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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
13/32

第二章 最適化された慰め


 松崎と待ち合わせたのは、神保町の裏路地にある喫茶店だった。

 古書店街の喧騒から一枚壁を隔てたその店は、染み込んだ珈琲の香りと、積み上げられた文庫本の山によって、外界とは異なる時間の粘度を保っていた。

 神納が店に入ると、松崎はすでに一番奥の席に座っていた。テーブルの上には、赤字の入ったゲラ刷りの束と、画面の消えたスマートフォンが置かれている。

 「ごめん、待たせた?」


 「ううん。今着いたところ」

 松崎は顔を上げた。微笑んではいたが、その目元にはファンデーションで隠しきれないかげが滲んでいた。白いブラウスの袖口が少し汚れているのは、インクの染みだろうか。かつて学生時代の彼女が纏っていた、凜とした哲学的な好奇心のようなものは、今は日々の業務というやすりで削られ、少しざらついた疲労感に変わっていた。


 注文したブレンドコーヒーが運ばれてくるまでの間、二人は当たり障りのない近況を交わした。神納が大学院での研究と並行して、AIのアノテーションのバイトをしていることを話すと、彼女はカップを持ち上げながら、ほう、と息をついた。

 「感情のタグ付け、か。……なんだか、今の私の仕事と似てるかもね」

 「似てる?」

 「うん。私も毎日、言葉にタグを付けてるようなものだから」

 松崎は苦笑して、手元のゲラ刷りを指先で弾いた。

 「今、担当してるのが『泣けるエッセイ集』の企画なの。編集会議で言われるのは、とにかく『共感』と『涙』。読者がどこで泣くか、どこで救われた気持ちになるか、それをマーケティング的に計算して構成を作ってる」

 彼女の声は乾いていた。


 「“この一文で、読者は浄化されます”なんてコピーを考えてると、時々わからなくなるの。私たちは作品を作っているのか、それとも『感動』という名の精神安定剤を処方しているのか」

 神納は、昨日のバイトで見た『もう、全部どうでもいいや』という文字列を思い出していた。あの言葉を〈無気力〉と分類したときの手触り。それは、松崎が言う「感動の処方」と同質の、乱暴な整理整頓のように思えた。

 「消費しやすい言葉の方が、売れるからね」

 松崎はコーヒーを一口飲み、視線を窓の外へ向けた。曇りガラスの向こうを、傘を持った人々が通り過ぎていく。


 「わかりにくい痛みとか、名前のつけられない苦しみは、商品棚に置けないの。『それは読者が求めているカタルシスではありません』って、ボツにされる。……神納くんが大切にしてるような“沈黙”は、今の出版業界じゃ“空白”として削除対象よ」

 神納は何も言えず、ただ頷いた。

 彼女の言葉の端々に、微かなとげがあった。それは神納に向けられたものではなく、彼女自身が加担しているシステムへの自己嫌悪から生じているようだった。

 そのとき、テーブルの上の彼女のスマートフォンが震えた。

 短い通知音。松崎は「ごめん、著者から」と言って画面を覗き込んだ。

 彼女の表情がわずかに曇った。

 「……筆が進まないって。慰めの言葉を送らなきゃ」

 彼女はフリック入力を始めた。その指の動きは速く、迷いがなかった。

 だが、数行打ったところで、彼女の指がふいに止まった。

 彼女は画面を見つめたまま、微動だにしなくなった。


 「どうしたの?」

 神納が尋ねると、彼女はゆっくりと顔を上げ、青ざめた表情でスマートフォンを神納に見せた。

 入力フォームには、『先生のお気持ち、よくわかります。今は無理をなさらず――』という文章が表示されていた。だが、その続きの『ゆっくり休んでください』という部分は、薄いグレーの文字で表示されていた。

 「……予測変換?」

 「うん」

 松崎は震える声で言った。

 「私、まだ『ゆっくり』までしか打ってないの。なのに、スマホが勝手に、私が言おうとした一番無難で、一番適切な言葉を先回りして提示してきた」

 彼女はスマートフォンをテーブルに戻し、自分の手を汚れたもののように見つめた。

 「怖くなったの。私が今、著者に対して抱いた『心配』は、私の心から出たものなの? それとも、何億回も使われてきた定型文を、脳が勝手にシミュレートしただけ?」


 「……松崎さん」

 「私の優しさより、AIの予測の方が、ずっと早くて正確なのよ。タップ一つで、相手が一番欲しがっている言葉が送信できる。……ねえ神納くん、私たちが苦労して言葉を紡ぐ意味って、何処にあるの?」

 神納は、グレーの文字で表示された『ゆっくり休んでください』という文字列を見つめた。

 それは、完璧な配慮だった。文法的にも、文脈的にも、社会的礼儀としても、一点の曇りもない正解だ。

 だが、その「正解」には、躊躇ためらいがない。

 相手を想うがゆえに言葉に詰まったり、表現を選び直したりする、あの人間特有の「摩擦」がない。

 ツルツルとした氷の上を滑るように、言葉が相手に届いてしまう。

 神納は、かつて川本の家で受け取った茶色いノートのことを思い出した。

 あのノートに書かれていた文字は、震えていた。書き損じがあり、消された跡があり、余白があった。


 『君には“そこ”にいてほしかった。それがどこかは、僕にもわからなかった』

 あの不明瞭な、迷いに満ちた言葉こそが、神納の心を打ち、彼を生かしたのだ。もしあの時、川本の遺書がAIによって最適化された「感動的な別れの言葉」だったら、神納は決して救われなかっただろう。

 「……摩擦だよ」

 神納はぽつりと言った。

 「え?」

 「予測変換には、摩擦がない。相手に届くまでの、迷いという距離がないんだ。でも、人が本当に救われるのって、その『届かなさ』を誰かが必死に埋めようとしてくれた、その痕跡に触れた時じゃないかな」

 松崎は瞬きをし、それから深く息を吐いた。

 「摩擦、か……」

 彼女はスマートフォンの画面を消した。黒くなった画面に、喫茶店の照明と、二人の疲れた顔が映り込んだ。

 「そうね。スワイプ一つで送れる慰めに、体温なんて乗るわけないか」

 彼女は自分の指先を見つめ、それから、わざとゆっくりとした動作でカップを持ち上げた。


 「ありがとう。……返信、あとにする。今は、自分の言葉が出てくるまで、待つことにする」

 店を出ると、空は低く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだった。

 駅までの道を並んで歩きながら、神納はポケットの中の自分のスマートフォンを握りしめた。

 この薄い板の中には、世界中の言葉が詰め込まれている。いつでも誰とでも繋がれるし、どんな感情にも名前をつけてくれる。

 だが、その便利さが、私たちが本来持っていた「迷う能力」を奪っているとしたら。

 神納は、隣を歩く松崎の横顔を見た。彼女はもうスマートフォンを見ていなかった。ただ、雑踏の向こうを見つめ、何かを自分の中で反芻しているようだった。

 その沈黙は、予測変換では決して出力できない、彼女だけの固有の静けさだった。

 スクランブル交差点の信号が変わる。


 「またね」と松崎が言った。

 「うん、また」と神納が返した。

 ありふれた挨拶だった。だが、その言葉の間には、先ほどの会話を経て共有された、わずかな共犯者めいた響きがあった。

 最適化された世界の中で、あえて立ち止まり、迷い続けること。

 それが、今の二人にできる、ささやかな抵抗であるかのように。

 神納は一人、地下鉄の階段を降りていった。

 ポケットの中で、再び通知が震えた気がした。だが彼は、それを確かめなかった。今はまだ、地上の湿った空気の余韻を、自分の肺に残しておきたかったからだ。

(続く)


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