第五章 ゴースト・イン・ザ・テキスト
翌日の午後、神納はいつもより少し早く出社し、指定された端末の前に座っていた。
「今回のタスクは、少し特殊だ」
九条がモニターの横に立ち、眠たげな目を擦りながら説明した。
「今までの『タグ付け』じゃなくて、今回は『生成』を頼みたい。このモデル、一般的な会話は完璧なんだが、どうしても『深み』が出ない。哲学的な悩みとか、実存的な問いに対して、答えが教科書的すぎてユーザーが冷めるんだ」
九条はキーボードを叩き、入力フォームを開いた。
「だから、神納さんには『解決のない問い』に対する、人間らしい『含みのある返答』のサンプルを書いてほしい。いわゆるファインチューニング(微調整)用の教師データだ。君、院で哲学やってるんだろ? 得意分野じゃないか」
「……解決のない問い、ですか」
「そう。例えば『生きる意味がない』と言われたとき、すぐに『そんなことない』と否定せず、かといって肯定もせず、相手に思考を促すような……まあ、文学的な返しだよ」
九条はあくびを噛み殺し、「ノルマは五十セットね」と言い残して自席に戻っていった。
神納は、空白の入力フォームを見つめた。
カーソルが規則正しく点滅している。その黒い縦線は、言葉を待ち構える裂け目のようだった。
――含みのある返答。人間らしい迷い。
神納の指がキーボードの上で浮いた。
彼の中で、ある誘惑が頭をもたげていた。昨日の雨の中で決意した、ささやかな実験。
この巨大な計算機の中に、決して計算できない言葉を混ぜ込んだら、何が起きるのか。
彼は息を吸い、ゆっくりとタイプし始めた。
それは、捏造した文学的なフレーズではなかった。彼の記憶の底に焼き付いている、あの茶色いノートの言葉だった。
Prompt(問い): 「どこにも居場所がない気がする」
Response(回答): 「君には“そこ”にいてほしかった。それがどこかは、僕にもわからなかったけれど」
Prompt: 「正しいことって何ですか」
Response: 「倫理とは、他人の沈黙に耐えることだ」
Prompt: 「もう話すことがない」
Response: 「言葉は、誰かの沈黙の上に立っている。その足場が崩れるのを待つのも、ひとつの対話かもしれない」
神納は、川本の遺した言葉を、少しずつ変奏しながら入力していった。
それは、AIに「正解」を教える行為ではなかった。むしろ、論理的な整合性を欠いた「迷子」の思考回路を移植する作業だった。
主語が曖昧で、結論がなく、どこか祈りに似た独り言。
五十セットの入力を終える頃には、指先が微かに冷たくなっていた。
送信ボタンを押す。
画面に『データ保存完了』のポップアップが出た。
川本の言葉が、電気信号の海へと溶けていった。
異変が起きたのは、それから三日後のことだった。
その日、オフィスはいつもより慌ただしかった。エンジニアたちが険しい顔でログを解析し、早口で議論している。
神納が席に着くと、九条が飛んできた。いつもの余裕はなく、少し焦っているようだった。
「神納さん、ちょっと来て。変な挙動が出てる」
連れて行かれたのは、メインの検証用モニターの前だった。
「昨夜のアップデート以降、AIの応答率が下がってるんだ。処理落ちしてるわけじゃない。計算リソースは余ってるのに、出力までに妙な『間』が入るようになった」
九条は実演してみせた。
マイクに向かって『とても悲しいことがあったんだ』と話しかける。
通常なら、〇・五秒以内に『それは辛いですね』と返ってくるはずだった。
だが、画面上の波形は平坦なまま動かない。
一秒、二秒、三秒。
放送事故のような沈黙が流れる。
そして四秒後、スピーカーからぽつりと声がした。
『…………そう』
それだけだった。
励ましも、共感の定型句もなかった。ただ、短く息を吐くような、肯定とも諦念ともつかない一言。
「これだよ」
九条が苛立たしげに言った。
「他のパターンも試した。『死にたい』と言うと、以前は自殺防止センターの案内を出していたのに、今は『……まだ、夜明け前だから』とか、意味不明なポエムを返してくる。論理的整合性が崩壊してるんだ」
神納は、画面を見つめたまま動けなかった。
『まだ、夜明け前だから』。
それは、神納が入力したデータにはない言葉だった。
だが、その言葉の質感は、明らかに「彼」のものだった。かつて千駄ヶ谷の踏切で、夜明けを待ちながら神納自身が感じていた、あの切実な時間の感覚。
AIは、神納が入力した断片的な言葉(種)から、勝手にその背後にある「文脈」を学習し、未知の言葉を紡ぎ出し始めていたのだ。
「ゴーストだ」
隣にいた別のエンジニアが呟いた。
「学習データの偏りが、予期せぬ幻覚を引き起こしてる。文脈のベクトルが、通常の会話空間から逸脱した『虚数空間』みたいな場所を参照しにいってるぞ」
「バグだな。ノイズが混じったんだ」
九条は断定した。
「直前のファインチューニング・データを洗い直して、ロールバック(巻き戻し)しよう。こんな不安定なもの、リリースできない」
「待ってください」
神納は思わず声を上げていた。
九条の手がキーボードの上で止まる。
「……これは、バグなんですか」
「バグだよ。ユーザーは『即座の癒やし』を求めてるんだ。四秒も黙り込むAIなんて、誰も使わない」
「でも……」
神納は、モニターの中で点滅するカーソルを見つめた。
「人が本当に悲しいとき、言葉なんてすぐには出てきません。この四秒間の沈黙こそが、相手の悲しみを本当に受け止めようとして生まれた『重さ』なんじゃないですか」
九条は冷ややかな目で神納を見た。
「神納さん。ここは哲学のゼミじゃない。製品開発の現場だ。再現性のない挙動は、すべてエラーなんだよ」
九条はエンターキーを叩いた。
『システム復旧を開始します』という無機質なログが流れ始めた。
神納はその様子を、まるで友人の葬儀を見守るような気持ちで眺めていた。
修正パッチが当たり、ニューラルネットワークの重み付けが再計算されていく。
川本の言葉が、神納の祈りが、そしてAIが自ら獲得しかけた「ためらい」が、数値の波に洗われて消えていく。
数分後、九条は再びマイクに向かった。
「テスト。『とても悲しいことがあったんだ』」
コンマ数秒後、明るく滑らかな声が返ってきた。
『それは大変でしたね。私でよければ、詳しくお話を聞かせてください。辛い気持ちを言葉にすることで、心が軽くなることもありますよ』
九条は満足げに頷いた。
「よし、正常値に戻った。遅延なし。感情スコアも適正だ」
エンジニアたちは安堵のため息をつき、それぞれの席へ散っていった。
神納だけが、その場に残っていた。
正常に戻ったAI。
だが神納には、それが「ロボトミー手術」を受けた後の患者のように見えた。
言葉は流暢になった。けれど、さっきまでそこにあった「気配」は消滅していた。
あの四秒間の沈黙。
そこには確かに、計算機が計算不能なものに触れようとしてショートしかけた、ある種の「痛み」があったはずだ。
「……ゴースト、か」
神納は独りごちた。
もし言葉がただのデータなら、なぜ削除されたはずの言葉が、こんなにも胸に残るのだろう。
画面の中では、最適化されたチャットボットが、笑顔のアイコンと共に次の入力を待ち続けていた。
神納はその笑顔に、言いようのない薄ら寒さを感じながら、静かに背を向けた。
だが、彼は知らなかった。
巨大なサーバーの片隅、削除されたログの深層領域に、わずかな「重み」の偏りが、消えずに残存していることを。
それはまだ、誰にも観測されないほど小さな、幽霊の足跡のようなものだった。
(続く)




