侯爵閣下の論破
ルキアが豪華な馬車から降りて、ゆっくりと歩いてくる。
先程まで喚いていた避難民たちが、そんなルキアを見ながら呆然としていた。その表情に浮かんでいる疑問は、恐らく幾重にも巡っていることだろう。
何故こんなところに貴族が。
あんな少女が侯爵閣下なのか。
下手に騒いだら首を斬られるのか。
実際、一人や二人は騒ぎ立てる者がいるかとも思ったけれど、衛兵が剣を抜いたことで、それが冗談ではないと理解しているのだろう。
「すまないね、遅くなったよ。ソル君」
「……ありがとうございます、ルキアさん」
「額から血が出ているよ。わたしのハンカチを使いたまえ」
俺に近付いてきて、そうハンカチを差し出してくるルキア。
桃色で花柄のそれは、彼女の趣味なのだろうか。子供のように思われると機嫌が悪くなるくせに、こういう小物は少女趣味であるらしい。
ありがたくそれを受け取り、頬に流れた血を拭い取り、まだ痛む石の当たった場所を押さえた。
「その……ルキアさん、何故、ここに?」
「わたしが、ここにいることが不思議かな?」
「ええ、まぁ……」
ルキアは、これから訪れるだろう災厄に向けて、色々と準備を行っていたはずだ。
避難民に対しての衣食住を整えなければならないし、領民たちの騒ぎも収めなければならない。そうでなくとも、ただでさえ領主として忙しい身なのだ。
わざわざ、ここまで来た理由が分からない。
しかしルキアは、俺の質問に対して不敵に微笑んだ。
「わたしにとって今、何よりの優先事項はこの大結界だ」
「ですが……」
「きみを信頼していないわけではない。だが、確認すべきことは自分の目で確認しなければ、気が済まない質でね。諸々の仕事を済ませたから、領境の様子を見に来たのだよ。いや……実に立派なものだ」
ルキアが改めて、そこに張られた大結界を見る。
そして、ぐるりと周囲を見回した。俺を囲んでいる、先程まで石を投げていた避難民たちを。
「さて……何やら言いたいことがある者が、何人かいる様子だが」
「あ……あなたは、侯爵閣下、なのですか?」
「ああ、そうだとも」
俺へと、最初に石を投げつけてきた男――妻と娘がまだ向こうにいると訴えてきた者が、ルキアへ尋ねる。
そんな男の質問に対して、ルキアは鷹揚に頷いた。
「ど、どうか! どうか、少しでいいんです! 少しだけ、この大結界を解除してください!」
「ほう。それは何のためだね?」
「大結界の向こうには、まだ俺の妻と娘がいるんです! 妻と娘を助けてください!」
「なるほど」
ルキアはそう、男の主張を聞く。
そして、男の表情に一瞬過るのは希望だ。侯爵閣下の命令ならば、俺も逆らうことはできまい、と。
さすがに、それを了承されるわけにはいかない。
「ルキアさん、それは……!」
「問題ないよ、ソル君」
しかし、俺の言葉を遮るようにルキアはそう告げて。
男に向けて投げかけたのは――限りなく、冷ややかな視線だった。
「実に愚かだね。きみはわざわざ、自分が腰抜けであるということをわたしに伝えに来たわけだな」
「……は?」
「そうだろう? きみには妻と娘がいるというのに、家族を差し置いて避難民の列に並んで、こうして避難を済ませているわけだ。つまり、きみは最初から家族の命よりも自分の命の方が可愛かったわけだろう? それを腰抜けと呼ばずして、何と呼ぶんだい?」
「そ、それは……」
「その上で、きみが命惜しさに見捨てた家族を、わたしに救えと言うか。それが、如何ほど厚顔な言葉か分かって言っているのかね」
「……」
ルキアの言葉に、男が黙り込む。
そしてルキアはさらに、他の連中へも視線を向けた。
「さて。旦那が向こうにいるだの、友人が向こうにいるだの、好き勝手なことを言っていた連中は他にもいたね」
「……」
「大事な人物がいるのならば、何故一緒に逃げなかった? 何故自分だけ逃げてきた? 我が身可愛さに逃げてきた分際で、我々の生命線とも言える大結界を、一時的にでもいいから解除しろと言ったな」
「……」
「問おう。お前たちに何の価値があって、そのように要求する?」
ルキアの、限りなく冷たい言葉。
しかし、そう言われても仕方ない彼らが、次々と目を伏せる。反論しようにも相手は貴族であり、ノーマン領における最高権力者だ。そして、周囲にはルキアの命令ですぐに首を刎ねるだろう衛兵たちが配備されている。
ノーマン領にとって、大結界は決して解除してはならない存在だ。今はまだ見える位置にしか瘴気が来ていないけれど、いずれ大結界の向こうは瘴気で満たされる。その瘴気と共に、魔物の群れがやってくることだろう。
「立場を弁えたまえ。お前たちは、ただの避難民だ。わたしの庇護すべき存在ではない。ただ戻る場所を失っているがゆえに、わたしの管理下に置かれるだけの存在だ」
「……」
「分かったならば、早々に全員奴隷紋を刻め。衛兵からも聞いたと思うが、お前たちに何の非もなければ、一年で解除してやる」
「て、て、めぇ……っ!」
ぶるぶる、と罵られた男の拳が震える。
それと共に数人の衛兵が、剣を構えて男に近付いた。侯爵を「てめぇ」と呼ぶ時点で、限りなく不敬な行動であるからだ。
そして、ルキアにそう告げるということは、この男には奴隷紋が刻まれていない――。
「ふざけんなっ! お貴族様には、俺らの苦労なんざ分かんねぇだろうが! 偉ぶりやがって!」
「おい、貴様黙れっ!」
「早く、俺のっ! 妻と娘を、助けろよぉっ!」
「なっ――!」
次の瞬間。
男が衛兵の拘束を振りほどき、足元にある拳大の石に手を伸ばし、それを握りしめ、持ち上げ、思い切り振りかぶるのが見えた。
「――っ!」
俺の額に当たった石よりも、遥かに大きなもの。
当たりどころが悪ければ、命の危険もあるであろう凶器。
それが思い切り、ルキアに向けて投げつけられ――。
「《結界》!」
俺は一瞬で魔術式を編み、ルキアと男の間に《結界》を展開する。
無色透明の壁は男の投げつけた石を防ぎ、そのまま大地に転がした。大結界の制作とかやっているうちに、俺はさらに《結界》の展開速度は上がったらしい。
これは俺、一流『結界師』を名乗ってもいいんじゃないか――そう、自画自賛してみる。
「ほう……」
しかしルキアは、展開された結界によって転がった石を、一目見て。
それから、小さな溜息と共に。
「衛兵」
「も、申し訳ありません! 侯爵閣下!」
「きみを責めるつもりはない。だが、命令には従え。わたしは言ったはずだ。次にわたしの許可なく石を投げた者は、首を斬れと」
「……はっ!」
そう、ルキアが告げた次の瞬間。
石を投げた男の首が、噴き出す血と共に転がった。




