第32話。サラになだめられ、気持ちを切り替えようとお化粧を直す鞠絵。戦場に出る決意をする。
第32話です。
そう決意して窓から覗き込んだのだが、見えた光景に思わず驚いて身を引いてしまった。
「マ・リエ?どうしたんだ」
すぐにルイが問うてきたが、私は答えることができなかった。
湖から一キロと離れていない場所で既に戦闘が行われており、しかも窓には遠見の魔法がかけられているため、まるですぐそこで殺し合いがされているように見えたのだ。
いやだ。辛い。でも、見なければ。
意を決して、また窓を覗き込む。
遠見の魔法によって間近で見えたものは…リアルな戦場だった。
双方鎧をつけてはいるが、剣や槍によって腕や脚が傷つけられ、あちこちで血が飛び散っては地面に滴っている。
覚悟が甘かった。わかっているつもりで、わかっていなかった。人と人とが殺し合う、戦争、というものを。
生々しい戦に私の呼吸は早くなり、心が見ることを拒んだ。それでも全体を見渡そうと目線を走らせた先に、つい見えてしまったのが。
剣で切られた首から、血を噴き上げながら倒れる戦士の姿だった。
「…っ!」
私の中に、この世界に来る前の記憶がフラッシュバックする。
見知らぬ誰かに首を刺され、口いっぱいに広がった血の味が蘇った。息ができなくて、喉からあふれ出る血を止めることもできなくて、新しく買ったお洒落な服も足元の道路も真っ赤に染まった、その色で頭がいっぱいになり、私は咳き込みながらその場に倒れ込んだ。
「マ・リエ!マ・リエ、どうしたの!大丈夫!?」
「あ…わたし、わたし…いきが、いき…できな…」
「どうしたの!?」
「喉が…のどが…血で…」
はっとしたサラが、私に覆い被さるようにして耳元に吹き込んだ。
「大丈夫よ、あなたはどこも怪我なんてしてないわ、ほら息をして!」
サラの声は聞こえるけれど、私の喉はひゅう、ひゅうとおかしな音をたてるばかりで空気を通してくれない。
頭の中が痛みと恐怖に真っ赤に染まっていく。
「姫様!どうなさったのですか!?」
駆け寄るタニアを、私がどうやってこの世界に来たのか知っているサラが押し留めた。
「少し、私に任せて。マ・リエ、よく聞くのよ、あなたは大丈夫。痛くない。あなたの喉は切られてない。ほら」
サラが言い聞かせるように穏やかに優しく言って、私の右手を取り喉に当てさせてくれた。そこには確かに傷ひとつ触れることはなく、何の痛みもなかったけれど、記憶の中の痛みと血の味はなかなか私の中から去ってくれない。
サラは私の喉に手を当てさせたまま、もう片手でぎゅっと私を抱き締めた。安心させるように大丈夫、大丈夫と彼女が私の耳に何度も囁く。
「あなたは傷ついてない。あなたは治ったのよ。痛くない。血の味もしない。落ち着いて、ゆっくり息をして」
「…ひゅ…う…ひゅう…」
そうだ、私はナギと融合して異世界にやって来たんだ。だから死んでない。傷もない。服だって汚れてなかった。必死になって、キアと出会った時のことを思い出す。
あの、可愛いユニコーンのことを。
涙があふれた。
「…は、はっ、はっ、は…っ」
やがて赤い色と血の味が薄れていって、私はようやく浅い呼吸をすることができるようになった。息を整えながら見上げると、サラの焦げ茶色の瞳が優しく、しかし心配そうに私を見下ろしていた。
「サ…ラ」
「ええ。ゆっくり、ゆっくりね。大丈夫だから」
「姫様…戦場を見慣れていないのですから、急に覗き込んでは刺激が強いですよ。タニアが傍におりますからね」
「マ・リエ」
「マ・リエ殿…」
皆が私を心配してくれてる。こんな時なのに、それが温かい喜びとなって私の中に満ちて、少し息が楽になった。
しっかり、しっかりしなくちゃ。
私は大きく肺を膨らませるように息を吸い込み、ゆっくり吐いて呼吸を整えた。
「サラ…ありがとう」
「いいのよ。無理もないわ」
レイアが私の傍に膝をついて、頭を撫でてくれた。
「この窓はすぐ近くに見えますから…驚かれたことでしょう。早くに申し上げずに、申し訳ございませんでした」
「レイア様…いいんです。弱かった自分が悪いんです」
「マ・リエ、そんなことないわ。あなたは…」
「ありがとうサラ。でも今回ばかりは、そんなことは言っていられないの」
そうだ、ナギとの作戦を実行するためには、あそこに行かなければならない。
できるだけ敵のすぐ近くで遂行しなければならないんだ。
でも…呼吸は戻ってきたけれど、血の味ももうしないけれど、体が…動かない。
動かなきゃならないのに、固まったみたいに体が強張って、言うことを聞いてくれない。
私…まだ、怖いんだ。
皆がいてくれて、慰めてくれて、自分にはもう傷がなくて生きているってわかっていても…怖い。
怖いの。
「私…」
どうしたらいいの、お母さん。
私、皆のためにこの世界で役に立ちたいのに。
『毬絵ちゃん、笑って』
ふと、私の脳裏に母の口癖が蘇った。
『毬絵ちゃん、歌って』
うん、そうするねって思って、あの日お洒落して出かけたんじゃないの。
刺されてしまったけど…とまた思い出してしまって、私は自分の喉を押さえた。
でも今は一人じゃない。皆もいるし、ナギもいる。
頑張らなくちゃ。
こんなところで立ち止まっている場合じゃないんだ。
その時、遠くからオオー…という竜の声らしきものが響いてきて、レイアが顔を上げた。
「お義兄さまの声です…!」
オオー、ウオオーと続いて聞こえた声に、レイアは息をのむ。
「子どもたちを返してくれ…と言っています。まだ、まだ正気を保っておられるんだわ…!」
本当!?それなら尚更、急がなくちゃ。
私の歌でも壊れた心は治せないだろう。でも、まだ壊れていないのだとしたら。
まだ、間に合うんだ…!
気を取り直して、しっかりして、自分の成すべきことをするのよ。
そう思うと、不思議と体が動いてくれた。
体を起こした私は、サラが背中を支えてくれようとするのを笑って遮る。
「もう大丈夫。皆を助けなきゃ。でも私、まだ怖いの。だから…出る前にお化粧を直そうと思うの」
「出るって?」
突然の私の発言に、サラだけでなく周囲が目を白黒させるのにかまわず、私は私たちを案内してくれた混じりものの軍人に聞いた。
「気持ちを切り替えなくちゃ。ここにはお化粧のできる侍女さんはいますか?」
彼も怪し気な顔をしていたけれど、私の顔を見て何も聞かずに頷き、こちらへ、と誘導してくれた。いぶかしげな男性陣を置いて、まだ不思議そうな顔をしているサラと、何やら納得したらしいタニアとレイアがついてきてくれた。
司令官が頭を下げる。
「我々は会議室におります」
男性陣は塔の上で作戦会議をするようだ。
私たちは塔を下りて砦の中に入り、呼んでもらった二人の侍女さんに私の化粧を頼んだ。
「こんな時におかしいと思うでしょうけど、お願いします。気持ちを引き締めたいんです。がっつりお願いします」
「かしこまりました」
「お気持ちはわかりますわ。どうぞ、私の道具を使ってください」
「ありがとうございます、レイア様」
レイアが貸してくれた化粧道具を使って、二人がかりでお化粧をしてもらった。これでいかがでしょう、と渡された手鏡の中に映っていたのは、美しい白いドレスを身にまとった、清楚で高貴な姫君だった。
サラとタニアとレイアだけにしてもらった室内で、鏡に映った自分を見つめながら、言い聞かせるように静かに呟く。
「私は聖銀のマ・リエ」
そうだ。沢村鞠絵はまだ私の中で膝を抱えて怖い、怖いとうずくまっている。鞠絵は怖くて動けないけれど、聖銀と呼ばれたマ・リエなら出来るんだ。
「ドレスをまとい髪を結いあげ、飾りをつけて着飾りましょう。顔には粉をはたき、目元と頬に色を添え、最後は唇に紅をひいて…これが私の戦支度。私は聖銀のマ・リエ、剣も盾も鎧もいらない。剣の代わりに停戦の旗を掲げ、白いユニコーンに乗って戦場を駆けましょう。私は聖銀のマ・リエ、この声ひとつで数万の軍勢を屈服させましょう。さあ、苦しんでいる竜を助けに行くわよ」
「停戦の旗?マ・リエ、あなた何を言っているの?」
首を傾げるサラに、私は説明した。
「あの戦場の出来るだけ近くに行く必要があるの。私の声を届けるために。だから、停戦の旗を持って行くのよ。停戦には旗が必要だって前に聞いたから」
「えっ…でもそれって戦場に出て行くってことよね。危ないんじゃ…」
「大丈夫よ、サラ。私にはナギがいるもの」
「で、でもマ・リエ様…」
「ルイにも行ってもらうし、心配しないでくださいレイア様」
「私も一緒に行きます!」
「いいえタニア、これは私とルイだけで行ったほうがいいの。あなたはここで、サラたちと待っていて」
そう優しく微笑んでみせると、タニアは頬を染めて渋々頷いた。
「…何か、策があるのですね。それではその策を、指揮官に相談に行かなければですね。…ああ~…それにしても…マ・リエ姫様、とっても綺麗です…うにゃ~ん…」
「こらえてタニア」
「まるで天の国の王女様みたいにゃ…きれい…絶対只人たちもめろめろにゃ…」
「ありがとう。そう言ってもらえると自信が持てるわ」
私はタニアに微笑みかけて、皆と一緒に塔の上にいるはずの指揮官の元へ戻った。後ろでタニアがへにゃへにゃになっている気配を感じたが、サラとレイアが支えてくれたみたいだ。(続く)
第32話までお読みいただき、ありがとうございます。
自分に自己暗示をかけることってありますよね。
また次のお話も読んでいただけましたら嬉しいです。




