ヘーゼン=ハイム
三日月の夜。馬車から降り、湖のほとりで休憩している時だった。水面みなもが光に照らされて、ひどく痩せこけた老人の姿が映し出される。
彼の名はヘーゼン=ハイムと言った。
もはや、軽やかに動くことはない。腕も足も痩せ細り、身体を支えるのもやっとの状態だ。しかし、それでも構わなかった。それが、老いると言うことだ。人はみな老い、死ぬ。それが万物の理ことわりである。
……たった一人の例外を除いて。
その男のことを思い浮かべながら、ゆっくりと立とうとすると、突如として心臓に痛みが走る。ヘーゼンは思わず、その場でうずくまった。
「哀れだな」
そう言い捨てたのは、側にいた弟子のロイドであった。
「……早く、薬を」
もがきながら、ヘーゼンは近くの小瓶に手を伸ばす。しかし、ロイドは老人の手をぞんざいに払い除け、あざ笑う。
「史上最強の魔法使いと謳われて一世紀以上。しかし、そんなあなたも歳には勝てないんだな」
「……うぐっ」
胸を押さえながら、仰向けになる。視界がだんだんと暗くなってきたのを自覚した。
「安心してください、先生。俺があなたに永遠の命を吹き込みますよ。操り人形として……永遠にね」
「……」
この憎たらしい表情が、この世で見る最後の景色か。そう思うと、自身の犯してきた巨大な業を感じざるを得ない。
「……この……クソ弟子、地獄に……落ちろ」
なんとか最後の言葉を振り絞り、痩せこけた老人は瞳を閉じた。
この時、ヘーゼン=ハイムは賭けをしていた。
もう2度と目を覚さなければ、それでいい。
しかし、再び目を覚ますことがあれば……
*
*
*
目覚めた時、ヘーゼンは15歳の身体であった。黒髪の少年は、手術台から起き上がる。この瞬間、転生が成功した事実を自覚した。そして、とめどない絶望が彼を襲う。
「お帰りなさい。実に30年振りですね」
白髪の老人が、柔らかな笑顔で出迎える。
「老いたな、ライオール」
「手厳しい言葉もお変わりがなく、安心しました」
なんとも言えない苦笑いを、白髪の老人は浮かべる。ライオール=セルゲイ。彼もまた、ヘーゼンの弟子である。
「……すまない。転生させてくれた代償は大きかったようだな」
ヘーゼンは老人の全身を見ながらつぶやく。
「ああ。この腕ですか? むしろ、よくこれくらいで済んだものです。あの方は、やはり、恐ろしく強い」
ライオールは視線を自身の肩へと向ける。その下には、本来ついているはずの腕がなかった。
「新しい器はどうですか?」
「……思考も魔力も身体の動作も、前の身体と遜色ない」
黒髪の少年は、腕、指、足などを動かしながら答える。
「名門ハイム家の最高傑作ですからね。その身体の主は、なにからなにまで、あなたソックリでした。よくわかりましたよ。彼らが、どれだけあなたを憎んでいたのか」
「……」
大陸中に名が轟くほどの名門ハイム一族であるが、ヘーゼンという人物はその中でも異端だった。彼は半ば強引に分家として独立し、本家に距離を置いた。歴史で語られることはないが、ヘーゼンはその類い稀な能力でハイム家を迫害し続けた。
それはヘーゼンのかけた呪いだった。ハイム家家長であった父も、弟にあたる息子も、孫も、ひ孫ですらもヘーゼンという魔法使いに囚われている。それは、彼を超える人物を生み出すことでしか、決して解けることない呪い。
皮肉にも、そんな呪いの結晶がヘーゼン転生後の母体となった。
輪郭も目も鼻も。髪色も肌の色も背丈も手の大きさも指の長さも。腕の長さも匂いも声質も。若かりし頃のヘーゼンと変わりがない。
「しかし、今のままではヤツには勝てないな」
「……ええ。ロイドも、あの方に取り込まれました」
ライオールが頷く。
その魔法使いの名は、アシュ=ダールと言った。
『闇喰い』と恐れられ、この大陸の裏権力を牛耳る男である。彼の強さは自身の魔法使いとしての能力だけではない。破格の性能を持った側近たちが彼の周囲を固め、常に彼らと行動を共にする。
果ては、永遠の若さと肉体を手に入れた不死人であるが故に、何度消滅させても復活してくる正真正銘の化け物である。どうあがいても、今の戦力ではアシュには勝てない。
……この大陸にいる限りは。
そんな考えが、ヘーゼンの脳裏を支配する。ここが西大陸だとすれば、黒海を挟んで東側に同じほどの大陸が存在する。
その地は、西の大陸とは異なった文化形成を為している。例えば、西は救世主アリストの伝説が有名だが、東では主に魔王と聖王の逸話が語られている。また、西では天使と悪魔の崇拝が比較的発展しているが、東ではまったく異なる信仰形態が為されているという。
東の大陸にはこのような伝承以外に、まったくと言っていいほど情報がない。それは、黒海の航海を成功した者が、史上数人しかいないと言われるからだ。
その一人が、千年前に黒海を真っ二つに割って渡ったとされる救世主アリストである。
しかし、学び盛りの若さを手に入れた黒髪の男は、直感的にそれが必要だと考えた。すでに時代は彼から遠のき、次から次へと流れている。新たな時代を切り開くためには、更なる進化を促すための刺激と戦力が必要だ。
「面白いな」
ヘーゼンは思わず笑った。
物語は、それから2年が経った日から始まる。