第260話。闇の中で、ヴィレドとトレントに襲いくる恐怖とは。そしてそのただ中にいたのは、アトラス帝国皇帝だった。ヴィレドに向かって語り掛ける皇帝に、ヴィレドは…。
第260話です。
「ヴィレド…さま…」
隣のトレントが、カタカタと歯を鳴らしながらかろうじて発声する。フーッ、フーッとようやく呼吸をしながら、ヴィレドは両手に力をこめて剣を握り締めた。
ほころびの瞳を見ているだけで、足が床に溶けていくように力が抜ける。この空間に、ほころびの瞳に、全身がバラバラになりそうだ。
しかし、初めて目前で見るほころびの瞳に腰が砕けそうになるのを必死に耐えているヴィレドは、その大きさがおかしいことに気づいた。
外から見た、塔のてっぺんの部屋の倍以上はあるように見える。
そんなわけはないのに。
しかも、ほころびの瞳がある位置がもっとおかしい。
扉から百メートルは先にあるように見えるのだ。
この部屋は、そんなに広いわけがない。
そして、己が立っている床も歪んでいた。
しかし何よりも恐ろしいのは、ほころびから流れ出たであろう邪気だった。
歪んだ床を煙のように這いまわり、ヴィレドたちの足元にもやってこようとしている。
もしあれに触れられたら…と思うだけで、背筋に冷たいものが流れた。
ほころびを封じている神気と魔力、ほころびを開こうとしている邪気と虚無の均衡が崩れ始めた結果が、この異様な部屋なのだろう。
目を凝らすと、その這いまわる邪気のただ中に、皇帝がぽつりと立っていた。
「…ッ! 陛下…ッ!」
同時に気づいたのだろうトレントが、前歯の隙間から唸るように呼ぶ。
皇帝はきらびやかな玉衣の裾をどす黒い邪気に染め上げながら、何事もないように笑っていた。
「クッ、ククク…やはり、貴様が来たか。ヴィレド」
こちらを向いた皇帝が、そう笑った。その声は歪んだ薄闇の空間の中で、ヴィレドの周囲を包むように響いた。
皇帝は、こんな声をしていただろうか?
ヴィレドが眉をしかめるほど、その声はいびつでギシギシときしんでいるようだった。それでいて、邪気に乗ってヴィレドの周りをゆらりと巡っているようだ。
その気味悪さに、ヴィレドは奥歯を噛み締めて耐えた。
「…ッ!」
逃げろ。
部屋に入った時から、彼の持つギフトがそう叫んでいた。
一瞬たりとも、ここにとどまってはいけない。ガンガンと頭が痛み、吐き気がするほどに、ヴィレドの存在そのものが絶叫している。
いや…逃げるわけにはいかない、とヴィレドは己のギフトを無視した。今はそれが最善に思えた。
己が今ここにいるのは、皇帝を捕らえる義務のためなのだから。
その考えこそがおかしいと、この時のヴィレドは気づけなかった。
皇帝がゆっくりと近づいてくる。それは好機のはずなのだが、ヴィレドたちの体は動かなかった。(続く)
第260話までお読みいただき、ありがとうございます。
とうとう皇帝と相まみえたヴィレドは…。
また次のお話も読んでいただけましたら嬉しいです。




