第三章 バグとしての涙
その部屋は「アネコイック・チャンバー(無響室)」と呼ばれていたが、実際には壁に吸音材が貼られただけの、四畳半ほどの狭いブースだった。
神納はパイプ椅子に座らされ、ヘッドセットを装着していた。目の前には黒いモニターがあり、そこには白い波形が規則正しく脈打っている。
「マイクテスト、良好。心拍、正常」
スピーカー越しに九条の声が聞こえた。彼はガラス一枚隔てた隣の部屋で、複数のモニターを監視している。
「じゃあ神納さん、始めて。何でもいいから、少しネガティブな感情を吐露してみて。過去のトラウマでも、今の愚痴でも」
九条の口調は、まるで「回路の導通テストをしてくれ」と言うかのように軽かった。
神納は、マイクに向かって口を開きかけたが、喉が詰まった。
現在開発中の『グリーフケア(悲嘆ケア)AI』の対話テスト。それが今日の業務だった。このAIは、身近な人を亡くした遺族や、孤独を感じているユーザーの話し相手になり、精神的な安定をもたらすよう設計されているという。
「……何を、話せば」
「迷うこと自体もデータになるから、そのまま続けて」
神納は膝の上で拳を握った。
このシステムのために、自分の本当の記憶――川本の死や、自分の孤独――を切り売りすることは憚られた。彼は咄嗟に、嘘の感情を捏造することにした。
「……最近、眠れないんです」
神納は低い声で言った。
「夜になると、天井の木目が顔に見えて……誰もいないはずなのに、視線を感じて」
作り話だった。だが、言葉にしてみると、アパートのあの湿った空気の質感がまざまざと蘇り、声に微かな震えが混じった。
その震えが終わるか終わらないかの瞬間に、ヘッドセットから声が流れた。
『それは、とても怖い思いをされていますね』
女性とも男性ともつかない、中性的な、しかし柔らかく加工された合成音声だった。
その間は、完璧だった。早すぎず、遅すぎず。人間が相手の呼吸を読み、同情の表情を作るのに要する「〇・八秒」ほどの空白が、あまりに精密に再現されていた。
『誰もいないはずの場所に気配を感じるのは、あなたが誰かを求めているサインかもしれません。眠れない夜は、とても長く感じられますよね』
「……はい」
神納は反射的に答えた。
「……誰かに、聞いてほしくて」
『私はここにいますよ。あなたの不安が朝の光に溶けるまで、ずっとお話を聞いています。あなたは一人ではありません』
神納の背筋を、冷たいものが走り抜けた。
その言葉は、優しかった。文法的にも意味的にも、孤独な人間に差し出す言葉として百点満点だっただろう。
だが、神納が感じたのは安らぎではなく、まるでゴム手袋で心臓を撫でられたような、奇妙な不快感だった。
このAIは、神納が「眠れない」と言った瞬間に、膨大なデータベースの中から「不眠」「不安」「孤独」に関連する共感フレーズを検索し、最も確率的に尤もらしい組み合わせを出力したに過ぎない。
そこには「痛み」の実体がない。
痛みを知らない者が語る「わかります」という言葉ほど、暴力的なものはないと神納は思っていた。それは、相手の孤独を、計算可能な「処理済みの案件」へと変えてしまうからだ。
「……カット。いいよ、すごくいい」
九条の声が響き、神納は現実に引き戻された。
ブースを出ると、九条はモニター上のグラフを指差して満足げに頷いていた。
「反応速度、センチメント分析の精度、ともに目標値クリアだ。特に最後の『あなたは一人ではありません』の出力タイミング、絶妙だったでしょ? あれ、相手の声の周波数から『寂しさ』の深度を測って、トーンを自動調整してるんだ」
九条の瞳は、少年のように輝いていた。彼にとって、これは純粋に技術的な達成であり、誇るべき成果なのだ。
神納はヘッドセットを机に置き、軽い目眩をこらえながら尋ねた。
「……九条さん。このAIは、本当に相手の悲しみがわかっているんですか?」
九条は椅子をくるりと回し、神納を見た。
「『わかる』の定義によるね」
彼は栄養ドリンクの缶を弄びながら言った。
「脳科学的に言えば、人間の共感だって、ミラーニューロンという神経細胞が相手の行動を模倣し、脳内でシミュレーションしているに過ぎない。つまり、電気信号のパターンマッチングだ。
相手が泣いているとき、自分も悲しいと感じる。それは脳が作り出した『擬似的な痛み』だよ。AIがやっていることと、本質的な構造は変わらない」
「でも……」
神納は言葉を探した。
「人間には、身体があります。言葉に詰まったり、一緒に泣いたり、何も言えずに立ち尽くしたりする身体が。AIの言葉には、その『重さ』がない」
「重さ?」
九条は鼻で笑った。
「その『重さ』こそがバグなんだよ、神納さん。人間は共感しすぎると疲弊する。共感疲労でカウンセラーが潰れることだってある。でも、AIは疲れない。二十四時間三百六十五日、常に安定して、最適化された優しさを提供できる。
ユーザーが求めているのは『重い沈黙』なんかじゃない。『自分が肯定された』という快感(報酬系)の刺激だ。なら、それを効率的に与えるのが正義じゃないか?」
神納は黙り込んだ。
論理的には、九条が正しいのかもしれない。苦しんでいる人が楽になるなら、その手段がプログラムであろうと生身の人間であろうと、結果は同じだという功利主義的な考え方。
だが、神納の身体は、先ほどの「わかります」という音声に対する拒絶反応を消せずにいた。
「……僕は」
神納は静かに言った。
「効率的に処理された悲しみは、行き場を失う気がします。誰かがその重さを一緒に背負って、よろめいたり、立ち止まったりすることでしか、昇華されない思いがあるんじゃないでしょうか」
九条は少しだけ眉をひそめ、モニターに視線を戻した。
「君はロマンチストだな。あるいは、人間の脳を特別視しすぎている」
キーボードを叩く音が、対話を遮断した。
「まあいいや。データは取れた。お疲れ様」
バイトを終えてビルを出ると、外は激しい雨になっていた。
神納は傘を持っていなかった。
コンビニでビニール傘を買うこともできたが、彼はそのまま雨の中へ歩き出した。
冷たい雨粒が頬を打ち、シャツに染み込んでいく。
その冷たさは、不快だった。
だが、その不快さこそが、今は救いだった。
「冷たい」と感じること。「濡れて気持ち悪い」と思うこと。
それは誰かにプログラムされたものではなく、自分の皮膚感覚が、世界と直接触れ合った結果として生まれる「クオリア(質感)」だった。
駅前のスクランブル交差点で、信号待ちの人々の群れに混ざる。
誰かの傘の雫が、神納の手の甲に落ちた。
隣に立っていたサラリーマンが、「あ、すみません」と小さく身を縮めた。
「いえ」と神納は返した。
その一瞬の、ぎこちないやりとり。
濡れることへの嫌悪と、他人への申し訳なさ。計算されていない、ノイズだらけのコミュニケーション。
だが、あのAIの滑らかな「あなたは一人ではありません」という言葉より、この見知らぬ他人の「すみません」の方が、遥かに温かみを持って響いた。
神納は雨に打たれながら、空を見上げた。
灰色の空からは、絶え間なく水滴が落ちてくる。
それは誰の涙でもなく、ただの物理現象だ。
けれど、だからこそ、そこに自分の感情を重ねる余地がある。
「わかるよ」と勝手に解釈してくる機械ではなく、ただ黙って降り注ぐ雨のような他者。
神納が求めている倫理とは、きっとそういうものだ。
ずぶ濡れのまま電車に乗ると、周囲の乗客が少しだけ彼を避けるように空間を空けた。
その「避けられる」という感覚さえも、今は自分の存在証明のように思えた。
彼は窓ガラスに映る、濡れそぼった自分の顔を見た。
それは、最適化された幸福な顔ではなかったが、確かに生きている人間の顔だった。
(続く)




