フロム・スピリチュアルズ・トゥ・ホーン
晴れた日に、こうして午後の公園で鳥や木や光なんかをデッサンしていると、僕はまだ呪われていないんだと実感することができた。
父も母もそろそろ七十歳になるが、これといった大病にかかることもなく、元気にしている。母なんかは、いまだに僕が上京した頃のように電話してきては安否を確認したり、青魚の缶詰や季節のフルーツなんかを箱に詰めて送ってくる。四つ下の妹も去年産まれた長女が立った、喋った、歩くようになったという短い動画を何度も送って寄こす。だけど、それはそれで、姪の成長ではあるけれど、十秒ほどの動画を観るたびに幸せを感じさせてもらえた。
父や母や妹の何気ない日常の幸せ、あたり前に存在してきた事を、今では確認しなければならなくなってしまった。そうでもしないと真っ黒でドス黒いものに消されてしまうのではないかと、緑が眩しい中で被写体を探しているだでも不安になる。こうして呪われていないことを実感しなければならない作業が僕の人生に加わった。
あの日のニューヨーク、こうして目の前で煌めいている緑よりも美しかったセントラル・パーク。幸せなんかとはかけ離れた結末、あの日から人生は変わってしまった。
一年前の九月、目的は取材で五日間ほど一人でアメリカを訪れたときのことだ。
ちょうど僕は絵本作家としてデビューから十年の節目を迎えた。連載という仕事はしたことがなかったが、今まで七冊の絵本を出版した。その他にもライトノベルの挿絵やゲームのキャラクターデザインの仕事をもらっている。スマートフォンが普及し、スマホゲームが増えたことで、仕事は途切れることなく貰ることができた。さらに幸運だったのは、業界でそこそこ知名度を上げられたことだった。
いろいろやっているが、肩書きは絵本作家と自負している。十周年で新作を発表したい気持ちを強く持っていたが、二年も描いていなかった。
そんな中、個展をやってみないかと出版社から誘いを受けた。小さなギャラリーだったが、二つ返事でやらせてもらうことにした。
取材旅行を決めたとき、一点だけ非常に迷いが生じた。例えば、好物を最初に食べるか最後まで取っておいて食べるかの選択のように。一番観たい場所を最初にするか最後にするのか、非常に迷った。この取材旅行の計画には三ヶ月も費やした。好物は最後に食べるタイプだが、この取材旅行に関しては、一番観たい場所を最初に巡ることにした。
それもまた運命だったのかもしれない。振り返ると、そうとしか考えられないとさえ思っている。
アメリカ、マサチューセッツ州ケープゴット。
ボストンから車を走らせ一時間半ほどの場所にあるエドワード・ゴーリーハウス。
絵本作家エドワード・ゴーリー、一番読み返した作品、一番尊敬する作家。絵本を描いてみようと心に種を蒔いてくれた人。とはいえ、その種は本人が知らずして僕の心に舞い降りては、根付いただけの話なのだが。作風、絵の描き方は似てはいけないと意識して創作してきたが、エドワード・ゴーリーの諷喩法の影響下からは脱することができない。だが、おかげで全く興味がなかった和歌や俳句を学ぶようになった。
一生超えられない師なのだと、思っている。
そのエドワード・ゴーリーが終の棲家とした自宅が彼の死後に『エドワード・ゴーリーハウス』として一般公開されている。
彼はなんとも思っていないだろうが、ここへ来るのに十年も費やしてしまったことに後ろめたくなり、家の外観を見ただけで感慨深さを感じた。必要以上に外観の写真を撮った後、家の中に入った。
中は美術館と同じようにガラスケースに入った数々の作品を観ることができた。見物客は老夫婦が一組いるだけで、気兼ねなく見て回ることができた。胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。ニヤついている気持ち悪い顔が想像できる。
観光気分を捨て、自分の個展のアイデアを膨らませていると、急に飛び込んでくるように聞こえた思いがけない声に硬直した。
「日本の方ですか」
日本語だった。まだ体は硬直したままだ。
男はもう一度、声を発した。聞くことがない土地で聞こえる聞き慣れた言語の二度目の呼びかけでようやく反応することができた。
目の前に立っているのは、日本人の男性だった。六十歳前後だろう、頭は禿げてはいなく、白髪が多く、全体が灰色をしていた。目鼻立ちがはっきりしていて舞台俳優にいそうな、そんな雰囲気を感じた。
日本人ですと返事を返すと、微笑み、安堵のような表情を浮かべた。この状況をこのままやり過ごすことは出来ず、一人で来たという情報を提供した。男も一人で来たと対価交換のような言葉を返すと、ゴーリーが好きなのかと当たり前の質問をしてきた。
「あなたもそうなんじゃないんですか」
好きです。と、当たり前のことを言うのがバカバカしく思い、返す言葉にほんの少しだけ怒りを込めた。
「いえ私は、全然知らなくて、この人の絵本どころか、小説も村上春樹を何冊か読んだことがあるくらいで、文学とか芸術なんかは全然かわらない人間です」
はてなマークが全身から込み上げてくるようだった。表情だけじゃない、爪先から頭のてっぺんまで。
はてなマークを発する僕の姿を察したのか、言葉を続けた。
「少し訳ありで、ヨーロッパを回っていたのですが、そこで出会った女学生に、あなたの今の人生、エドワード・ゴーリーの絵本みたいって、真剣に言うもんですから、それでこの場所を知って来てみたんです」
エドワード・ゴーリーハウスからその男と一緒に外へ出た。
西村義一と改めて名乗ってくれた。
訳あり、
ヨーロッパ、
学生、そして、
ドワード・ゴーリーの絵本のような人生。
このワードを聞いて、またいつかどこかでお会いできたらいいですね、なんて訳には到底いかない。
避けることはできなかったのだ。
外観をデッサンしたかったが、中の写真を数枚撮った後、西村と近くのダイナーに入った。少し腹が減っていたので、ハンバーガーを注文することにした。西村は何も食べないと遠慮し、アイスコーヒーを二つ頼んだ。
好奇心旺盛、興味津々な態度を抑えつつ、西村が話すのを待った。直ぐにアイスコーヒーだけが運ばれてくると、口を開いた。
「『呪い』って信じますか」
西村は続けた。
「私、呪われているんです」
何かを越え、さらにその先にそびえる何かも越え、吹っ切れたような、爽やかな面持ちでその言葉を発したように聞こえた。
西村義一は律儀な人間なのだと思う。たぶん、そうなのだろう。見た目や姿勢からでも清潔感が伝わり、オーダーメイドだろうか、体にぴったりと合ったシャツを着て服装にも気を使う男なのだと感じ取ることができる。
だから、唐突に『呪われている』なんて言えば、変人や狂人なんかだと思われてやいないだろうかと脳裏をよぎったのだろう。アイスコーヒーを一口飲んで、頭を整理したかのように、始めから語り始めた。
大学で経済を学び、東北の都市でクリーニング店を一から開業した。顧客満足度を追求し、例えば、ほつれたボタンを縫い、無くなっているボタンは似たようなボタンを縫ってサービスした。注文されていなくても小さい染みなら無料で染み抜きをした。営業時間も深夜まで伸ばし顧客を増やしていった。余計なお世話かもしてないことを当たり前のように繰り返した結果、西村クリーニングはある種のブランドと化した。今では三店舗まで増え、十名ほどのパート従業員を雇い、年に一回だがボーナスも渡してきた。恒例とまではまだまだいかないが、台湾へ二泊三日の社員旅行もできた。この社員旅行は西村が社員を雇うようになってからの大きな目標だった。
大学で知り合った美歌子と二十五歳で結婚した。美歌子は長女を産む三十歳まで地方銀行に勤務し、産休を挟んでからはクリーニング店を手伝ってきた。三年後、長男が誕生した。
浮気ひとつしたことがなく、誰かを蹴落とし生きてきたわけでもない。家族を愛しているごく普通の男だ。たぶん、西村家には自然とわき立つ愛着感があり、評判のいい家族なのだと思えた。
呪われる謂れなど、微塵も持ちわせていない。
それは突然、なんの前触れもなく訪れたという。美歌子が何も見えなくなった。
視力を失った。——失明。
三軒の病院で診てもらったが、原因は分からなかった。それでも美歌子は気丈に振る舞っていたという。点字を学び、数字が分かるようになると喜んだ。最初のうちはデパートやホテルのエレベーターボタンの点字で階数を当てるゲームをして楽しんだ。そして、よく散歩に行きたいと言い、炎天下でも雨でも散歩に行きたがった。そのときは必ず一緒に西村も散歩に出た。ふと気がついたという、夫婦だけの時間が増え、二人っきりでの会話が増えた。美歌子は前向きに目の見えない人生を受け入れていってるんだと感じ取れた。
ある時、散歩の途中、美歌子がおかしなことを言ったという。
「白いカエルっているのかしら」
さらに独り言のように続けた。
「でも、見た目は出目金なのよ、出目金。目が飛び出ててヒラヒラの尻尾があって、でもね、足があるの。ウサギとかカンガルーみたいに平べったくて大きい足。見た目が気持ちち悪くて、白い体なんだけど、血……だったのかしらね、全身が赤く染められてるみたいな、産まれたばかりの赤ちゃんみたいな感じよ」
西村は何を言っているのか分からなかったが、最初の問いに自分なりの考えを返した。
「白いカエルは、見たことないけど、いるんじゃないか、アマゾンとかには」
「カエルだったのかしら、でも飛ぶんじゃないの、ペタペタって感じで歩いてたのよね」
小雨が降っていた散歩道で、急に思い出された記憶なのか幻覚なのか、皆目検討がつかない物体の話はこれ以上続くことはなかった。その後も美歌子の口からその物体に関することは出てくることはなかったという。
そして、次がやってきた。
息子が車に撥ねられた。夜中、飲酒運転の車に。下半身付随。
美歌子のように息子は気丈になれなかった。学生最後の年、志望していた大手スポーツメーカーの就職も決まっていた。息子は内定を辞退し、心配する友人との交流を経ち、家から出なくなった。日に日に家族とも距離を置き始め、盲目の母に怒りだけをぶつけるよになったという。
さらに次は続いた。
クリーニング店の創業当初から勤めてくれていた女性が突発性難聴になり、耳が聞こえなくなった。美歌子と同様、原因は不明だった。彼女は店を辞めた。
それから、従業員の誰かが囁いたのだろう、『呪い』というワードを。西村の耳にもその言葉が入ってきたという。それから徐々に、徐々に従業員は辞めていった。二泊三日で台湾に行った仲間は誰もいなくなった。
東京で外資系飲食チャーンの本社勤務をしている娘が仕事を辞め、婚約相手と別れ、地元に帰ってきた。娘は何も言わず、ただクリーニング店を盛り返していった。若い従業員を倍の人数雇い、ホームページを制作してサービスをアピールし、受け取り配送サーズスを始めた。娘の智力と犠牲で西村家は越えてはならない一線の手前で留まることができていたのだと思った。
西村は何度も何度も「お前はお前の人生を歩め」と言いたかった。しかし一度も声に出すことはなかったと、
娘の話になると、少し声を震わせて話した。
美歌子の目は回復する見込みはなく、息子は自分が置かれた状況と境遇から一歩も歩むことができず、娘は人生をかけて積み上げてきたもの、もっと立派に積み上がっていたであろうものを倒壊させた。それが西村義一の今だった。
アイスコーヒーがなくなったグラスの中の氷は、ぬるい水に変わっていた。いつ運ばれてきたのか記憶にないハンバーガーは一口だけかじられて置かれている。食べた記憶がないから味なんて全く分からなかった。
僕はグラスのぬるい水を喉を鳴らして飲み干した。ハンバーガーは食べる気になれなかった。……そんなことはどうでもいい、どうしてこの人は、今こうして淡々としていられるのか、そして一人でアメリカにいるのか、疑問が疑問を呼び、頭を埋め尽くしていく感覚だった。
「白いカエルってご存知ですか」
話の最中、西村が、言葉をつまらせたエピソードだ。
「見たことありません。聞いたことも」
「そうですか、そうですよね。妻は何を突然言い出したのか、あまりにも不気味な感じがしたので、それ以来聞いていないです。いつどこでそんなものを見たのか」
西村は続けた。
「失明する前なのか、後のことなのか」そう言うと、少し眉間にしわを寄せた。
「失明した後? そんなわけないじゃないですか」
僕はさらに眉間にしわを寄せて聞き返した。
「ええ、目は見えていません。ただ、うなされることがたまにありまして、恐ろしい声を上げるときがあるんです」
何故かはわからない、僕は反射的に目を逸らした。逸らした先のダイナーの店内は、入店時と違い、込み入っていた。それを見て、雰囲気を味わいたく、もう少しここにいたい気持ちもあったが、無性にタバコが吸いたくなり、外へ出たかった。息を吸い込み、ニコチンを吸い込み、勢いよく吐き出したい気持ちになった。
「外へ出ませんか」
西村は僕の感情を察したかのように何も言わず、立ち上がった。
一口しか食べれなかったハンバーガーに少しの後悔と申し訳なさを抱いて、ダイナーを後にした。
車からタバコを取り出し、ボンネットに寄り掛かりながらタバコに火をつけた。肺の中で流動する煙をゆっくりと吐き出すと、気持ちが落ち着くのを全身に感じることができた。
「一本だけ吸わせてください」僕は吸った後に一応の礼儀として言った。
「タバコ吸うんですね。若い方では珍しいんじゃないんですか」
「そうかもしれないですね」
交友関係の喫煙者をザックリ思い浮かべたが、西村の疑問を流して、二口目を吸った。一口目と同じように。
「一本もらえませんか」
「吸うんですか?」想像していなかったので驚いた。
「もう三十年近く吸ってないかな、娘が産まれてやめたので」
「いいんですか? 吸っちゃって」箱から一本タバコを突き出して聞いた。
「いただきます」
僕は黙って西村がくわえたタバコに火を付けた。
「これ、珍しいタバコですね、なんという銘柄ですか」少し咽せながら聞いてきた。
「ジダンってフランスのタバコです。ルパン三世とか、ジブリの『紅の豚』の豚が吸ってるタバコです」
リアクションがなかった。西村の方を向くと、微笑んでいた。
「ごめんなさい。最初にこういう話から始めないとダメですよね。出会ったばかりなのに、突拍子もない話、延々としてしまって」
初めて西村義一にリアルな人間の部分を感じた。
「いえ、そんなことないです」
「聞いていいですか? 仕事のこととか」
「絵本作家です。あと、イラスト書いたりとか、そういう仕事です」
「絵本作家、初めてです。そういう方とお会いするの。道理で、ゴーリーハウスを訪れていたのも」
吸い終わったタバコを携帯灰皿に押し込み、新たにタバコを手に取った。
「もう一本いいですか」今度は火を付ける前に断りを入れた。
自分の話になると逸らす癖があるのはわかっていたが、誰に対しても話す気にはなれない。それ以上聞いてどうする、聞きたいのはこっちの方だといつも思ってしまう。僕は境界線が浅いのだ。それはアメリカで偶然出会った同じ日本人でも同じことだった。
二本目のタバコを吸いながら、核心に迫る質問をした。
「訳ありでヨーロッパを回ってたって」
「ええ、訳というのは先ほどお話した——」
歯切れが悪い言い方をすると思ったら、予定を話し始めた。
「このあと、ニューヨークに行くんです。そもそもニューヨークが私の旅の唯一の目的地だったんですが……」
時間は二十時を過ぎていた。この先を聞きたければ予定を合わせろと言ってるように聞こえた。図らずも目的地は一致していた。
少しだけ迷ったが覚悟を決めた。本来ならボストンで一泊し、翌日に飛行機でニューヨークに向かい、メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館、グッゲンハイム美術館と時間が許す限り美術館巡りをして、ホテルの窓から見える摩天楼を見ながら創作にふける予定を変更し、いま西へ、ニューヨークへ、自分は呪われていると断言した男を乗せハイウェイを走っている。
ニューヨークまでは四時間ほどで着く予定だが、三分の二ほど進んだあたりでモーテルに泊まることにした。よく映画に出てくる二階建てのそれだった。別々の部屋を取り、集合時間を決めて別れた。
部屋に入ると何も食べていないことを知らせるかのように腹が鳴った。だからといって今から外に出ていく気力が出なかった。だが、ふと気がつくだけの気力は残っていたようだ。日本から予備のために持ってきていた魚肉ソーセージのことを。慣れ親しんだ味に気持ちが安らいだが、西村義一の話が頭から離れなかった。
寝付ける気がしなかった。廊下に自動販売機があったことを思い出し、アルコールが売っていてほしいと一縷の希望を持って向かったが、現実はそうそう希望を反映しない。水とジュースをいくつか買って部屋へ戻ろうとすると、扉の前に西村が立っていた。
部屋に招き入れた。西村は布に包まれた何かを抱えていた。買ったばかりのジュースを渡し、話すのを待った。
「ニューヨークに着く前に、全てを話しておかないとフェアじゃない気がしまして」
やはり律儀な男だ。西村は話を続けた。
「家族に黙って祈祷師に会っていたんです。有名とか本物とかうわさでも名前が上がるような人のところへ何人もの祈祷師に会ってたんです」
西村は潜在的に呪いを信じていた部分があったのだと思う。自分でも同じ状況に置かれていたら、同じだったかもしれない。
クリーニング店の視察と称し、全国の祈祷師を訪ね歩いた。家族に言わなかったのは娘の努力を否定してしまうことになると思ったからだった。呪いかもしれない、もしも呪いだったら、という考え方が支配権を握り始めていた。だが、本心では分かっていた。何人もの祈祷師に会い、その人たちがまやかしだということを。何も改善されず、糸口すら掴めない。しかし、何もしないということが出来なかったのだ。
西村の力では、目に光を戻すことができなければ、息子を立たせることもできない。家族と従業員との何気なくとも満足していた日々が、もしかしたら、もしかしら、もしかしたら、もしかしたら、呪いせいで、それを祓うことができる人間がいるとしたら……、
考えると何もせずにはいらなれなかったという。
「結局、ダメだったんですよ。いくら祈祷師と会っても何も変わりませんでした。それにやはり娘に悪い気持ちが拭えなくて、祈祷師を探し歩くのをやめたんです」
それは西村の誕生日だった。娘が秘密でホテルのディナーを二席予約していた。
美歌子と話す時間はあったが、こういう時間は想像すらしていなかった。ホテルのレストランのような高級なイメージのところでディナーした経験はなかったが、断る理由がない。ありがたくディナーを楽しむことにしたという。
その席で美歌子が驚きの提案をしてきた。ディナーも終盤、ワインを嗜んでいると、一枚の封筒を渡してきた。
受け取った封筒を開けると往復の航空券、イタリアへの航空券が一人分入っていた。
「ほら、わたし前から言ってたでしょ、ヨーロッパいろいろ見て回りたいねって」
美歌子の夢だった。自営業の西村には有給などなく、新婚旅行に連れていくことが出来なかった。台湾旅行には従業員たちと一緒に行ったが、二人で旅行したことはなかった。一度、娘が美歌子と二人でヨーロッパへ行こうと誘ったそうだが、お父さんと行くからと断ったと、娘から耳打ちされて聞かされたという。
「見てきてほしいのよ、私の分まで。ちゃんと見てきて話し聞かせてちょうだい」
西村は俯いて、少し泣いているようだった。
「渡されたとき、一緒に行こうって言えなかったです。もらったのが航空券だったんです。ツアーじゃなくて」
「どういうことですか」
「私、全然わからないんですよ芸術は。モナリザとか女神や天使の壁画とか、ガウディでしたっけ、ああいう建物を見ても、多分なんとも」
「モナ・リザはフランスのルーブルにありますし、ガウディのサグラダファミリアはスペインです」
「……ほら、全然わからないんです。美歌子も重々わかってるはずなんです。私が芸術に疎いってことを。だから私ひとりで観に行っても伝えられないんです。子供にハンバーグの感想聞くようなものです」
「それじゃあ、どうして」
「分かってたんじゃないかと、祈祷師に会いに行ってること、知ってたんじゃないかと思うんです」
「それって……」
「とことんやれって意味なんですよ。祈祷師がダメならエクソシストでもなんでも見つけて納得しなさいって」
鳥肌が立っていた。何に対してなのか、呪い、美歌子の粋、西村義一の意地、夫婦愛。
「それで、イタリアへ」早く話の続きが聞きたかった。
「ええ、ローマへ行きました」
そういうと、西村は口を閉ざした。
「どうしたんですか?」
「この先は、覚悟、が必要です」
僕はその言葉に生半可な返事をしてはいけないと思った。あの西村の据わった眼を見れば誰もがそう思うだろう。断言できる。
「私は覚悟はできています。けれど怖くない分けではありません。私も理解できていないんですから」
覚悟ならとっくに出来ていた。出会ったばかりの男を乗せ、車を走らせ、三ヶ月かけた予定を変更して連れてきたのだ。ニューヨークへ行って一点の美術品も見れないで帰国することになるかもしれない。摩天楼の夜景すら見ることができなくなるかもしれない。それを覚悟というのなら、出来ている。
「どんな覚悟ですか」
ビビってるわけではない。覚悟はできていた。ただ、西村の、あの目を見ていると、動物の本能なのか確認を必要とした。
「あり得ないことなんです。冷静に考えて起こり得ないことを当たり前のように言われて、私はそのまま伝えます。ただ、このまま私と同行すれば巻き込んでしまうかもしれない。責任も解決法も持ち合わせていません」
「ええ、構いません」
いい旅になりそうだ。ただそう思った。
西村は僕の目をじっと見たあと、微かにうなずき、話し始めた。
イタリア、ローマ
歴史ある景色が重く見えた。神々の像が私を遠くへ孤独にさせるようだった。気づけば三日寝ていなかった。疲れていた。しかし、心を占めるのは疲労感ではなく絶望感なのかもしれないと思った。いくつかの教会を訪ねたが、イタリア語ができるわけがなく、教会のルールもわからない。そもそもルールがあるのかさえもわからない。司祭、司教、どう呼べばいいのかもわかっていないのだ。教会に行けば悪霊退治をしてくれるヒーローアニメのようなストーリーを想像していたのかと、バカさ加減に絶望した。
このまま絶望の黒い闇に築き上げてきた家族の絆ごと飲み込まれそうだった。明確な決意を持ってここまで来たはずだった。私はここへ来て娘にヒロイズムを感じていただけなのだと悟った。すでに私は絶望の淵にいて、娘に救われたんだと。父親として立っていなければならない場所に私は立っていなかったのだと。
立ち止まってはいられなかったのだ。家族が元通りになるなら、私の全てを捨ててでも、命さえも惜しくはない。呪いなら、呪いと解く代償が必要なら、それを探し出すことだけが私の命をつないでいた。それは強い決意として存在していた。
その晩、あるレストランに入った。ひと目を避けるような路地の奥にその店はあった。
席はテーブルが五席ほどの小さなレストラン。すでに四席埋まっていた。店の中はとてもボロかったが、食事をしている客は全員が満足げに生ハムやフレッシュパスタのカルボナーラなんかを食べていた。ちょうど空いていた席が中央だったため、周りの様子がわかった。一人で注文や食事を運ぶウエイターの注意を引き、呼んだ。なんとか他の客が食べているカルボナーラと同じものを注文した。
なんとなく、そのままウエイターを目で追っていると、彼は店の裏口と思われる扉から外へ出ていった。そのまま何も考えず、ただ扉を眺めていると、老婆が現れた。
その老婆は黙って私のテーブル席に腰を下ろした。百歳と言われれば納得できる見た目をしていた。百五十歳まで生きると言われれば、そうなんだろうと納得してしまう、そんな第一印象だった。老婆は黙って僕を見ていると、客が次々と立ち上がった。そして黙って店から出ていった。ウエイターだけが黙って微動だにせずこちらを見ていた。全ての客が店からいなくなると、ウエイターは再び裏口と思われる扉へ消えていった。老婆は相変わらず何も言わずにじっと私を見ているだけだった。
ウエイターはすぐに戻ってきた。今度はハードブッック、四六判ほどの大きさの布に包まれた何かを持って老婆の前に黙って置くと、定位置に戻っていった。
私は黙って一連の動向を見てるしかなかった。周りを少し注視できると、厨房から聞こえていた料理の音が消えていた。というより、人の気配を感じなかったのだと思う。後ろを振り向き、店の窓から外を眺めて見ると人の気配を全く感じなかった。もともと人気の少ない場所にある店だったが、それでも街の音というのは聞こえるものだ。その音がまったくしないのである。無音、静寂に寒気を感じた。
すると、老婆が話し始めた。突然と想定外の声のボリュームにビクついた。もちろん何を喋っているのかわからない。わからないが何かを必死に伝えているのは分かった。私は直感した。このなんだかわからないことを逃してはないらないと。
必死に老婆が話すのを止めた。老婆はそれでも話すのやめなかったが必死になって止めた。何故かそのとき、家族ひとりひとりの顔が、従業員の顔が脳裏を埋めた。老婆はようやく止まってくれた。
私はスマートフォンを取り出して、動画を撮り始めた。そして老婆に話してほしいとジェスチャーで訴えた。老婆は再び話し始めた。声のボリュームは変わらず大きく、先ほどよりもまくし立てるように早口で駆け抜けるように話し続けた。
老婆はピタリと話し終わるとゆっくり立ち上がり、机に置かれた包みを私に受け取るようにと突き出した。されるがままその包みを受け取ると、老婆は扉の先へ姿を消していった。私はどのくらい唖然としていたのかわからないが、動画の録画を止めると、店内に客が入ってきた。一組の若いカップルだった。続くように次の組みが入ってきては、四席があっという間に埋まった。
世界が再開したように人の会話、厨房から聞こえる調理の音、街の音が聞こえ始めた。時が流れ始めた感覚だった。
ウエイターがカルボナーラを運んできた。実は何事も起きていない、そんな錯覚がした。すぐに動画を確認すると、それは起こっていた現実だった。老婆の顔は全く映っていなかったが音声はしっかりと入っていた。確実に老婆が目の前に座り、何かを伝えていたのだ。動画を確認すると目の前のカルボナーラを頬張って食べた。
やることは絞られた。久しぶりに爽やかさを感じることが出来ていた。老婆の話しがわかれば道が開ける。そう信じるしかなかった。その道しかなかった。
イタリア語を日本語に、通訳を探さなければならない。閃いた方法は一つだった。文房具店をみつけ、店に置いてある一番大きなスケッチブックと一番太いマジックペンを買い、日本から持ってきていたイタリア語辞書を見ながら、イタリア語を三文字、文章などかけない。文法などわからない。単語を三文字、
日本語(giapponese)、話(parlare)、人(uomo)
アルファベットが見やすいことだけを意識してスケッチブックに書いた。
人通りが多いところでスケッチブックを掲げ、必死にアピールした。行き交う人がスケッチブックを見ているのはわかったが、足を止める人はいなかった。
一時間ほどそうして掲げていると、ようやく話しかけてくれる人が目の前に現れた。イタリア人と思われる若い女性だった。メガネを掛け、リュックを背負っていた。日本でも見かけるような女性だった。
私は気持ちのどこかで日本人を探していた。日本人と思われるアジア系の人たちを自然と目で追っていた。イタリア人と思われる女性が目の前で立ち止まっている予想外のことに少し戸惑うと、彼女の口から日本語が飛び出した。どうしたのか、という日本語が聞こえた。私はこの日本語を手放すわけにはいかなかった。何を彼女に言ったのか今ではわからない。彼女に必死に助けてほしいという趣旨を全身で伝えた。冷静に客観視して今思えば、ただの危ない奴だ。周りから見れば彼女に襲いかかっているようにも見えたであろう。よく彼女は逃げずに留まってくれたと思う。
私を落ち着かせようと彼女は日本語、イタリア語、英語で落ち着いてと繰り返し言った。何度目かの彼女の言葉で私は落ち着きを取り戻していった。
彼女に連れていかれるように、近くのカフェへ入った。テラス席に座ると完全に落ち着きを取り戻した。
彼女はジョルジャという名前と学生ということを教えてくれた。ジョルジャに動画の言葉を訳してほしいとスマートフォンを渡すと素直に承諾してくれた。リュックからペンとノートを取り出し、自分のイヤフォンを私のスマートフォンに装着し動画の再生を始めた。何度か動画を止めたり、巻き戻しを繰り返し、ちょうどノートの一枚分まで書き留めるとイヤフォンを耳から外した。ジョルジャは怪訝そうな面持ちを私に向けた。これはなんですかと聞いてきたが、そのまま聞いたままを教えてほしいと伝えた。
ジョルジャは書き留めたノートに目をやりながら、言った。
あなたは呪われている。と、
私は黙っていた。ジョルジャは続けてくれた。
あなたは呪われている。西の大陸に向かいなさい。何も見ず進みなさい。
ザクロの木の下に囚われているユニコーンの角で体に十字を刻みなさい。そうすれば元の世界に戻れるでしょう。
扉の鍵をあなたに預けます。安心してください、鍵は元の場所へ必ず戻ってきます。
私はジョルジャに全てを話した。そしてジョルジャはエドワード・ゴーリーの絵本のような人生ねと寂しそうな顔をして言った。
僕はもう一度、聞き返したかったが、西村は抱えている包みをベットの上に置いた。
「老婆から受け取ったものです。店で開けようと思ったのですが、ウエイターに止められて、ジョルジャにも見せていません」
「ってことは」
「その晩、ホテルで一度だけ包みから出しました。私以外で見るのはあなたが最初です」
西村は包みを広げ始めた。僕は息を飲んだ。
包まれていたものは、木彫りの人形のようだった。最初の印象はマトリョーシカのような、しかし描かれているのは可愛い絵ではない。トロール。北欧の国の伝承によく登場する醜い、醜悪な容姿のバケモノ。ただその木彫りの人形は、トロールというには、少し違う。ウロコがある。前に図鑑が見たことがあるアルマジロのような鱗甲目と分類される哺乳類のようなウロコだ。魚のとは違う。
「触っていいですか」
了承を得て、それを持ち上げた。想像よりも軽かった。だが中は空洞な感じはしない。よく見るとそれは黒光りし、光沢があった。生き物に水分があるように、これにも生き物なのではないかと思わせる水気があった。しかし質感は木だった。当たり前だが、脈も感じない。モノであることは明らかだった。よく見ると、ちょうど体の中央にマトリョーシカ と同様の切り目があった。開く、上下に分かれる構造になっていた。
それを開くことはできなかった。いくら力をいれてもビクりともしなかった。
開けてやろうと、せめて回してみようと試みていると、西村が急に話し出した。
「ニューヨークのクロイスターズ美術館ってご存知ですか」
西村はスマートフォンに画像を映して差し出した。
「調べたらすぐに出てきました。ザクロの木の下に囚われているユニコーンです」
僕は包みの中のモノを置き、西村のスマートフォンを手に取った。
「それ、絵じゃなくてタペストリーらしいのですが」
「それで、なんて言われたんでしたっけ?」
「ザクロの木の下に囚われているユニコーンの角で十字を刻め、です」
まったく理解できない。絵だろうがタペストリーだろうが同じことだ。ユニコーンの角で十字を刻め、そのタペストリーの前に行けば、ユニコーンが飛び出してくるとでも言っているのか、ハリーポッターやディズニーアニメじゃあるまいし、そんなファンタジーが現実でまかり通るなら、僕は転職をしている。
「私は、これを持って囚われたユニコーンの前に行くしかありません。バカバカしいと思いますか? そもそも呪いってなんですか、端から私には現実と空想の境界線なんてないんです」
西村を見て、言葉を選び、考えた。
「確かめに行きましょうよ」
僕は考えるのをやめた。この旅はハズレだろう。だけど今更、行けません、やめますなんて言えなかった。
絵から飛び出るなんてことは空想である。
集合時間にはまだ大分早かった。昇り始めた太陽は美しかった。大きさが同じなのは分かっているが、幾分アメリカの太陽は大きく見えた。
タバコを吸おうとすると西村が向かってくるのがわかった。
「おはようございます」
西村の挨拶と同じように僕も返した。
「吸いますか」
「いいですか」
僕たちは昨夜と同じように車のボンネットに背を預けタバコを吸った。
アメリカ、ニューヨーク州、マンハッタン
昼ごろに到着する予定だったが、十時にはニューヨークに着いた。ブルックリン橋の渋滞に捕まり、まったく進むことができなかったが、ニューヨークにいるという充実感を味わえた。
「相談があるのですが」
渋滞の中、進まぬ車内で西村はかしこまったような言い方をした。
「なんですか」
「今日は、別に行きたい場所があるのですが」
何を言い出すんだこの男は。目的をさっさと済ませて、何も起きることなく、それで終わりのはずだろうと、それらの言葉や感情を凝縮して何言ってんだと言いかけたがギリギリのところで飲み込んだ。
「どうしてですか」
「自分の身に何が起きるのか、まだ恐怖に勝てていないんです。何も起きないかもしれない。でも、それも私には恐怖なんです」
納得するしかない言葉だった。あくまで僕は他人事、たまたま居合わせ、傍観者の領域にいた。親身になって聞いたようなフリをしていただけなのだ。
「わかりました」
ブルックリン橋を渡りきりマンハッタンに入ると僕たちは別れた。そして、十九時に落ち合う約束をした。場所はエンパイアステートビルを指定した。
とりあえずレンタカーを返却し、マンハッタンを歩いた。美術館の近くを何度か通ったが入る気になれなかった。闇雲に地下鉄に乗った。行き先を決めずにただ乗っただけだった。ある駅で降りると壁一面に空が描かれていた。ヨーコ・オノのモザイクアートだった。ニューヨークの駅構内は美しい場所にする目的で三百以上のパブリックアートがあることを思い出した。時間を潰すにはちょうどよかった。いくつかの駅を適当に降り、作品を見て回った。そこに行き交う駅の利用者たちの姿が孤独から離し、安心させてくれた。
予定の時間はすぐにきた。エンパイアステートビルの前にはすでに西村の姿があった。何をしてたのかは聞かなかった。聞き返されたとき、何も答えられないと思ったからだ。ついてきてほしいと、歩き出したので、どこにいくのかも聞かずにただついていった。しばらく歩いてウェスト・ビレッジに着くと立ち並ぶビルの一棟の地下階段を降っていった。扉を開けた内へ一緒に入るとそこはジャズバーだった。
拍子抜けしたが、そこは僕にとって全くの異世界だった。サックスの音に心地よさを感じたが、ジャズは聴いたことがなかった。まったくの無知である。
西村と席につき、バーボンを頼んだ。アメリカに来て初めての酒を味わうのが、ジャズバーとは、僕にとってはファンタジーだった。
「好きなんですか」
「私の唯一の趣味といえば、そうです。聴きますかジャズは?」
「ジャズは全然わかりません」
「付き合わせてしまって、迷惑でしたか」
「そんなことはないです」
本心だった。そして、これ以上会話はしなかった。僕たちはただ耳を傾けるだけ。
西村義一は、最後に誰かの西村義一ではなく、自分だけの西村義一になりたかったのだろう。酔いしれたような姿を見ているとそんな気がした。
バーボンを二杯ずつ飲んで僕たちは店を出た。無性にコーヒーが飲みたくなり、近くのカフェでコーヒーをテイクアウトした。西村もコーヒーに付き合ってくれた。店の前のベンチに座り、コーヒーを飲んだ。特に話しをすることがなく、何も語らない沈黙の時間が流れたが、何故だが嫌ではなかった。
「絵本ってどんなお話しを描いてるんですか」
不意な質問だった。ごまかそうとしたが、心の何かが反対した。
「ある渡り鳥がいました。
その鳥は、他の仲間より、少し飛ぶのが遅かった。
足に赤い糸がついていたからです。いつどこでついたのか、記憶がない。
あるとき、仲間からおいていかれた。
そいつは、みんなのあとを追わないで、赤い糸の先を目指した。
何日も何年も飛んだ。そして、ついに先についた。
鳥籠の中の白い鳥だった。
渡り鳥は白い鳥といっしょに赤い糸のことを考えた。何日もはなして考えた。
こたえはでなかった。でも、とても仲よくなった。
ある日、白い鳥はとつぜん、渡り鳥の足の糸をほどいてしまった。
渡り鳥は……」
途中で話すのをやめた。
「それで、渡り鳥はどうしたんです?」
「続きは、全て終わったら、買って読んでください」
「……わかりました」
「約束のお話です」
「わかりました」
ニューヨークの夜の街道に強い風が吹き始めた。僕たちは追い風に向かって歩き出した。
午前九時半、クロイスターズ美術館の前にいた。中世ヨーロッパの古城を思わせる建物は奇妙さを放っているようだった。
西村は布に包まれたウロコの人形を抱え、古城を見上げていた。
「ひとつ、約束してもらえますか」
「なんですか」
「中に入ったら、誰とも目を合わせないでください。私とも、他の誰とも」
言い合う気はない。老婆がそんなことを言っていたなと思い出した。従うことにした。
「わかりました」
僕たちはクロイスターズ美術館の中へ進んでいった。誰とも目を合わせないで歩くのは想像以上に困難だった。意識しすぎて前を向いて歩けなかった。視界は足元の周りに限定された。先を歩く西村から離されていくのがわかった。さらに先へ進んでいく。先が気になり、一度立ち止まって、見回すことにした。
西村はすでに囚われたユニコーンの前で立っていた。僕は歩くことができなかった。その場で西村の姿を見てるだけだった。
布からウロコの人形を取り出すと、
カタカタ、カタカタ、カタカタカタカタ
がちゃついた短い連続する音が館内に響き始めた。西村の手の中でウロコの人形が動いているように見えた。音と合うように、小刻みにバイブのように、震えてるように見えた。ようやく足が動いた。二、三歩進んだだろうか、そのとき、後ろから気配を感じた。人単体ではなく、集団の気配を感じ振り向いたが、誰もいなかった。その瞬間、もの凄い寒気、そして暖気が交互に襲ってきた。その感覚は五秒もしないうちに切り替わっていた。西村が気になり向き直ると、視界に入ったは、地面に転がっている黒い物体、それは二つに、真っ二つに分断されているウロコの人形だった。
違和感を覚えた。二つに別れていることもそうだが、他の何かだ。直ぐに奇妙さに気がついた。ウロコの人形の目が、閉じていたはずの目が開いていたのだ。その目は見開き、血走った目をしていた。
そして、急に体が締め付けられ始めた。どんどん締め付けは強くなっていった。寒気と暖気は続き、痛みに耐えられなく悲鳴をあげた。次に重力の歪み、体が何かの力に引っ張れる感覚に襲われた。引っ張られてるのか、高速で落ちているのか、飛んでいるのか、回転しているのか、わからなくなった。さらに雷鳴とさざ波、獣の雄叫びと女の喘ぎ、対極の音が鼓膜を通過し、脳内で反響し続けた。僕の悲鳴は断末魔の叫びに変わった。
花の香りがして気がついた。どれほどの時間、あの恐怖を味わっていたのかわからない。体のどこも異常を感じることはなかった。むしろ爽やかだった。花の香りで我に帰れた気がした。目の前には延々と様々な色の花が咲いている場所にいた。建物も山も何もなかった。ただそこは花だけだった。天国とか地獄があるなら、ここは天国ではないかとさえ思った。目の前の花をもぎり取り、感触を確かめた。その質感は本物の花だった。
生き物が鳴く声が聞こえた。その方を見ると、一本の木が、さらにその先には後ろ姿だったが白い馬がいた。柵に囲まれた白い馬。ザクロの実がなる木、ここはタペストリーの囚われたユニコーンの世界だった。現実なのか、幻覚なのか、夢なのか、判断はできなかった。ただ目の前にタペストリーと同じユニコーンがいるのだ。
ユニコーンが陰になってわからなかったが、柵の前に西村がユニコーンと対峙する形で立っていた。僕は反射的に名前を叫んだ。
「西村さん」
その声に反応したユニコーンが仰反るように前足を上げ、声をあげた。
そして、西村も反応してしまった。反射的に僕を見てしまった。僕たちは目を合わせてしまった。
断末魔の叫びをあげた現象がまた訪れた。
次に気がつくと、僕は病院にいた。目を覚ましたことに気がついた看護師がドクターを呼んだ。眼球やら脈やら調べて看護師に何かを伝えて去っていった。微かな花の匂いがした。視線を向けると牛乳瓶のような入れ物に一輪の花がささっていた。それは僕が手に取った花と同じだった。
念のため、一日入院し、翌日の午前中には退院した。その足でクロイスターズ美術館に向かった。そこに西村義一の姿はなく、囚われたユニコーンのタペストリーはただ飾られ、来館者に奇妙な魅力を印象付けているだけだった。何時間もその前でユニコーンを見ていたが、飛び出てくるわけでもない。世界が変わるわけこともなかった。
夕日が沈むまでセントラル・パークで何も考えず、ただそこにいた。
あの奇妙な体験はなんだったのか、ウロコの人形はなんだったのか、現実なのか、幻覚なのか、夢だったのか、そして西村義一はどこへ行ったしまったのか。家族はどうなったのか、呪いはどうなったのか、——答えを探すべきなのか
自問の答えを出さないまま、帰国した。そして、個展の準備を着々と進めていった。片隅には西村義一の存在があった。クリーニング店を検索すればすぐにヒットするだろう、でも調べることはしなかった。さらに思えば、ローマでジョルジャを探し出し、老婆のレストランを探し出し、謎を追求する。行動ひとつでエピソードは広がる。しかし、幕を下ろした。あの物語はニューヨークで終わったのだ。ハズレだったと自分に言い聞かせた。
一年後、
絵本作家の門脇秀は個展を成功させ、知名度を更に上げていた。晴れた日には、よく公園に行き、デッサンしていた。ときどきデッサンや絵本を描いていると、手をとめ物思いにふけることがあった。長いときは一時間も固まったままのときがあった。
その日も、公園でデッサンをしていると手をとめた。秀が自分の手に視線をやると一滴の血がついていた。ジッと一滴の血を見つめていた。秀は何かの気配を感じていたが、決して振り向かなかった。
秀の真横でデッサンを覗き込むようにマジマジと見ている真っ白で体中が血みどろで手足は骨と皮しかなく、二メートルは超える大きさの異形の悪魔。
秀と悪魔の目線はデッサンの被写体をジッと見つめていた。
完。
読んでいただき有難うございました。