初日
帝都を出て、馬で約20日。北方ガルナ地区に到着した。通常は馬車で家財道具なども運ぶが、ヘーゼンは持っていく物が極端に少ない。なので、通常の半分の日数で到着した。
さすがはディオルド公国との狭間だけある。帝国との境には、頑強な要塞が構えられていた。また、そこを中心に巨大な塀が立ち並んでいて、互いの国土をわける境界線となっている。
ヘーゼンは要塞へと入った。そこは、帝都の天空宮殿のような派手な装飾など欠片も見当たらない。簡素な廊下を歩き、軍令室の前に着いた。扉を叩き入室すると、卓上を軍人たちが取り囲んでいた。
「このたび配属されましたヘーゼン=ハイムです。よろしくお願いします」
敬礼をして挨拶をする。誰も反応せずに冷ややかな視線を送る中、一人の老人が笑みを浮かべながら、こちらへとやって来る。
「君が平民出身の将官か。実に10年ぶりらしいな。私はジルバ=ラグ。ここを取り仕切る大佐だ。よろしく頼む」
「よろしくお願いします」
「君は少尉からの配属だったな。では、第8小隊に配属だ。ちょうど欠員が出たのでな」
「はい」
帝国は貴族が特権階級を占めている。上級貴族の爵位は20、下級貴族には40。ヘーゼンは平民出身なので必然的にカースト最下級である。
しかし、将官制度における幹部候補生の身分制度は12の階級が存在する。もちろん新任なので最下位の『少尉』だが、これは、下士官の准尉、軍曹、伍長、上等兵、兵卒よりも更に上になる。
「他の者の自己紹介は、おいおい済ませよう。ちょうど今は重要な会議でな。それまでは、第8小隊で訓練を実施してくれ」
「了解しました」
「なにか質問は?」
「ありません」
「そうか……では、気をつけてな」
「はい」
ヘーゼンは返事をして、退出する。扉を閉め、少しその場で立っていると軍令室から声が聞こえてきた。
「なんだか、無愛想なやつだったな。まあ、すぐに死ぬから別に構わんが」
「しかし、大佐もお人が悪い。あの、ならず者集団の第8小隊に配属ですか。やつらが新人幹部候補生の指示を素直に聞くとは思えませんが」
「それなら、それまでのことだ。どうせ、中央では平民の将官など、望まれていない。特に優秀な将官は……な」
「……」
会話を黙って聞きながら、ヘーゼンは廊下を歩き出した。どうやら、あまり歓迎されていないようだ。それにしても、いきなり死地へと投げ込むような真似は、まさしく軍人らしく手っ取り早い。その方が、むしろヘーゼンの性には合っていた。
自分の部屋の前まで行くと、そこには人並外れた巨漢の男が立っていた。彼はカク・ズという名で、ヘーゼンが雇った護衛官である。帝国将官は職位に応じた人数の護衛を帯同させることができる。カク・ズは、エマと同じくテナ学院で共に過ごした仲だ。文官としての成績がイマイチだが、武芸では折り紙つきだ。
ヘーゼンは部屋の中に入り、牙影を手に持つ。これは、魔杖と呼ばれるもので、魔法使いが魔法を放つための法具である。形状は種類によって異なるが、牙影は、細くしなる教鞭のような形状だ。
持ち場の訓練場に到着した。かなり広い平原で、遮蔽物も建物もなにもない。そこでは、第8小隊の者たちが訓練を実施していた。人数は40人ほどで、5人の軍人が監督している。しかし、武芸訓練なのだろうが、各々ひどく散漫な動きで、連携も乏しい。
ヘーゼンは、監督者の一人に近づく。目つきが悪く小太りの中年だった。
「准尉はいるか?」
「あっ? 誰だ、お前」
「ヘーゼン=ハイム。第8小隊の新任少尉だ」
「ああ」
小太りの中年男は、含み笑いを浮かべる。
「君の名は?」
「チョモだ。ここの曹長をしている。まあ、覚えなくても構わないがな」
「なぜだ?」
ヘーゼンが尋ねると、チュモは薄ら笑いを浮かべて額を近づける。
「不思議とな。ここにくる准尉や少尉は長生きできねのよ」
「なるほど。言いたいことはわかった。准尉はおらず、君たち曹長が指揮してるという訳か。では、チョモ曹長。全員を集めてくれ」
「あ? なんで」
「そんなこともわからないのか? 上官命令だからだ」
「新任だろ? 大人しくしとけよ」
チュモ曹長はせせら笑いながら答える。
「……こいつを拘束しろ」
ヘーゼンが指示すると、カク・ズがすぐさまチョモ曹長の背にまわって両腕を抑えた。
「がっ……なにすんだ!? 離せ!」
「君は今、罪を犯した。一つは、上官である僕の命令に逆らったこと。二つ目は、僕の言った意味をすぐに理解しなかったこと。そして、最後に上官である僕に指示をしたこと。この三つをもって、杖刑に処す」
ヘーゼンはチョモの後ろにまわり、魔杖を尻に向かって思いきり打ちこむ。
「ひ、ひぎいいいいっ」
甲高い叫び声で、第8小隊の全員がこちらを向く。一方で、チュモ曹長は口からヨダレを垂れしながら、もがく。彼の制服から真っ赤な血が、ジワリと滲む。
しかし、そんな様子を一切省みることなく、ヘーゼンは2発目、3発目を打つ。途端に、布が破れて血が吹き出し、チョモは口から泡を吹き、白目を向いて気絶した。
そんな光景を、第8小隊の全員が呆気に取られる。しかし、黒髪の青年は気にしない。そのまま、彼らに向け笑顔を浮かべた。
「ヘーゼン=ハイム。第8小隊の新任少尉だ。これから、君たちの上官になる。よろしく頼む」
「……」
「返事は?」
「はい!」
一斉に揃う。
「ここのチョモ曹長と同じ曹長は君たちか?」
ヘーゼンは監督していた4人を見る。そのうちに一人、痩せた小柄の男が近づいてきた。
「はい」
「君。名前は?」
「ディケットです」
痩せた小柄の男は答える。
「この訓練の目的は?」
「そりゃ、戦闘のためです」
ディケット曹長は、軽くふて腐れたように言った。
「そうか。ならば、変更だ。全員、今から日が暮れるまで走ってもらう」
「……わかりました。ほら、お前たち。早くやれ」
「勘違いするな。君たち曹長もやるんだ」
「……はっ?」
「戦闘のために、こんな低レベルの訓練しか実施できないのだったら、走って体力向上に努めた方がマシだ。そして、走るだけならば、監督者など一人で十分だ」
「……」
ディケットや他の曹長たちの瞳に敵意の色が入る。
「返事は?」
「……はい」
「他の者は?」
ヘーゼンが見渡す。曹長たちは悔しそうな表情を浮かべながらも、一応は返事をした。
「僕の見える範囲で、そことそこの木の間を30往復だ。1時間のタイムを切れ。できない者は、もう30往復追加だ。不正は許さない。発覚した場合は、このチョモ曹長と同じく、杖形に処す」
「……っ」
次々と厳しい指示が飛び、曹長以下全員がこちらを睨みつけるが、ヘーゼンは気にしない。無機質に開始の合図を告げて、走らせる。
「いくらなんでも、初日から厳しいんじゃ?」
隣のカク・ズが呆れたようにつぶやく。
「なにを言っている? 君も走るんだぞ」
「お、俺も?」
「当たり前だ。君は、30分以内には必ず帰ってこい。じゃなきゃ、今日の飯は抜きだ」
「そ、そんな……」
一瞬、ごねようとしたが、長年の付き合いで折れないことはわかっている。カク・ズは猛然と走り出した。