小学校の同級生と少しだけ同居した話
今晩の最低気温はマイナス7度。今年の最低気温を更新するらしい。仕事帰りのコンビニで缶コーヒーを買い、小走りでアパートを目指す。
防寒着を貫通する寒さが襲う。東京でこれほど冷え込むのも珍しいだろう。この後雪が降るのかもしれない。
ふと、五年前の冬の日々を思い出した。都妃美が僕の住むアパートに訪れたのも、こんな感じの夜だった。
*
当時僕は、東京で一人暮らしをする大学生だった。この日は来月に迫った定期試験に向けて、図書館で勉強をした帰りだった。
アパートに着くと、僕の部屋の前に知らない女が立っていた。キャリーバッグを侍らせ、スマホをいじりながら部屋の主が来るのを待っているようだった。とはいえ、その部屋の主は僕だ。
女が部屋を間違えていると思った。
「何してるんですか?」
僕はなるべく平坦な口調を心がけて訊いた。
「あ、 彰人くん?」
女の口から意外な言葉が飛び出してきた。
「彰人くん」なんて言われてもこっちは向こうのことなど全く知らない。
幼馴染を装って怪しいセールスや宗教に勧誘する詐欺の話を聞いたことがある。その類に狙われたのだと思った。
僕が返答に困っていると、
「覚えてるかな、小5の頃一緒だった佐藤都妃美だよ。 京都”の“都”に王妃の“妃”で美しいの“美”。君、馬場彰人くんだよね?」
寒かったこともあって、警戒も無く女を部屋に入れた。さすがにマイナス七度の下に放っておくのは可哀そうだった。
佐藤都妃美は小学校時代の友人だ。もっとも、友人だった期間は小学5年生の1年間だけで、6年生になると彼女は祖父母の住むタイに引っ越してしまったのだが。
事情を訊くと、東京の大学に帰国子女枠で入学して、一人暮らしを始めたはいいものの、アパートが火事になって焼け出されたらしい。大学に友人はおらず、かといって両親はタイにいるので、唯一頼れるのが小学校時代同級生だった僕ということだ。
「それにしても、どうして僕の居場所が分かったのさ。今と昔じゃ住んでる所も違うし」
「昔の連絡網から彰人んちに電話したんだよ。事情を話したら彰人が東京に住んでるって聞いたから、それで」
「すごい、よくそんな昔の連絡網なんて持ってるね。なるほど、うちの親もよく話を聞いてくれたよ。小学校の時の同級生なんて普通覚えてないしさ」
「意外と覚えてくれてたよ。佐藤都妃美ですって言ったら『あらツキミちゃん! 久しぶりね! 元気してるー?』って言われた」
「やっぱ親って、意外と昔のことも覚えてるものなんだね」
こうして家賃の半額を負担してもらうことを条件に、僕と都妃美の同居生活が始まった。
都妃美は小学校時代の同級生だ。
当時から根暗だった僕は、休み時間にも話す人はおらず、一人で本ばかり読んでいた。
そんなある日、彼女がタイから転校してきた。
偶然隣の席になった彼女は、積極的に僕に話しかけてきた。学校の勉強で分からないことがあるとすぐ僕に聞いてきて、休み時間になると毎回僕に声をかけた。
転校したばかりで心細かったのかもしれない。いつも一人でいる僕は、ある意味で接しやすい人物だったのだろう。
僕が好きな漫画の話をすると、タイでその漫画がブームになっていたらしく、その話で盛り上がることができた。
友達がいなかった僕に出来た唯一の友人であり、だからこそ6年生に上がる前に彼女がタイに帰ってしまったときは心底悲しかった。
あの時から数年ぶりの再会と、そこから始まる同居生活。
はっきり言って、彼女の暮らしぶりは“ひどい”の一言に尽きた。
家事と呼ばれるものは何一つせず、服やゴミは散らかりっぱなしだった。
二部屋あるうちの一部屋は、瞬く間に彼女の物で埋め尽くされ、家賃を半分払うのだから半分は私のものである、とでも言いたげだった。
生活も謎に包まれていて、一日帰ってこないと思ったら、深夜に酒の匂いを纏って帰ってくるような日が週に3度はあった。酔った彼女を駅に迎えに行くのもザラで、そのたびにこの女が昔の都妃美と同一人物だということが信じられなくなった。
彼女を車で迎えに行った何度目かの夜、彼女の口からこんな話が漏れて出た
「タイはひどいよー。私のこと『日本人だ』って虐めてきたんだ。戦争で日本人はタイにひどいことをした悪い奴らだって。筆箱とか隠されたり、日本で買ったランドセルが川に捨てられたときはほんとに悲しかったな……。あいつらの方がよっぽどひどいよ。いっそ完全に滅んじゃえばよかったんだ」
泥酔しながらそんなことを口走る彼女は、なんだか心底哀れに思えた。
昔の明るかった性格は、タイでの過酷な日々で失われてしまったらしい。
僕の小学校時代を彩ってくれた彼女は、自分の学校生活を彩ることができなかったのだ。
「いつも誰と飲んでるのか知らないけどさ。せっかく日本に来たんだからもう少しマシな人間関係作ろうとか思わない? こんな遅くまで飲んでべろべろになって、ちょっと心配になるよ」
「ん。そうする」
そう言って彼女は揺れる車内で眠りに落ちてしまった。
彼女のバックグラウンドを考えると、昔とは違うということをひしひしと感じさせられた。
僕の部屋を去る前日、珍しく彼女が台所に立つところを見た。
「今ね、“揚げパン”作ってるの」
「揚げパン? 変わったの作るね」
「そう? 日本じゃ結構メジャーじゃない?」
「給食以外で見たことないよ。まあ人気メニューだから、ある意味メジャーかもしれないけど」
「部屋で待ってて、あとで持ってくから」
しばらく待っていると、パンの揚がった香ばしい香りが部屋を満たしていた。
出来上がった揚げパンは、当時のものとはあまり似ていなかったものの、これはこれでありだと思った。
「こうしてると小学校の時を思い出すね。あの時が一番楽しかった」
「今は楽しくない?」
「うん。大学生になってから日本に戻ってきたけど、あんまり。私どうやって友達作ってたんだっけなー」
「都妃美が美人過ぎてみんな遠慮しちゃってるんだよ、きっと」
「ね、ほんとそれならいいと思うわ」
彼女は揚げパン片手にうっすらと笑みを見せた。彼女の目の奥には、寂しさと苦しさが透けて見えた。
翌日、「今までありがとう」とだけ言うと、都妃美は出て行ってしまった。
部屋は嘘みたいに片付いており、彼女の物は何一つ残されていなかった。
一時の寝床だけじゃなく、彼女は何かを求めてここに来たのだろう。
それが過去の楽しかった記憶なのか、これからともに過ごすための仲間だったのか、今となっては分からない。
いずれにせよ、僕は彼女の求めるものにふさわしくなかった。それに変わりはない。
*
都妃美は今どうしてるのだろうか。ちゃんと暮らしていけているだろうか。彼女の幸せをいくら願っても、僕のもとには彼女の揚げパンのレシピしか残っていなかった。昔の連絡網も、連絡先も残されていない。
雪が降り、あっという間にコーヒーは冷めてしまった。今夜はひどく冷える。社会人になって、あのときより広い部屋に住めるようになったが、一人ではあまりにも寂しい。
彼女もこんな気持ちだったのだろうか。
日本の冬はあまりにも寂しい。