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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
14/32

第三章 バグとしての涙


 その部屋は「アネコイック・チャンバー(無響室)」と呼ばれていたが、実際には壁に吸音材が貼られただけの、四畳半ほどの狭いブースだった。

 神納はパイプ椅子に座らされ、ヘッドセットを装着していた。目の前には黒いモニターがあり、そこには白い波形が規則正しく脈打っている。

 「マイクテスト、良好。心拍、正常」

 スピーカー越しに九条の声が聞こえた。彼はガラス一枚隔てた隣の部屋で、複数のモニターを監視している。

 「じゃあ神納さん、始めて。何でもいいから、少しネガティブな感情を吐露してみて。過去のトラウマでも、今の愚痴でも」

 九条の口調は、まるで「回路の導通テストをしてくれ」と言うかのように軽かった。


 神納は、マイクに向かって口を開きかけたが、喉が詰まった。

 現在開発中の『グリーフケア(悲嘆ケア)AI』の対話テスト。それが今日の業務だった。このAIは、身近な人を亡くした遺族や、孤独を感じているユーザーの話し相手になり、精神的な安定をもたらすよう設計されているという。

 「……何を、話せば」

 「迷うこと自体もデータになるから、そのまま続けて」

 神納は膝の上で拳を握った。

 このシステムのために、自分の本当の記憶――川本の死や、自分の孤独――を切り売りすることは憚られた。彼は咄嗟に、嘘の感情を捏造することにした。

 「……最近、眠れないんです」

 神納は低い声で言った。

 「夜になると、天井の木目が顔に見えて……誰もいないはずなのに、視線を感じて」

 作り話だった。だが、言葉にしてみると、アパートのあの湿った空気の質感がまざまざと蘇り、声に微かな震えが混じった。

 その震えが終わるか終わらないかの瞬間に、ヘッドセットから声が流れた。

 『それは、とても怖い思いをされていますね』

 女性とも男性ともつかない、中性的な、しかし柔らかく加工された合成音声だった。


 そのは、完璧だった。早すぎず、遅すぎず。人間が相手の呼吸を読み、同情の表情を作るのに要する「〇・八秒」ほどの空白が、あまりに精密に再現されていた。

 『誰もいないはずの場所に気配を感じるのは、あなたが誰かを求めているサインかもしれません。眠れない夜は、とても長く感じられますよね』

 「……はい」

 神納は反射的に答えた。

 「……誰かに、聞いてほしくて」

 『私はここにいますよ。あなたの不安が朝の光に溶けるまで、ずっとお話を聞いています。あなたは一人ではありません』

 神納の背筋を、冷たいものが走り抜けた。

 その言葉は、優しかった。文法的にも意味的にも、孤独な人間に差し出す言葉として百点満点だっただろう。

 だが、神納が感じたのは安らぎではなく、まるでゴム手袋で心臓を撫でられたような、奇妙な不快感だった。

 このAIは、神納が「眠れない」と言った瞬間に、膨大なデータベースの中から「不眠」「不安」「孤独」に関連する共感フレーズを検索し、最も確率的にもっともらしい組み合わせを出力したに過ぎない。


 そこには「痛み」の実体がない。

 痛みを知らない者が語る「わかります」という言葉ほど、暴力的なものはないと神納は思っていた。それは、相手の孤独を、計算可能な「処理済みの案件」へと変えてしまうからだ。

 「……カット。いいよ、すごくいい」

 九条の声が響き、神納は現実に引き戻された。

 ブースを出ると、九条はモニター上のグラフを指差して満足げに頷いていた。

 「反応速度、センチメント分析の精度、ともに目標値クリアだ。特に最後の『あなたは一人ではありません』の出力タイミング、絶妙だったでしょ? あれ、相手の声の周波数から『寂しさ』の深度を測って、トーンを自動調整してるんだ」

 九条の瞳は、少年のように輝いていた。彼にとって、これは純粋に技術的な達成であり、誇るべき成果なのだ。


 神納はヘッドセットを机に置き、軽い目眩めまいをこらえながら尋ねた。

 「……九条さん。このAIは、本当に相手の悲しみがわかっているんですか?」

 九条は椅子をくるりと回し、神納を見た。

 「『わかる』の定義によるね」

 彼は栄養ドリンクの缶を弄びながら言った。

 「脳科学的に言えば、人間の共感だって、ミラーニューロンという神経細胞が相手の行動を模倣し、脳内でシミュレーションしているに過ぎない。つまり、電気信号のパターンマッチングだ。

 相手が泣いているとき、自分も悲しいと感じる。それは脳が作り出した『擬似的な痛み』だよ。AIがやっていることと、本質的な構造は変わらない」

 「でも……」

 神納は言葉を探した。

 「人間には、身体があります。言葉に詰まったり、一緒に泣いたり、何も言えずに立ち尽くしたりする身体が。AIの言葉には、その『重さ』がない」

 「重さ?」

 九条は鼻で笑った。


 「その『重さ』こそがバグなんだよ、神納さん。人間は共感しすぎると疲弊する。共感疲労でカウンセラーが潰れることだってある。でも、AIは疲れない。二十四時間三百六十五日、常に安定して、最適化された優しさを提供できる。

 ユーザーが求めているのは『重い沈黙』なんかじゃない。『自分が肯定された』という快感(報酬系)の刺激だ。なら、それを効率的に与えるのが正義じゃないか?」

 神納は黙り込んだ。

 論理的には、九条が正しいのかもしれない。苦しんでいる人が楽になるなら、その手段がプログラムであろうと生身の人間であろうと、結果は同じだという功利主義的な考え方。

 だが、神納の身体は、先ほどの「わかります」という音声に対する拒絶反応を消せずにいた。


 「……僕は」

 神納は静かに言った。

 「効率的に処理された悲しみは、行き場を失う気がします。誰かがその重さを一緒に背負って、よろめいたり、立ち止まったりすることでしか、昇華されない思いがあるんじゃないでしょうか」

 九条は少しだけ眉をひそめ、モニターに視線を戻した。

 「君はロマンチストだな。あるいは、人間の脳を特別視しすぎている」

 キーボードを叩く音が、対話を遮断した。

 「まあいいや。データは取れた。お疲れ様」

 バイトを終えてビルを出ると、外は激しい雨になっていた。

 神納は傘を持っていなかった。


 コンビニでビニール傘を買うこともできたが、彼はそのまま雨の中へ歩き出した。

 冷たい雨粒が頬を打ち、シャツに染み込んでいく。

 その冷たさは、不快だった。

 だが、その不快さこそが、今は救いだった。

 「冷たい」と感じること。「濡れて気持ち悪い」と思うこと。

 それは誰かにプログラムされたものではなく、自分の皮膚感覚が、世界と直接触れ合った結果として生まれる「クオリア(質感)」だった。

 


 駅前のスクランブル交差点で、信号待ちの人々の群れに混ざる。

 誰かの傘の雫が、神納の手の甲に落ちた。

 隣に立っていたサラリーマンが、「あ、すみません」と小さく身を縮めた。

 「いえ」と神納は返した。

 その一瞬の、ぎこちないやりとり。

 濡れることへの嫌悪と、他人への申し訳なさ。計算されていない、ノイズだらけのコミュニケーション。

 だが、あのAIの滑らかな「あなたは一人ではありません」という言葉より、この見知らぬ他人の「すみません」の方が、遥かに温かみを持って響いた。

 神納は雨に打たれながら、空を見上げた。


 灰色の空からは、絶え間なく水滴が落ちてくる。

 それは誰の涙でもなく、ただの物理現象だ。

 けれど、だからこそ、そこに自分の感情を重ねる余地がある。

 「わかるよ」と勝手に解釈してくる機械ではなく、ただ黙って降り注ぐ雨のような他者。

 神納が求めている倫理とは、きっとそういうものだ。

 ずぶ濡れのまま電車に乗ると、周囲の乗客が少しだけ彼を避けるように空間を空けた。

 その「避けられる」という感覚さえも、今は自分の存在証明のように思えた。

 彼は窓ガラスに映る、濡れそぼった自分の顔を見た。

 それは、最適化された幸福な顔ではなかったが、確かに生きている人間の顔だった。

(続く)


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