第四章 雨の日の周波数
大学の保健センターにある精神科の診察室は、雨の日には水族館のような静けさに包まれた。窓の外を叩く雨音が、厚い壁と二重窓によって濾過され、絶え間ない低い唸りのように室内に充満しているからだ。
神納は革張りのソファに深く沈み込み、向かいに座る雨宮医師の言葉を待っていた。雨宮は神納が学部生の頃から世話になっている医師で、白衣よりも着古したカーディガンが似合う、柔和な初老の男だった。
「……なるほど。幻聴、あるいは記憶の混濁か」
雨宮は手元のカルテに目を落とさず、組んだ指先を見つめながら言った。
「川本君のお母様のことだね」
「はい」
神納は頷いた。
「先日、様子を見に行ったとき、彼女はずっと電話の前に座っていました。鳴ってもいないのに、『今、あの子からかかってきた気がして』と受話器を取ろうとするんです。……一度や二度ではありません」
神納の脳裏に、薄暗い廊下で黒電話を見つめる彼女の背中が蘇る。その背中は、以前よりも一回り小さくなり、まるで空間の歪みに吸い込まれそうに見えた。
雨宮は少しだけ椅子をきしませた。
「医学的に言えば、加齢による認知機能の低下、あるいは強いストレスによる解離症状の可能性が高い。脳の海馬が萎縮し、過去と現在の区別がつかなくなる。あるいは、聴覚野が過敏になり、環境音を『意味のある言葉』として誤認してしまう」
雨宮の言葉は冷静で、的確だった。
「脳というハードウェアが摩耗して、信号の伝達にエラーが起きている状態だ。薬で不安を抑えたり、睡眠を改善することはできるが、『聞こえないはずの音』を消すのは難しいかもしれない」
「エラー……」
神納はその言葉を口の中で転がした。
九条もまた、感情を「信号」と呼び、逸脱を「エラー」と呼んだ。医学も工学も、正常な機能からの逸脱を「故障」として処理する点では同じなのだろうか。
「先生」
神納は顔を上げた。
「それは、本当に『壊れている』ということなんでしょうか」
雨宮は眉を少し上げ、興味深そうに神納を見た。
「というと?」
「彼女は、電話のベルを幻聴として聞いているのかもしれません。でも、僕にはそれが、彼女が世界に対して必死にチューニングを合わせようとしている姿に見えるんです」
神納は窓の外の雨を見つめた。
「ラジオの周波数を合わせようとして、ノイズばかりが聞こえるとき、それはラジオが壊れているからとは限りません。放送局の方が、あまりに遠い場所にあるからかもしれない。……彼女は、もうこの世にいない息子からの信号を拾おうとして、感度を上げすぎているだけなんじゃないでしょうか」
雨宮はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと眼鏡を外し、布で拭き始めた。
「……君は相変わらず、哲学的だね」
苦笑いとも、感嘆ともつかない表情だった。
「医師としての私は、それを『病理』として診断しなければならない。治療が必要な苦痛だからだ。……だが、一人の人間として聞くなら、君の言う『周波数』という表現は、とても腑に落ちる」
雨宮は眼鏡をかけ直した。
「脳は不思議な臓器だ。失われたものを埋めるために、ありもしない回路を新しく作ることがある。切断された手足が痛む『幻肢痛』のように、失われた他者の声を聞く『幻聴』もまた、脳がその不在を認めまいとする抵抗の証なのかもしれない」
診察室を出ると、雨は小降りになっていた。
神納は傘をささずにキャンパスを出て、千駄ヶ谷の方へ歩き出した。
川本が生きていた頃、よく二人で歩いた道だった。
アスファルトの匂いが立ち上る中、遠くから踏切の警報音が聞こえてきた。
カン、カン、カン、カン。
規則的で、無機質で、どこか急き立てるような音。
神納はその音に引き寄せられるように、踏切の前に立った。
黄色と黒の遮断機が降りている。赤いランプが交互に点滅している。電車が通過する轟音が、地面を揺らす。
彼は目を閉じた。
物理的な音の波。空気の振動。
だが、川本の母には、この物理的な音とは別の音が聞こえているのだ。
それは、世界中の誰にも共有できない、彼女だけの周波数で鳴るベルの音だ。
それを「狂気」と呼んで切り捨てることは簡単だ。
だが、もし「正常」であることが、聞こえるべき声を無視して、社会のノイズに順応することだとしたら?
あのAIのように、空気を読み、適切なタイミングで「わかります」と言うことが正常だとしたら?
電車が通り過ぎ、遮断機が上がった。
踏切の向こう側から、女子高生たちの笑い声が聞こえてきた。
世界はすぐに、日常の音量を取り戻す。
神納は目を開けた。
「……僕は、どちらを聞きたいんだろう」
彼は誰にともなく呟いた。
正常な社会の明瞭な言葉か。
それとも、壊れかけたラジオが拾う、かすかな雑音の中のメッセージか。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
バイト先の九条からの連絡だった。『新しい学習データのセット、用意できたよ。明日は早めに来て』
神納は画面を見つめ、深呼吸をした。
明日、彼はまたあの無響室で、言葉をデータとして処理する作業に戻る。
だが、一つだけ試してみたいことがあった。
九条が「ただのデータ」と呼ぶものの奔流の中に、もし「固有のノイズ」を混ぜ込んだら、あの完璧なAIはどう反応するだろうか。
それは悪戯のような思いつきだったが、神納にとっては、母の聞いている「幻聴」を肯定するための、ある種の実験のように思えた。
彼は踏切を渡った。
雨上がりの空に、夕焼けが薄く滲んでいた。
その赤色は、誰の網膜にも同じ波長として届いているはずなのに、それぞれ違う色として記憶される。
その「ズレ」の中にこそ、人間がいる。
神納は少しだけ早足で歩き始めた。明日の「入力」が、世界を少しだけ揺らすことを期待して。
(続く)




