31話
「カッサーロ、ただいま参りました」
地下に作られた大洞窟。その最奥で一人の竜人が片膝を突く。
彼の体躯は非常に大きく、竜人兵の倍ほどもある。体は鋼のような深碧の鱗で覆われ、背には太く長い尻尾と大きな翼。
頭部に伸びる角は、薄暗い洞窟の中にあっても主張するように白く輝く。
その姿はまさに威風堂々。
彼が圧倒的強者であることは、誰の目にも明らかだった。
彼は竜将カッサーロ。竜人兵を率いる将軍である。
今の竜族達は、カッサーロの指針に従い行動している。
彼は将軍であると同時に、事実上の族長でもあった。
しかし、彼自身はこれを認めていない。
故にカッサーロは今こうして、玉座の前で膝を折っているのだ。
「よく来た、カッサーロ」
「はっ」
かけられた声にカッサーロは頭を垂れる。
これをその白の竜族は自嘲するように笑った。
「そうかしこまるな……。このような老いさらばえた爺に」
老いた竜族は大きな体を揺らす。
その体躯は竜族の中でも大きなカッサーロを、更に二回りほど超えた巨体だった。
「何を仰いますか。長にはこれからも我々を導いて頂きたく。全力でお支えする所存に御座います」
「この石頭めが。もうこの椅子から下ろしてくれても良いだろうに」
頭を下げ続けるカッサーロに、その老爺は呆れたように溜息を吐いた。
老爺の名はキグリギス。この地に逃れた一族を、ずっと導いて来た竜族の長だ。
慣れぬ地で一族を率いてきた彼の苦労を、カッサーロは知っている。
これを理解できない若い竜族らはカッサーロを族長に推しているが、しかし彼はキグリギスを差し置いて、族長の座に収まる気などさらさらなかった。
彼はキグリギスを心から敬愛している。
一族の苦難を切り開き、導いて来た事は讃えられるに相応しい。
だがもう一つ。
竜族であるならば、誰もが頭を垂れるだろう絶対的な理由を、このキグリギスは持っていたのだ。
「神竜の寵愛を受けし方が何を。隠居などご冗談が過ぎます」
神竜の寵愛。それは即ち、竜の御力を行使する、神の子である意味を持つ。
その事実は竜族にとって、頭を垂れるに十分な理由である。
これがキグリギスを未だその椅子に座らせる、大きな要因となっていた。
しかし、ではどうして神の子と敬われるべき存在が、こんな地中で暮らしているのか。
それは彼ら竜族すら想像しなかった、神の悪戯によるものだった。
竜族は他を寄せ付けない程の、強大な力を持っている種族だ。
しかしその中でもとりわけ強力な力を持つ竜族が、ごくごく稀に世に生まれ出でる事があった。
それが、神竜の寵愛を受けし者。
一族に御子と呼ばれるその者は、出自など関係なく、生まれながらにして王位を約束されていた。
そこに疑問を挟む余地は無い。彼らが神と崇める神竜に選ばれた者なのだ。
御子の誕生は彼らへの福音。一族の繁栄を約束する神の落とし子を、一体誰が拒むだろう。
彼らの栄華は神竜の血あってこそ。故に彼らは御子を神のごとく奉る。
この歴史を当然のものとして竜族は信奉してきた。
そんな彼らだったからこそ、思いもしなかったはずだ。
それが竜族を真っ二つに割る、大きな火種になろうとは。
「キグリギス様を置いて、玉座に座れる事のできる者など他に――」
「よさんかカッサーロ。それはもう決着のついた話よ。我は神の御力を盗んだ異端者であり、神を欺きし者。兄様こそが正当な御子なのだ」
王家に生まれた男児の双子。その二人は互いに御子だった。
生まれながらにして王位を約束された二人。しかし王座は一つだけ。
御子となったばかりに二人の兄弟は、国を二分する骨肉の争いを強いられた。
結果負けた弟は国を去り、こうして穴倉の中で老いさらばえている。
自分を慕ってくれる者もいる。しかしその思いは、動く事もままならない老体には殊更堪えた。
「そんなことは――!」
「良い。それよりも、呼んだのはそんな昔話をするためではないのだ。聞けカッサーロよ」
立ち上がりかけた彼を手で制し、キグリギスは息を継ぐ。
「天より遣わされし者が、明日、ここへ来る」
そして紡がれた低い声。カッサーロははっと息を飲んだ。
「クラーコ、ラヘル、ケルヴァン。皆逝ったようだ。この爺よりも先に」
「――っ! まさか、あの三人が……!?」
キグリギスはここ何年もの間、この大洞窟から出たことは無かった。
己の眼で確かめたはずもない。
しかし彼の眼は、時間という枠を超え、事象を見通す力を持っていた。
キグリギスは悲し気に目を伏せる。
三人の死に様を見て来たかのように、彼の閉じた目から一滴の涙が零れた。
「キグリギス様。では――」
「彼の者に抗ってはならん」
迎え撃つ準備を、と続こうとした言葉にかぶせ、キグリギスは忠告する。
「明日、ここに彼の者を連れてくるのだ。少し話がしたい」
「しかしっ!」
「儂の目の事、お主も知っているはず。問題は無い。閉ざされた我らの道も、きっと開かれよう」
良いな、と言葉を結び、キグリギスは目の前の男を見据えた。
神竜が彼に与えた力。それは未来と過去を見通す能力だった。
キグリギスのその力は、今まで外れた事は一度も無い。良い未来も悪い予兆も、彼はその目で独り見続けてきた。
その未来を変えようと抗ったこともある。しかしその結果彼が知ったのは、望みなど無いという悲しい結末だった。
頭を下げ、カッサーロが去って行く。
その背中を見つめるキグリギスの双眸は、悲しげな光を湛えていた。




