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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
12/32

第一章 ラベルのない感情


『不在の輪郭』

 渋谷の高層ビルの二十四階にあるそのオフィスは、常に微かな駆動音に満たされていた。それは誰かの話し声や足音ではなく、何百台ものサーバーが空気を攪拌する、無機質なファンノイズだった。

 神納は、与えられたデスクでモニターに向かい、右手に握ったマウスを機械的に動かしていた。画面には、どこかの誰かがSNSやチャットボットに打ち込んだ短い文章が、次々と流れてくる。


 『昨日の夕飯、味がしなかった』

 『彼氏と別れたけど、なんか涙も出ない』

 『仕事行きたくない』

 神納の仕事は、これらのテキストデータに「感情タグ」を付与することだった。これを「アノテーション(教師データ作成)」と呼ぶらしい。

 画面右側には、プルダウンメニューが表示されている。


 〈喜び〉〈怒り〉〈悲しみ〉〈恐怖〉〈嫌悪〉〈驚き〉……。

 彼は『昨日の夕飯、味がしなかった』という一文を見つめ、数秒迷った末に、〈悲しみ〉ではなく〈無気力〉というサブカテゴリを選択してクリックした。

 画面が瞬き、次の文章が表示される。

 正解はない、と採用担当のエンジニアは言った。「君が感じた直感でいい。AIは君たちの集合知を学習して、感情の“平均値”を模索するから」

 神納は、博士課程に進んでからの生活費を稼ぐためにこのアルバイトを始めていた。哲学の研究だけでは食べていけないという現実的な理由もあったが、それ以上に、「言葉がシステムの中でどう処理されているのか」を知りたいという、奇妙な好奇心があった。


 だが、始めて二週間。彼の中に沈殿していたのは、好奇心というよりは、砂を噛むような渇きだった。

 『もう、全部どうでもいいや』

 その一文が表示されたとき、神納の手が止まった。

 文字の配列だけを見れば、これは〈自暴自棄〉あるいは〈希死念慮〉に分類されるべきデータだ。しかし、神納はその短文の向こうに、奇妙な「静けさ」を感じ取っていた。それは、投げやりな叫びというよりは、長く降り続いた雨がようやく上がったあとの、濡れた路地のような諦念に思えた。

 メニューを開く。


 〈諦め〉というタグはあった。だが、それは何かが違う。

 この言葉を発した人間は、この一行を書くまでに、どれだけの時間を沈黙の中で過ごしたのだろう。その時間の厚みを、この〈諦め〉という三文字のラベルは、きれいさっぱり削ぎ落としてしまう。

 「神納さん、手、止まってますよ」

 背後から声がした。

 振り返ると、このプロジェクトのリーダーである九条が立っていた。歳の頃は神納と同じくらいだろうか。パーカーのフードを浅く被り、片手には栄養補助食品の銀色のパウチを持っていた。


 「あ、すみません。この文章、どう分類すべきか迷ってしまって」

 神納が画面を指差すと、九条は少しだけ身を乗り出し、興味なさそうに一瞥した。

 「ああ、これ? コンテキスト(文脈)がないから迷うかもしれないけど、統計的には〈疲労〉か〈無関心〉で処理していいよ。これ一つにこだわっても、学習モデル全体の損失関数には影響しないから」

 「……損失関数」

 「エラー率のこと。外れ値は、どうせ学習の過程で丸められる。大事なのはボリュームだよ。一人の迷いより、千人の『なんとなく』の方が、AIにとっては正解に近いんだ」


 九条は悪気なくそう言って、パウチの中身を吸った。彼にとって言葉とは、電気信号の配列であり、計算可能なリソースに過ぎないようだった。

 神納は「わかりました」と短く答え、〈疲労〉を選んでクリックした。

 その瞬間、その名もなき誰かの言葉は、巨大なデータベースの一滴として吸い込まれ、二度と戻ってこなかった。

 休憩時間になり、神納はオフィスの外にある自動販売機コーナーへ向かった。

 窓の外には、渋谷の街が広がっていた。スクランブル交差点を行き交う人々が、ここから見ると黒い粒の集まりのように見える。


 九条の言った「丸められる」という言葉が、耳の奥に残っていた。

 かつて、川本の遺したノートに触れたとき、神納は「たった一人の沈黙」が持つ重さに震えた。倫理とは、一般化できないその「一人」の顔に向き合うことだと、彼はあのノートから学んだはずだった。

 だが、このガラス張りの部屋で行われているのは、その真逆の営みだった。個人の顔を剥ぎ取り、タグを貼り付け、平均化された「感情」として再生産する。

 缶コーヒーのプルタブを開ける音が、静かな廊下に乾いた音を立てて響いた。

 自分は何をしているのだろう、と思った。


 生活のためとはいえ、言葉を殺す作業に加担しているような罪悪感が、喉の奥に苦いものとしてこみ上げてきた。

 午後六時を過ぎてオフィスを出ると、街はすでに夜の気配を纏っていた。

 駅へ向かう道玄坂の路地裏を歩いていると、ふと、人の流れが淀んでいる場所があった。

 雑居ビルの隙間、ゴミ集積所の前に、ひとりの老婆がうずくまっていた。

 襤褸ぼろを纏っているわけではない。普通の、どこにでもいそうな小柄な老婆だった。ただ、買い物袋を片手に持ったまま、膝をついて動かなくなっていた。

 周囲を行き交う人々は、一瞬だけ視線を向けるものの、すぐに目を逸らして足早に通り過ぎていく。


 「大丈夫ですか?」と声をかけるべきか、「関わらないほうがいい」という都市の不文律に従うべきか。その一瞬の迷いが、通行人たちの歩調をわずかに乱し、そしてすぐに元のリズムへと復帰させていた。

 神納は足を止めた。

 老婆の背中は小さく震えていた。泣いているのか、体調が悪いのか、それともただ靴紐を結んでいるだけなのか、後ろからではわからなかった。

 だが、その背中が放っている拒絶とも懇願ともつかない気配は、先ほどモニターの中で見た『どうでもいいや』という文字列と、どこか似た周波数を持っていた。

 神納は近づいた。


 声をかけようとして、言葉が詰まった。

 〈心配〉〈同情〉〈親切〉……自分の中に浮かぶ感情をタグ付けしようとする職業病のような思考が邪魔をしたからだ。

 そんな記号的な言葉で、この背中に触れていいのか。

 彼は無言のまま、老婆の視線の高さまでしゃがみ込んだ。

 アスファルトの冷たさが、靴底を通して伝わってくる。

 老婆がゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の奥にある瞳が、神納を捉えた。そこには、焦点の定まらない、水底のような色が浮かんでいた。

 「……あら」


 老婆は、吐息のように漏らした。

 「バスは、もう行ってしまいましたか?」

 その問いは、あまりに唐突で、文脈を欠いていた。ここは路地裏で、バス停など近くにはない。

 認知症かもしれない、と神納は思った。

 だが、彼はその問いを「エラー」として処理することができなかった。彼女にとって、ここはバス停であり、彼女は何処かへ帰ろうとして待ち続けていたのだ。その「事実」だけが、ここに存在していた。

 「……まだ、来ていないと思います」


 神納はそう答えた。それが嘘であることは承知の上だった。だが、否定することは、彼女の今いる世界を破壊することのように思えた。

 「そうですか。……なら、もう少し待ちます」

 老婆は少しだけ安心したように微笑み、また膝に視線を落とした。

 神納はしばらくそこに留まった。通り過ぎるサラリーマンの革靴が、カツカツと規則的なリズムを刻んで遠ざかっていく。

 その音は、九条が言った「損失関数を減らすための大量のデータ」そのものだった。誰もが最適化されたルートを、最適化された速度で歩いている。その流れの中で、この老婆だけが「バグ」のように静止していた。


 神納はポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認するふりをした。

 ここにある沈黙には、どんなタグもつけられない。

 〈迷子〉でも〈認知症〉でも〈孤独〉でもない。

 ただ、世界から取り残されたひとりの人間が、自分の記憶の中の風景と現実との齟齬そごに、静かに耐えている時間。

 結局、神納は交番まで老婆を送り届けた。

 警官に引き渡すと、彼女は何度も「バスを待っていたのに」と繰り返していた。警官は慣れた手つきで「はいはい、バスね」と事務的に相槌を打ち、書類を取り出した。


 その「はいはい」という言葉の軽さが、神納の胸を微かに刺した。

 それは、彼が昼間、モニターの前で行っていた作業と同じ響きを持っていたからだ。

 理解したふりをして、ラベルを貼り、処理済みの箱へ放り込むこと。

 アパートに帰ると、部屋は冷え切っていた。

 机の上には、読みかけのフッサールの『イデーン』が置かれたままになっている。

 神納は電気もつけずに、ベッドに腰を下ろした。

 暗闇の中で目を閉じると、まぶたの裏に、無数の文字列が流れていくのが見えた。

 〈悲しみ〉〈怒り〉〈喜び〉〈無気力〉。


 それらのタグが剥がれ落ちたあとには、何が残るのだろう。

 かつて川本が遺した「倫理とは、他人の沈黙に耐えること」という言葉が、今夜はまた違った重みを持って思い出された。

 耐えるべき沈黙は、現実の路上にも、デジタルの海にも溢れている。

 だが、今の社会は、その沈黙を「耐える」のではなく、「解決」あるいは「消去」しようとしているのではないか。


 九条の顔が浮かんだ。「外れ値は丸められる」という言葉。

 神納は、スマートフォンを手に取った。

 松崎にメッセージを送ろうとして、指を止めた。

 『今日、仕事で疲れた』と打てば、予測変換が『ゆっくり休んでね』という候補を出すだろう。


 その予測された優しさに、今の自分は耐えられそうになかった。

 彼は画面を消し、そのまま枕に顔を埋めた。

 渋谷の路地裏で嗅いだ、湿った埃の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。

 それは、どんな高度なAIにも再現できない、生々しい「不在」の匂いだった。

(続く)


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