第一章
神納は昼下がりの講義室で、自分の名前が呼ばれたのに気づかずにいた。
「神納くん、いませんか?」ともう一度、講師の声が教壇から投げられたとき、彼はようやく視線を顔の高さまで引き上げた。ペンを手にしていたが、何も書いていなかった。ペンは机の上に横たわるまま、彼の手だけがそれを握っていた。
「……います」
小声だった。講師は頷き、それきり何も言わなかった。黒板に書かれた「レヴィナス」と「倫理」の文字を見て、彼はようやく今いる教室が、哲学専修の演習室であることを思い出した。だが、その倫理というものが、今日どこに存在しているのか、彼にはまったく見当がつかなかった。
授業が終わると、教室は一斉にざわめき出した。何人かの学生は、AirPodsを耳に押し込みながらスマートフォンを取り出し、何も言わずに部屋を出た。少し離れた列では、明るい声で笑い合うグループが、卒論のテーマについて話していた。神納は、誰にも声をかけられなかったし、かけなかった。
構内の自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰を下ろしたとき、春の陽射しが思いのほか強いことに気づいた。制服姿の高校生たちが、近くのベンチでカメラアプリを使って自撮りをしていた。彼女たちは、自分の顔を指先で数ミリずつ加工し、フィルターの中で最適化された幸福に微笑んでいた。
神納は、自分が映る写真というものを、もう三年近く撮っていなかった。どこかの祭で撮った集合写真が最後だったはずだ。そう思いながら、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面に自分の顔が映ったことに、一瞬ぎょっとした。そこには、額に影を落とした青年の顔が、やや不自然な角度で浮かんでいた。
彼はその顔を、誰のものとも思えなかった。
そのとき、震えるように通知が鳴った。差出人の名は「高山」とあった。
ゼミで同席した男だった。去年、自殺した同期の葬儀に、彼とだけは数語交わした記憶がある。
君、神納くんだよね。
今週末、彼の家に行くことになったんだけど、来ないか?
彼は指を止めたまま、画面を見つめた。
行くべきだろうか、と考えた。
だが、誰のために、という問いの答えが、頭の中でひとつに定まらなかった。
夜、アパートに戻ると、部屋の空気が湿っていた。三畳の居間には本が積まれ、布団は畳んであるのか崩れているのか判別しがたい状態で置かれていた。カーテンの隙間から、遠くのコンビニの灯が青白く差し込んでいた。
神納は机の上に置いたノートを開いた。最初のページには、何も書かれていなかった。書き出そうとしたことが何度もあった。だが、そこに何を書けば“書いた”ことになるのか、それすらわからなかった。
ノートの余白に、彼はペンを走らせてみた。
「倫理とは、他人にとっての不快な沈黙である」
彼は書いて、しばらくそれを眺めていた。書き終えたあと、それが自分の考えか誰かの受け売りかすら定かではなかったが、妙に落ち着いた。
その夜、彼は夢を見た。
夢の中で、彼は電車に乗っていた。だが、車内に乗客はおらず、窓の外にはどこにも駅がなかった。ただ、電車は音もなく進んでいた。
彼は立ち尽くしたまま、どこにも座れず、ただ扉が開かないことを確かめるように歩いた。
そのとき、向かいの座席に一人の青年が座っているのを見つけた。見覚えのある顔だった。
その青年が、彼に向かってこう言った。
君は、まだ“そこ”にいるつもりか?
目が覚めたとき、窓の外では、夜明けが始まっていた。
神納はそのまま、布団から出て、靴を履いた。夜が朝に変わる前に、もう一度、千駄ヶ谷の踏切に立ちたかった。
続く