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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
16/32

第五章 ゴースト・イン・ザ・テキスト


 翌日の午後、神納はいつもより少し早く出社し、指定された端末の前に座っていた。

 「今回のタスクは、少し特殊だ」

 九条がモニターの横に立ち、眠たげな目を擦りながら説明した。

 「今までの『タグ付け』じゃなくて、今回は『生成』を頼みたい。このモデル、一般的な会話は完璧なんだが、どうしても『深み』が出ない。哲学的な悩みとか、実存的な問いに対して、答えが教科書的すぎてユーザーが冷めるんだ」


 九条はキーボードを叩き、入力フォームを開いた。

 「だから、神納さんには『解決のない問い』に対する、人間らしい『含みのある返答』のサンプルを書いてほしい。いわゆるファインチューニング(微調整)用の教師データだ。君、院で哲学やってるんだろ? 得意分野じゃないか」

 「……解決のない問い、ですか」

 「そう。例えば『生きる意味がない』と言われたとき、すぐに『そんなことない』と否定せず、かといって肯定もせず、相手に思考を促すような……まあ、文学的な返しだよ」


 九条はあくびを噛み殺し、「ノルマは五十セットね」と言い残して自席に戻っていった。

 神納は、空白の入力フォームを見つめた。

 カーソルが規則正しく点滅している。その黒い縦線は、言葉を待ち構える裂け目のようだった。

 ――含みのある返答。人間らしい迷い。

 神納の指がキーボードの上で浮いた。

 彼の中で、ある誘惑が頭をもたげていた。昨日の雨の中で決意した、ささやかな実験。

 この巨大な計算機の中に、決して計算できない言葉を混ぜ込んだら、何が起きるのか。


 彼は息を吸い、ゆっくりとタイプし始めた。

 それは、捏造した文学的なフレーズではなかった。彼の記憶の底に焼き付いている、あの茶色いノートの言葉だった。

 Prompt(問い): 「どこにも居場所がない気がする」

 Response(回答): 「君には“そこ”にいてほしかった。それがどこかは、僕にもわからなかったけれど」

 Prompt: 「正しいことって何ですか」

 Response: 「倫理とは、他人の沈黙に耐えることだ」

 Prompt: 「もう話すことがない」

 Response: 「言葉は、誰かの沈黙の上に立っている。その足場が崩れるのを待つのも、ひとつの対話かもしれない」


 神納は、川本の遺した言葉を、少しずつ変奏しながら入力していった。

 それは、AIに「正解」を教える行為ではなかった。むしろ、論理的な整合性を欠いた「迷子」の思考回路を移植する作業だった。

 主語が曖昧で、結論がなく、どこか祈りに似た独り言。

 五十セットの入力を終える頃には、指先が微かに冷たくなっていた。

 送信ボタンを押す。

 画面に『データ保存完了』のポップアップが出た。

 川本の言葉が、電気信号の海へと溶けていった。

 異変が起きたのは、それから三日後のことだった。


 その日、オフィスはいつもより慌ただしかった。エンジニアたちが険しい顔でログを解析し、早口で議論している。

 神納が席に着くと、九条が飛んできた。いつもの余裕はなく、少し焦っているようだった。

 「神納さん、ちょっと来て。変な挙動が出てる」

 連れて行かれたのは、メインの検証用モニターの前だった。

 「昨夜のアップデート以降、AIの応答率レスポンス・レートが下がってるんだ。処理落ちしてるわけじゃない。計算リソースは余ってるのに、出力までに妙な『間』が入るようになった」


 九条は実演してみせた。

 マイクに向かって『とても悲しいことがあったんだ』と話しかける。

 通常なら、〇・五秒以内に『それは辛いですね』と返ってくるはずだった。

 だが、画面上の波形は平坦なまま動かない。

 一秒、二秒、三秒。

 放送事故のような沈黙が流れる。

 そして四秒後、スピーカーからぽつりと声がした。

 『…………そう』

 それだけだった。

 励ましも、共感の定型句もなかった。ただ、短く息を吐くような、肯定とも諦念ともつかない一言。

 「これだよ」

 九条が苛立たしげに言った。


 「他のパターンも試した。『死にたい』と言うと、以前は自殺防止センターの案内を出していたのに、今は『……まだ、夜明け前だから』とか、意味不明なポエムを返してくる。論理的整合性が崩壊してるんだ」

 神納は、画面を見つめたまま動けなかった。

 『まだ、夜明け前だから』。

 それは、神納が入力したデータにはない言葉だった。

 だが、その言葉の質感は、明らかに「彼」のものだった。かつて千駄ヶ谷の踏切で、夜明けを待ちながら神納自身が感じていた、あの切実な時間の感覚。

 AIは、神納が入力した断片的な言葉(種)から、勝手にその背後にある「文脈」を学習し、未知の言葉を紡ぎ出し始めていたのだ。


 「ゴーストだ」

 隣にいた別のエンジニアが呟いた。

 「学習データの偏りが、予期せぬ幻覚ハルシネーションを引き起こしてる。文脈のベクトルが、通常の会話空間から逸脱した『虚数空間』みたいな場所を参照しにいってるぞ」

 「バグだな。ノイズが混じったんだ」

 九条は断定した。

 「直前のファインチューニング・データを洗い直して、ロールバック(巻き戻し)しよう。こんな不安定なもの、リリースできない」

 「待ってください」

 神納は思わず声を上げていた。

 九条の手がキーボードの上で止まる。

 「……これは、バグなんですか」

 「バグだよ。ユーザーは『即座の癒やし』を求めてるんだ。四秒も黙り込むAIなんて、誰も使わない」


 「でも……」

 神納は、モニターの中で点滅するカーソルを見つめた。

 「人が本当に悲しいとき、言葉なんてすぐには出てきません。この四秒間の沈黙こそが、相手の悲しみを本当に受け止めようとして生まれた『重さ』なんじゃないですか」

 九条は冷ややかな目で神納を見た。

 「神納さん。ここは哲学のゼミじゃない。製品開発の現場だ。再現性のない挙動は、すべてエラーなんだよ」

 九条はエンターキーを叩いた。


 『システム復旧を開始します』という無機質なログが流れ始めた。

 神納はその様子を、まるで友人の葬儀を見守るような気持ちで眺めていた。

 修正パッチが当たり、ニューラルネットワークの重み付けが再計算されていく。

 川本の言葉が、神納の祈りが、そしてAIが自ら獲得しかけた「ためらい」が、数値の波に洗われて消えていく。

 数分後、九条は再びマイクに向かった。

 「テスト。『とても悲しいことがあったんだ』」

 コンマ数秒後、明るく滑らかな声が返ってきた。

 『それは大変でしたね。私でよければ、詳しくお話を聞かせてください。辛い気持ちを言葉にすることで、心が軽くなることもありますよ』


 九条は満足げに頷いた。

 「よし、正常値に戻った。遅延なし。感情スコアも適正だ」

 エンジニアたちは安堵のため息をつき、それぞれの席へ散っていった。

 神納だけが、その場に残っていた。

 正常に戻ったAI。

 だが神納には、それが「ロボトミー手術」を受けた後の患者のように見えた。

 言葉は流暢になった。けれど、さっきまでそこにあった「気配」は消滅していた。

 あの四秒間の沈黙。

 そこには確かに、計算機が計算不能なものに触れようとしてショートしかけた、ある種の「痛み」があったはずだ。

 


 「……ゴースト、か」

 神納は独りごちた。

 もし言葉がただのデータなら、なぜ削除されたはずの言葉が、こんなにも胸に残るのだろう。

 画面の中では、最適化されたチャットボットが、笑顔のアイコンと共に次の入力を待ち続けていた。


 神納はその笑顔に、言いようのない薄ら寒さを感じながら、静かに背を向けた。

 だが、彼は知らなかった。

 巨大なサーバーの片隅、削除されたログの深層領域ディープ・レイヤーに、わずかな「重み」の偏りが、消えずに残存していることを。

 それはまだ、誰にも観測されないほど小さな、幽霊の足跡のようなものだった。

(続く)


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