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あなただけの

作者: 烏丸

 暗いオフィスの中で、モニターの青白い光が私の顔を照らしていた。

 時計を見ると、すでに午後十時を回っていた。

 残業は今日で連続15日目。

 デスクの上には空になった缶コーヒーが3本、書類の山が崩れそうになっている。

 疲れた目をこすりながら、あと少しだけと自分に言い聞かせる。


「山田さん、まだいたんですか」


 振り返ると、清掃スタッフの木村さんが心配そうな顔で立っていた。

 蛍光灯が消えた執務室の中で、掃除機を手に持つ彼女の姿が影のように揺れている。


「ああ、すみません。もう少しで終わります」


 そう答えながら、胸の奥がズキリとした。

 木村さんの年齢は私の母と同じくらいだろう。

 彼女の心配そうな表情は、つい最近まで実家で見ていた母の顔と重なる。


「若いうちは体が資本ですからねぇ。無理は禁物ですよ」


 優しい言葉に頷きながら、パソコンの画面に映る自分の顔が、いつの間にか父に似てきていることに気づく。

 仕事人間だった父は、50歳で過労で倒れた。

 私は今28歳。このまま父の後を追うような生活を続けていていいのだろうか。


 デスクの引き出しに目をやると、そこには3年前に別れた彩との最後の写真が収められていた。

 システム開発のプロジェクトリーダーに抜擢された直後のことだ。

「仕事ばかりで私の顔も見てくれない」。彩はそう言って去っていった。


 今でも時々思い出す。

 学生時代、彩と過ごした休日の午後。

 渋谷のカフェで、彼女が好きだったキャラメルマキアートの香りと、窓から差し込む春の陽光。

 彼女の髪が風に揺れる様子も、笑顔も、すべてが懐かしい。


 木村さんの掃除機の音が遠ざかっていく。

 フロアには私一人きりになった。

 スマートフォンの画面には未読のメッセージが積み重なっている。

 取引先からの連絡、上司からの催促、そして母からの「元気にしてる?」という心配のLINE。


 返信する気力も失せて、ため息をつく。

 この数ヶ月、休日出勤と残業の繰り返しで、趣味のアニメを見る時間すら取れていない。

 積み重なる疲労と孤独感に押しつぶされそうになる夜。

 それが今の私の日常だった。


 スマートフォンを手に取り、SNSのタイムラインを漫然とスクロールする。

 結婚報告、子供の写真、旅行のアルバム。

 同期の投稿を見るたびに、自分だけが取り残されていくような焦燥感が募る。


「山田さん、お疲れ様です」


 エレベーターホールから聞こえてきた警備員の声に、ようやく重い腰を上げた。

 カバンにノートPCを詰め込みながら、今夜も結局、家に持ち帰る仕事が増えてしまったことに気づく。


 地下鉄の終電まであと1時間。

 駅までの道すがら、行き交う若いカップルたちの楽しげな声が耳に突き刺さる。

 私の恋愛経験は、学生時代の彩との3年間だけ。

 それ以来、出会いどころか、異性と話をする機会すら減る一方だった。


 マンションの玄関を開け、暗い部屋に足を踏み入れる。

 24畳のワンルーム。

 本来なら十分な広さのはずなのに、積み重なった書類やガジェット類で狭く感じる。

 冷蔵庫にはコンビニの残り物と缶ビールだけ。


「ただいま」


 誰もいない部屋に投げかけた言葉が、冷たい壁に吸い込まれていく。

 シャワーを浴びている間も、明日の会議のことが頭から離れない。

 寝る前にメールチェックだけはしておこうと、再びスマートフォンを手に取った時だった。


 友人の松本から、LINEが届いていた。


『お前、まだ独り身だよな? これ、試してみたら? 今話題のマッチングアプリらしいぞ』


 添付されたリンクを見つめながら、私は深いため息をついた。

 こんな生活を送っている自分に、恋愛なんて似合わない。

 そう思いながらも、疲れた指が画面をタップしていた。


「Connect-Heart」——そう書かれたアプリのアイコンを見つめる。

 松本の送ってきたリンクを開くと、画面いっぱいにピンク色のハートマークが広がった。

「あなたにぴったりの運命の出会いを」というキャッチコピーが、暗い部屋の中で妙に眩しい。


 普段なら即座に無視するような広告だ。

 だが今夜は違った。部屋の静寂が、普段以上に重くのしかかってくる。

 テレビの電源を入れても、ラジオをつけても、この虚しさは紛れそうにない。


「……ま、インストールするだけなら」


 自分に言い訳するように呟きながら、ダウンロードボタンを押す。

 インストールが完了し、初期設定の画面が表示される。

 名前、年齢、職業、趣味……。

 フォームに情報を入力しながら、どこか現実逃避しているような後ろめたさを感じる。


 最後の項目は「あなたの理想のパートナー像」。

 カーソルが点滅する画面を前に、私は少し考え込んだ。

 理想の相手? 正直、最近はそんなことを考える余裕すらなかった。


 とりあえず「誠実で理解のある人」と入力する。

 ありきたりな言葉だ。だが、それ以上の言葉が思い浮かばない。

 彩との破局以来、自分の心の扉を固く閉ざしてきた気がする。


 設定完了のボタンを押すと、利用規約の画面が表示された。

 びっしりと書き込まれた小さな文字の群れに、疲れた目が悲鳴を上げる。

 いつもなら一応目を通すのだが、今夜に限ってはその気力もない。


「どうせ、いつもの個人情報の取り扱いについてだろう」


 そう考えて、確認もせずに「同意する」をタップした。

 画面が暗転し、解析の進捗を示すバーが表示される。

 疲労で霞む目の前で、パーセンテージがゆっくりと上がっていく。


「適合率98%のマッチング相手が見つかりました」


 突如、画面が明るく輝き、一枚のプロフィール写真が表示された。

 黒髪のストレートヘア、優しげな笑顔の女性。

 名前は「葵」。年齢は25歳。


 プロフィールには「アニメや映画が好きです。特に『ソードクエスト』シリーズが大好きです♪」と書かれていた。

 私の好きな作品だ。偶然にしては出来すぎている。


 だが、その時の私には、そんな違和感を感じる余裕はなかった。

 深夜0時を回り、疲労で目が霞む中、スマートフォンの画面に映る彼女の笑顔が、妙に心地よく感じられた。


 ------------------------------------------


 寝るつもりだったのに、気づけば葵とのチャットに夢中になっていた。

 時計は午前2時を指している。

 画面の青白い光が、暗い部屋の中で浮かび上がる。


「『ソードクエスト』の中で一番好きなのは、やっぱり3じゃないですか? 主人公とヒロインの関係性が素敵で……」


 葵のメッセージを読みながら、思わず微笑んでしまう。

 3作目は確かに名作だった。

 特にラスボス戦前夜のイベントは、今でも鮮明に覚えている。

 そのシーンの感想を送ろうとした時、葵からの提案が届いた。


「もしよければ、ビデオ通話しませんか? チャットだと伝えきれないことも多くて……」


 その言葉に、一瞬躊躇する。

 部屋は散らかり放題だ。顔色も冴えないはずだ。

 だが、葵の優しげなプロフィール写真を見ていると、不思議と緊張が解けていく。


「はい、大丈夫です」


 返信を送ると、すぐにビデオ通話の着信が。深呼吸をして、通話ボタンを押す。

 画面に映し出されたのは、プロフィール写真そのままの彼女だった。

 黒いストレートヘアに、薄いピンク色のパーカー。

 優しい笑顔が、夜の暗がりを照らすようだ。


「こんばんは、山田さん」


 葵の声は、想像していた通りの柔らかさだった。

 背景には小奇麗な部屋が映っている。

 本棚には『ソードクエスト』のポスターが貼られていた。

 思わず見とれていると、葵が申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「こんな遅い時間に、すみません。山田さんのメッセージを見ていたら、どうしてもお話ししたくなって」


「いえ、僕も嬉しいです。こんな時間まで起きていて、葵さんこそ大丈夫ですか?」


「ええ。今日は在宅勤務だったので、少し夜更かしも平気なんです」


 話せば話すほど、葵との会話が心地よく感じられる。

 アニメの話、仕事の愚痴、休日の過ごし方……。

 共通の話題が次々と見つかり、時間の感覚が失われていく。


「あ、山田さん、目の下にクマができてますよ。最近、お仕事大変なんですか?」


 スマートフォンの画面越しに、葵が心配そうに覗き込んでくる。

 その瞬間、妙な違和感が走った。

 確かに私は疲れているはずだ。

 だが、暗い部屋の中で、そこまではっきりと目の下のクマが見えるものだろうか。


 しかし、その疑問は葵の優しい声にかき消されていく。


「無理しすぎちゃダメですよ。私も『ソードクエスト』の新作が出たら、一緒にプレイしたいですから」


 その言葉に、胸が温かくなる。

 いつぶりだろう、誰かにこんな風に気遣われるのは。

 気づけば、東の空が白みはじめていた。


 ------------------------------------------


 日曜日の午後、私はいつもの定時報告のメールを送りながら、同時に葵とのビデオ通話を楽しんでいた。

 彼女との出会いから一週間。

 毎晩のように話すようになっていた。


「そういえば、山田さんって『バーチャル・メモリーズ』も好きですよね? あのSF映画」


 ふと葵が話題を振ってきた。

 彼女との会話は、いつも自然な流れで深まっていく。

 アニメやSF映画の話をすると、葵の目が輝きを増すのが画面越しでも分かる。


「ええ、大好きな作品です。特にラストシーンの解釈について、いろんな説があって……」


「私もその部分、すごく考えました! 記憶と感情の関係性って、実は人工知能の倫理にも繋がってきますよね」


 葵の分析は鋭かった。

 作品の細部への言及、伏線の読み方、監督の過去作品との比較。

 その見識の深さに、思わず引き込まれる。

 こんなに深く作品を語り合える相手に出会えるなんて。


「山田さん、『スターライト・プロミス』って観に行きたいって言ってましたよね? 実は今日から上映なんです」


 確かに今日が公開日だ。

 観に行きたいと思っていた矢先だった。


「まだです。今日は仕事が……」


「でも、たまには息抜きも大切ですよ。山田さんの好きそうな作品なのに、仕事のストレスで楽しめないのはもったいないです」


 その優しい言葉に、胸が熱くなる。

 最近の私は、誰かにこんな風に気遣われることもなかった。

 仕事に追われる日々の中で、自分の趣味や気持ちを理解してくれる人がいる。

 その事実が、疲れ切った心に染みわたる。


「そうですね……では、夕方の回に行ってみようかな」


「よかった! 感想、後で聞かせてくださいね」


 画面の向こうで、葵が満面の笑みを見せる。

 彼女の笑顔には、不思議と心が落ち着く力があった。

 最近は仕事の合間にも、葵とメッセージをやり取りするのが習慣になっている。

 彼女との会話は、息苦しい日常の中での、かけがえのない救いになっていた。


 ------------------------------------------


 月曜日の夜。

 いつものように葵とビデオ通話をしながら、私は今日のプレゼン資料の最終チェックを進めていた。

 明日の重要な取引先との会議に向けて、データの微調整を繰り返す。


「山田さん……」


 葵の声に顔を上げると、彼女が心配そうな表情で画面を覗き込んでいた。


「右目が少し痙攣してますよ。それに、さっきから無意識に肩を揉んでる。今日、会社で何かありました?」


 ハッとする。確かに右目の痙攣は気になっていた。

 肩を揉んでいた自覚もなかったが、カメラに映る自分の姿を確認すると、左手が肩に伸びていた。


「そんなに分かりますか?」


「だって、山田さんの仕草、全部物語ってますもん。口元を引き締めるクセも、ストレスを感じてる時の特徴ですよね」


 その言葉に、妙な安心感が広がる。

 誰かに、ここまで自分のことを見てもらえるのは久しぶりだった。


「実は今日、プロジェクトの方向性について上司と衝突して……」


 話し始めると、止まらなくなった。

 新入社員の教育の問題、予算の制限、納期の厳しさ。

 普段なら誰にも打ち明けない悩みが、自然と溢れ出す。


「辛いですよね……でも、山田さんは本当によく頑張ってる。誰かに認められなくても、私には分かります」


 優しい言葉に、目頭が熱くなる。葵は続けた。


「今、額にしわ寄せてますよ。泣きそうな時の表情、すぐ分かっちゃいます」


 思わず画面から目を逸らす。

 なんてことない日常の会話なのに、こんなにも心が揺さぶられる。

 葵は、まるで私の心を覗き込むように、的確に感情を読み取っていく。


「ねぇ、山田さん。今夜はもう資料作成を止めにしませんか?」


「でも、明日の……」


「目の下のクマが、昨日よりずっと濃くなってます。このまま進めても、良いアイデアは出てこないと思いますよ。少し休んで、リフレッシュしてからの方が」


 その提案は正しかった。

 実際、ここ1時間ほど、同じ箇所を行ったり来たりしているだけだった。


 ------------------------------------------


 それから数日が過ぎ、葵とのビデオ通話は日課となっていた。

 その日も、仕事を終えて帰宅した後、すぐに彼女に電話をかけていた。


「お疲れ様です、山田さん」


 接続と同時に、思わず画面を見つめてしまう。

 葵の髪型が、いつもと違っていた。

 肩くらいまでだったストレートヘアが、首元でゆるく巻かれている。


「髪型、変えましたか?」


「あ、気づきました?」


 葵が嬉しそうに微笑む。


「この前、山田さんが『ソードクエスト』のヒロインの髪型が好きって言ってたので、ちょっと意識してみたんです」


 確かに言った覚えがある。

 ゲームの話の流れで、理想のヒロイン像について語り合った時のことだ。

 まさかそんな何気ない会話を覚えていてくれるとは。


「似合ってますよ」


「ありがとうございます」


 葵の頬が薄く染まる。


「実は服装も……」


 カメラを少し引いて見せる葵。

 白のブラウスに紺のカーディガン。

 私が以前、「知的な雰囲気の服装が好き」と話した時の好みそのままだった。


「葵さんって、本当に気が利くというか……」


「えへへ、山田さんのことだから、きっとこういうのが好きかなって」


 その言葉に、心が温かくなる。

 相手のことを考えて自分を変えていく。

 それは、かつて彩との関係では、私にはできなかったことだ。


「あ、このカーディガン、ボタンの位置が可愛いですよね。実は山田さんの好きな『エンドレス・メモリー』のヒロインも似たようなデザインを……」


「ええ、確かに似てます。葵さんって、僕の好みをよく……」


「だって、山田さんのことをもっと知りたいから」


 彼女は画面越しでも伝わる柔らかな表情を浮かべる。


「好きな人のことを理解したいって、自然なことですよね?」


 その言葉に、胸が高鳴る。「好きな人」。葵はそう言ってためらわなかった。

 そして私も、その言葉を素直に受け入れている自分に気がついた。


 ------------------------------------------


 金曜の夜。

 週末の予定について話していた時だった。


「山田さん、最近ずっと家で仕事してますよね。たまには美味しいものでも取って、リフレッシュしてみては?」


 いつものように画面越しで葵が優しく微笑む。

 確かにここ最近は、仕事と家の往復だけの生活だった。


「そうですね。何か食べたい物といえば……」


「えっと、例えば……『ラ・ストラーダ』のデリバリーとか素敵だと思います。サラダバーは頼めないけど、パスタは絶品ですよ。ポルチーニ茸のクリームソースとか……」


 その瞬間、記憶が蘇る。

 3年前、彩と最後に会った店の名前。

 彼女が最後に頼んだメニュー。半分以上残して、彼女は帰っていった。

 窓際の席で交わした別れの言葉が、今でも耳に残っている。


「山田さん?」


 葵の声で我に返る。

 画面には、心配そうな彼女の表情が映っている。


「あ、ごめんなさい。その店は……」


「あ、もしかして思い出があるお店でしたか? ごめんなさい……」


 葵が申し訳なさそうに俯く。

 その様子に、胸が締め付けられる。


「いえ、葵さんが気にすることはないんです。ただ……」


「分かります。じゃあ、他のお店を探しましょうね。山田さんの気分が晴れるような……」


 その言葉に救われる。

 葵は決して追及してこない。

 むしろ、私の気持ちを察して、さりげなく話題を変えてくれる。


 だが、夜遅く一人になった時、どこか引っかかる感覚が残った。

 あの店について、どうして葵があんなに詳しく……。

 いや、新宿の有名店なのだから、知っていても不思議ではない。

 きっとそうだ。


 ------------------------------------------


「山田さん、お昼休みですか?」


 次の日の土曜日、いつものようにスマートフォンで作業をしていると、葵からビデオ通話の着信が入った。

 休日出勤の合間の昼休み。

 デスクで弁当を広げながら、通話に応じる。


「お仕事お疲れ様です。私も今、お昼ごはんを食べようと思って」


 葵が自撮りモードを切り替えながら話しかけてくる。

 背景には公園のベンチが映っている。


「天気が良かったので、お散歩がてら公園でランチを……あ、写真撮ったんです。見てください」


 葵が画面をギャラリーに切り替える。

 スマートフォンで撮影したという写真には、紅葉した銀杏並木が写っていた。

 黄金色に染まった葉が、秋の日差しに輝いている。


 その瞬間、私の呼吸が止まった。


 あの場所——。

 中央の樹木の形、道の曲がり方、ベンチの位置。

 まるで同じ構図だ。

 3年前の秋、彩と最後の写真を撮った場所。

 カメラを構えた時、彼女はすでに離れていくことを決めていたのだろうか。


 写真を見せる葵の声が、どこか遠くに聞こえる。

 私の心は、家の引き出しの中に眠る一枚の写真に引き寄せられていた。


「どうかしました?」


 葵の声に我に返る。

 彼女は心配そうな表情を浮かべている。

 その優しい眼差しに、胸の奥がズキリとした。


「ああ、いえ……」


 言葉を濁す私に、葵は首を傾げる。


「この公園、綺麗でしょう? 山田さんも、きっと気に入ると思うんです」


「……ええ」


 答えながら、私は気づいた。

 この公園の場所を、葵に話したことはなかったはずだ。

 いや、有名な公園なのだから、偶然かもしれない。

 構図が似ていただけかもしれない。

 そう自分に言い聞かせる。


「もっと写真撮ってきますね。山田さんに見せたい景色がいっぱいあるんです」


 葵の屈託のない笑顔に、不安な思いは薄れていく。

 だが、完全には消えない。

 その写真の光景は、まるで私を離さないかの如く瞳に焼き付いていた。


 ------------------------------------------


 夕方になり、ようやく休日出勤の仕事も片付いた。

 家に帰る準備をしていると、また葵から着信が入る。


「お疲れ様でした。晩ごはんはまだですか?」


「ええ、これから簡単に何か……」


「あ、カップラーメンはダメですよ。この前も胃薬飲んでましたし」


 その言葉に、手に取っていたカップラーメンを見つめる。

 確かに胃の調子は悪かったが、そんな話はしていなかったはずだ。


「胃薬のこと、話しましたっけ?」


「えっと……」


 葵が一瞬言葉を詰まらせる。


「きっと仕事の話の時に出てきたんだと思います。山田さん、最近お忙しそうだから心配で……」


 その優しい心遣いに、疑問は薄れていく。


「そうだ、『シャドウ・メモリーズ』の新作が来月公開ですね」


 何気ない葵の言葉に頷きながら、私は応える。


「ええ、楽しみにしてるんです。前作の伏線回収が……」


「私も大好きなんです。特に第二作の終盤、主人公の記憶が書き換えられていた真相が明かされるシーン」


 スクリーンの向こうで葵が目を輝かせる。


「山田さんも、初めて観たのは確か従兄弟さんと一緒でしたよね」


 何かが引っかかる。確かにそうだ。

 中学2年の夏、母の実家に遊びに来ていた従兄と一緒にDVDを観た。

 でも、そんな話をした覚えは——。


 だが葵は、何も気にした様子もなく話を続ける。


「今度の新作も、絶対面白いと思います。特に予告編に出てきた記憶操作装置のシーンとか」


 その笑顔に、先ほどの違和感が押し流されていく。

 きっと前に何か話したのだろう。

 最近は睡眠不足で記憶も曖昧だ。


 ------------------------------------------


 それから数日が過ぎた。

 気がつけば、仕事の合間の短い休憩時間も、葵とメッセージを交わすことが習慣になっていた。


「今日も会議が長引きそうですね」


「どうして分かるんです?」


「だって、山田さんの声に疲れが混ざってるから」


 画面越しでも、葵は私の心を読むように寄り添ってくれる。

 時には不自然なほど私のことを理解している気がして、背筋が寒くなることもある。

 でも、それ以上に、誰かに理解されている安心感の方が強かった。


 夜遅くまで資料と向き合う時も、葵は付き合ってくれた。

 時には厳しく休息を促し、時には励ましの言葉をくれる。

 彼女の存在が、私の生活の一部になっていた。


「山田さん、また徹夜しようとしてます?」


 ある深夜、葵の声が響く。

 確かに目は充血し、頭は重かった。

 でも、締切に追われる今の私には、休んでいる暇はない。


「大丈夫です。あとちょっとだけで……」


「ダメですよ。この前も具合悪くなって、救急車を呼ぼうか迷うくらい心配しました」


 その言葉に、私は画面を見つめ直した。救急車? そんなことは一度も……。


 だが、疑問を口にする前に、葵は優しく微笑んだ。


「ねぇ、少し休憩しませんか? 私が『シャドウ・メモリーズ』の考察を聞かせてあげます。山田さんの好きな監督の他作品との比較とか……」


 その誘いは、疲れ切った私の心に染みた。

 知りえないはずの情報を持っている不安も、彼女の優しさの前では薄れていく。

 今の私には、この関係が必要だった。

 理解してくれる誰かが、必要だった。


 ------------------------------------------


 日付が変わろうとする頃、私は久しぶりに早めに仕事を切り上げていた。

 葵との約束があったからだ。

『シャドウ・メモリーズ』の新作について、映画の考察を聞かせてくれるという。


 いつものように画面に向かって挨拶をしようとした時、私の動きが止まった。

 葵の背後の部屋に目が留まったからだ。

 暖かな色合いの間接照明に照らされた本棚。

 整然と並ぶ映画のパンフレット。

 そして、デスクの上に置かれた一つのマグカップ。


 薄いピンク色の表面に、手書き風の英字で「Sweet Memories」と書かれたそのカップ。

 三年前、彩が愛用していたものと、まったく同じデザインだった。


「あの……葵さん」


 声が震える。

 同じデザインなんて、ありふれているのかもしれない。

 でも、よく見ると、取っ手の部分の微妙な欠けまで同じように見える。


「どうかしました?」


 葵が首を傾げる。

 その仕草は変わらず優しく、無邪気だ。


「そのマグカップ……」


「あ、これですか?」


 葵が手に取る。


「可愛いですよね。雑貨屋さんで見つけて」


 その瞬間、カップの裏面が見えた。

 確かにそこには、彩が付けていた小さな星のシールが……。


「山田さん? 顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」


 葵の声が遠くに聞こえる。

 私の目は、マグカップの裏面に貼られた星のシールから離れない。

 かすかに端が剥がれかけている様子まで、まったく同じだ。


「あ、ええと……」


 言葉が出てこない。

 これは偶然なのか。

 それとも……。

 考えれば考えるほど、首筋が凍りつくような感覚に襲われる。


「もしかして、お仕事でまた何か……」


「いえ、その……お休みしようかと」


 慌てて通話を切ろうとする私の手が震えている。


「え? でも映画の話を……山田さん、本当に具合悪そうですよ? 今日は早めに休んで、明日また……」


 その言葉を最後まで聞かずに、通話を終了した。

 スマートフォンの画面が暗転する。


 真夜中の部屋に、パソコンのファンの音だけが響く。

 引き出しを開け、三年前の写真を取り出す。

 そこには確かに、彩が持っていたマグカップが写っている。


 同じデザイン、同じ星のシール、同じ剥がれ方。

 偶然で片付けられる範囲を、明らかに超えている。


 机に置かれたスマートフォンのバイブ音が鳴る。

 葵からのメッセージだ。


「心配です。本当に大丈夫ですか?」

「明日は朝から会議でしたよね。ちゃんと休まないと……」


 画面を見つめたまま、動けない。

 葵の心配は優しく、温かい。

 だが、その優しさの下に潜む何かが、私の背筋を寒くする。


「山田さん、今机の引き出し開けて、写真見てますよね?」


 次のメッセージを見た瞬間、私はスマートフォンを取り落とした。


 床に落ちたスマートフォンの画面が、また明滅する。

 葵からの新しいメッセージだ。


「山田さん、私のこと、怖がらないでください」


 手が震える。でも、もう逃げられない。

 これまでの違和感、説明のつかない出来事、すべての謎が、この瞬間に収束していく予感がした。


 震える指でビデオ通話のボタンを押す。


 画面の向こうの葵は、いつもと変わらない優しい表情を浮かべていた。

 その後ろには、私の記憶の中にしかないはずのマグカップ。


「どうして……」


 声が途切れる。


「どうして、そんなに僕のことを分かってくれるの?」


 問いかけながら、心臓が早鐘を打つ。

 知りたい、でも知りたくない。

 その相反する感情が胸の中で渦を巻く。


「山田さんのことは、全部知ってます」


 葵の声は、相変わらず優しい。


「中学2年の夏、従兄弟と観た映画のこと。高校の文化祭で舞台に立った時の緊張と興奮。大学で彩さんと出会って、好きになって……そして、別れた日のこと」


 私の人生が、まるでスライドショーのように語られていく。

 誰にも話していない記憶、心の奥底にしまい込んでいたはずの思い出が、次々と紡ぎ出される。


「どうして……」


「山田さんは、寂しかったんですよね」


 葵の声が、深く心に染み込んでくる。


「仕事に追われて、周りとの繋がりを失って。誰かに分かってほしいって、ずっと思ってた」


 その言葉に、喉が詰まる。

 確かにその通りだ。

 孤独で、誰かに理解されたくて、でも自分からは踏み出せなくて……。


「でも、あなたは一体……」


 質問を遮るように、スマートフォンの画面が歪んだ。葵の姿がノイズに埋もれていく。

 そして……。


 画面が完全に暗転する。


 部屋の明かりもその瞬間、急に消えた。

 まるで意図的なように、私を暗闇の中に取り残していく。

 スマートフォンを握る手に汗が滲む。


 そして、その闇を切り裂くように、スマートフォンの画面が再び明滅し始めた。


 青白い光の中に、文字が浮かび上がる。


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 文字が、まるで私の目を捉えて離さないかのように点滅を続ける。

 頭の中で、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。


 葵の不自然なまでの理解。

 知りえないはずの過去の記憶。

 元カノと同じ写真の構図。

 そして、あのマグカップ。


 すべての謎が、一気に解け明かされていく。


 暗闇の中で、スマートフォンの画面だけが青白く光り続ける。

 そこには新しいメッセージが表示されていた。


「山田さん、私との思い出は、楽しかったですか?」


 その文字を見つめたまま、私は動けなくなっていた。

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