼女は目を細めた。
「高校のときも、部活が終わるとすぐ帰ってきて、机に向かって……」
神納は茶を啜る手を止めた。
自分は、川本とは大学からの付き合いだ。高校時代の彼を知らない。
彼女は今、神納を通して「誰」を見ているのだろうか。
「お母さん」
神納は慎重に声をかけた。
「僕は、神納です。川本くんの、友人の」
「ええ、わかっているわよ」
彼女はきょとんとした顔をした。
「神納さんでしょう? ……でも、たまにわからなくなるの。あの子が遠くへ行ったのか、あなたが近くに来てくれたのか」
彼女は湯呑みを両手で包み込んだ。
「最近ね、記憶が、砂みたいにサラサラとこぼれていくの。大事なことだったはずなのに、手の中に残らない。でもね、不思議と怖くはないの」
彼女の視線は、伏せられた写真立ての方へ漂った。
「あの子がいなくなった日、私は悲しくて、悲しくて、息をするのも辛かった。
でも最近、あの子が『死んだ』という事実のほうが、先にこぼれ落ちてしまったみたいなの。だから、夕方になると『もうすぐ帰ってくる』って思える。……そのほうが、幸せなのよ」
神納は言葉を失った。
雨宮医師の言葉が蘇る。『脳が、不在を認めまいとする抵抗の証』。
彼女の脳は、耐え難い苦痛から身を守るために、現実という回路を自ら遮断したのだ。事実を誤認することは、彼女にとっての「生存戦略」であり、一種の麻酔だった。
これを「エラー」と呼んで、修正すべきだろうか?
「川本くんはもういません」「目を覚ましてください」と、正しい事実を突きつけることは、九条がAIのバグを修正した行為と同じではないか。
「正常」であることの暴力性。
神納は、自分の中に湧き上がる「訂正したい」という衝動を、ぐっと飲み込んだ。
「……そうですね」
神納は言った。
「きっと、近くにいるんだと思います。見えなくても」
それは嘘だった。哲学的にも、科学的にも、不誠実な迎合だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、彼女の顔に差した安堵の色を見て、神納はこれこそが今の自分にできる唯一の倫理的応答だと確信した。
「よかった」
彼女は呟いた。
「神納さんがそう言ってくれるなら、きっとそうなのね」
帰り際、神納は庭のツツジを指差して言った。
「この枝、少し剪定してもいいですか? 伸びすぎると、来年、花がつきにくくなるので」
「あら、悪いわねえ。お願いできる?」
神納は物置から錆びた剪定ばさみを借り、伸び放題になった枝を切り落とした。
パチン、パチン、と硬い音が庭に響く。
枯れた枝を落とし、風通しを良くする。それは、彼女の脳内で起きている「忘却」という剪定作業と重なって思えた。
悲しみという葉が茂りすぎて、光が届かなくなった心。そこへ光を入れるために、彼女の脳は「事実」の方を切り落としたのだ。
作業を終え、汗を拭っていると、縁側から彼女が見ていた。
「ありがとう。……さっぱりしたわ」
その目は、少しだけ焦点が合っているように見えた。
「神納さん。……また、遊びに来てね。あの子の話、聞かせてちょうだい」
「はい。また来ます」
神納は家を辞した。
夕暮れの空には、また重たい雲が垂れ込めていた。
だが、その下を歩く足取りは、来る時よりもわずかに軽かった。
人間は、壊れていく。
記憶は摩耗し、論理は破綻し、事実は歪んでいく。
だが、その「壊れ方」にさえ、その人が生きようとする切実な手触りが残っている。
AIはバグを許さない。だが、人間はバグを抱えたまま、それを「救い」という名の杖に変えて歩いていける。
神納は、自分の掌に残る剪定ばさみの鉄の臭いを嗅いだ。
それは、冷たくて、錆びついていて、ひどく人間臭い匂いだった。
駅へ向かう途中、彼はふと、松崎に連絡したくなった。
言葉で伝える必要はない。ただ、この錆びた匂いの感覚を、誰かと共有したかった。
彼は空を見上げ、長く息を吐いた。
忘却の技法。
それは、残酷で、優しい、生きるための最後の手段なのだ。
(続く)




