ぼく
1
「あれ、帰ったんじゃなかったの?」
同じ学部の遊佐が不思議そうに言いながら隣の席に座ってきた。周りを見たが自分以外に親しそうな人物はいなかったため、自分に言われたのだと分かった。それでも「俺に言ってる?」と聞き返してしまった。
「お前以外に誰かいる?」
遊佐は人懐っこい笑顔を向けてきた。その顔は冗談を言っているようではなかった。
「俺、来たの今なんだけど。誰かと間違ってない?」
「まだ寝ぼけてんの。二限一緒に受けたじゃん。お前はずっと寝てたけど。コンタクト忘れたとか、二日酔いだとか言って家に帰ったんでしょ」
遊佐は俺が本当に寝ぼけていると思っているようで呆れたように笑っている。でも俺は本当に、今登校したばかりだ。二限終わりに目が覚めて、慌てて大学に来た。それに二日酔いではない。昨日は、今日が締め切りのレポートに追われて、ほぼ気絶に近い状態で机の下で寝てしまっていた。レポートは無事に提出することはできたが、そのおかげで寝坊して二限には出席できなかった。
見間違いか変な冗談かと思ったが、遊佐の様子からは嘘とは思えない。そもそもこんなしょうもない嘘を吐くような男ではない。遊佐に詳しく聞こうとしたが、タイミングよく教授が教室に入って来た為、聞くことができなかった。
講義が始まっても遊佐の言っていたことが気になって、全く集中できない。とにかく講義が終わったら、遊佐にもう一度聞こう。寝惚けているのは遊佐の方かもしれない。
講義が終わり、ノートや筆記用具を急いで片付ける遊佐に声をかけたが、「サークルの先輩に呼ばれているから」と言って走って教室を出てしまった。あとを追いかけて問いかけようとも思ったが、本当に急いでいるようだったので諦めた。
また明日にでも聞いてみればいい。今日はこれ以上講義は無いから、大人しく帰って寝よう。もしかしたら、本当に自分は二限に出席していたのかもしれない。思い返せば、起きてからの記憶が曖昧だ。ひどく疲れているのかもしれない。
それにしても、遊佐はサークルに入っていただろうか。そんな話、一度も聞いたことはなかったし、行っている様子もなかった。もしかしたら、何かの思いつきで入ったのかもしれない。遊佐はそういう男だ。
2
大学から駅までは徒歩15分ほどだ。その道は学生アパートが多く建ち、そこの住民の殆どが、うちの大学の学生だ。自分も本当は、この付近のアパートを借りたかったが、家を探しだした時には殆ど部屋が残っていなかった。仕方なく、大学から二駅の場所にあるアパートを借りた。電車の本数も多くはないが、不便というほどではない。住んでいるアパートも駅から徒歩五分の場所にあり、スーパーやコンビニにも近い。何より近くに大学がない分、とても静かだ。初めは大学近くのアパートが羨ましかったが、2年も住んだ今では、自分の住んでいるアパートをとても気に入っている。
大学から駅への道も、うちの大学の生徒ばかりが歩いている。不意に後ろから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。後ろを向くと、佐藤が手を振りながら自分に向かって歩いてきていた。目が乾いた。やはり自分は寝惚けているのかもしれない。初めは見間違いかと思ったが、近付くにつれて確信に変わる。佐藤だ。
「お前、もう退院したのか?怪我は?」
何か言っていた佐藤の言葉を遮って、問い詰めた。佐藤は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに眉を下げ、目尻に皺を寄せて呆れたように笑った。
「まだ酔ってんのか?怪我ってなんだよ」
「だってお前、先週バイクで事故って、左足を複雑骨折して……」
佐藤の左足を見ると、普通に立っていた。引き摺っていたり偏っているようにも見えない。佐藤を見ると不思議そうな表情でこちらを見ている。もう一度左足に視線を移すと、佐藤がその場でジャンプした。
「なんかよく分からないけど、左足は大丈夫。事故も起こしてないし」
それでも声を出せずに驚いている自分を見て、佐藤は「やっぱりまだ酔ってるな。昨日あんなに飲んでたからな」と笑った。俺は口を開いたまま、何も言えずにいた。
佐藤は「バイトに遅れそうだから」と言って、そのまま急いで走って行った。
3
おかしい。流石に寝ぼけていたとしてもここまで酷い事は無いだろう。遊佐も佐藤も嘘をついている様には見えなかった。もしかしたら2人の見間違いかもしれない。世界には3人同じ顔の人物がいるという。いや、もしそうだとしたら、俺の似ている人物は何の為に俺の生活を送っているんだ?もしかして、ドッペルゲンガーか何か、そういった類のものか?というより、もしそうだとしても佐藤の事故に関してはどうなる。先週、バイトで事故を起こし、大怪我を負っていた佐藤は。一昨日も佐藤のお見舞いに病院へ行った。それも夢か記憶違いだというのか?
混乱した頭を落ち着かせようとすればするほど、余計に混乱してしまう。
気が付くと、自宅の最寄駅に着いていた。駅を出たらいつも通りの景色だった。そのいつも通りの景色に、少し安心感を覚えた。
それでもまだ心は落ち着かず、このまま家に帰る気にはなれなかった。食欲は無かったが、夕飯のお惣菜でも買おうと思い、スーパーへ向かった。その間も、あまりに現実味のない今日の事で頭がいっぱいだった。
気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吸った。冷えた空気が鼻の奥を刺激する。なんというか、今日は最低だ。きっと疲れているんだ。いろいろなことに。そう考えると、不安よりも疲労感が溢れてきた。瞼が重く、ゆっくりと眠気が襲う。昨晩はちゃんと眠れていなかった。本当に寝ぼけているのかもしれない。夢と現実が曖昧になっているのかもしれない。
ぼんやりとしている自分の意識をかき集めながら歩いていると、突然左から人が出てきてぶつかってしまった。塀が並ぶ住宅街を、周りを見ずに歩いていたため気付かなかったが、T字路の曲がり角を直進していた。そこで左から歩いてきた人にぶつかってしまったようだ。
直ぐに謝ろうと顔を上げると、そこには自分が立っていた。一瞬息が出来なくなり、直ぐに息を吸い込むと喉が小さく鳴った。それと同時にその場を駆け出した。一瞬しか見ていなかったが、あれは自分だ。確かに自分だ。右目の泣きぼくろと鷲鼻、そしてあの赤いパーカーは先週通販で買ったものだ。自分に似た他人だと思いたかった。しかし、思い出せば思い出すほど、あの男が自分に思えて仕方なかった。
鼓動が速くなり、嫌な汗が溢れる。自分の頭に血が多く流れ込む。すでに冷静さが失われていることに気付いていたが、足は止まらなかった。周りを上手く見ることが出来ない。ここに、こんな家があっただろうか、自動販売機が、標識が、電柱があっただろうか。あった気もするし、無かった気もする。
目的もなしに、無我夢中で走っていると、後ろから「あー、いたいた。こっちにいたよ」という声がした。その声とともに、複数人の走る足音が後ろから聞こえてくる。その足音は明らかに自分に向かって来ていた。何もしていないし逃げなければいけないような心当たりもないが、逃げなければいけないと感じた。しかし、足が限界だった。自分の思うように足が進まない。足音はあっという間に追いついた。振り返るよりも先に、大きな力が自分の体を押さえつけた。その力のままに、その場に情けなく膝を落とした。姿は見えないが、自分よりはるかに体格の良い男性二人が後ろから俺の肩を押さえているようだ。
「落ち着いてくださいね。大丈夫です。自分の時空に戻りましょうね」
病人に声をかける看護師のような口調で、女性の声が後ろから聞こえる。自分の息を吸う声がうるさい。何が起きたのか、何を言っているのか、全く分からない状態で抵抗する気も起らない。
「最近多いっすね」
「境界線が曖昧になってきてるみたい」
自分を押さえている男二人の会話が聞こえる。視線を落としたままその会話を聞いていると、不意に女性が俺の名前を呼んだ。そして「安心してください。自分の時空に戻れます。この時空での記憶もちゃんと消えます」と、落ち着きを払った声で言った。
その瞬間、一瞬にしてあたりが暗くなった。あるはずのない照明を落とされたように、テレビの電源を切るように、プツンと、音も光も遮断された。
4
重い頭を持ち上げて時計を見ると、16時を少し回っていた。三時間は寝ていたことになる。これは夜が寝れなくなると、ひどく後悔した。そもそも昨日の晩、佐藤の家で普段飲まない酒を飲んだ事が失敗だった。佐藤に起こされて2限の講義には間に合ったものの、二日酔いのせいで体調が優れなかった。それでも休むほどでは無いと思ったが、コンタクトを忘れた事で考えが変わった。コンタクトが無くても、生活に大きな支障はないが、黒板の文字が読めない。
電気もつけていなかったため部屋は薄暗かったが、すぐに目は慣れた。朝から何も食べていないことを思い出し、習慣のように冷蔵庫を開けるが、何も入っていない。自分の生活に呆れてしまう。
目を覚ますためにもコンビニへ夕食を買いに行くことにした。
家を出ると思った以上に外は冷えていた。吐いた溜息が少し白くなる。アパートを出て、踏切を渡り、細い路地を抜け、住宅街のT字路を右に曲る。その時、右から歩いてきた男にぶつかってしまった。謝ろうと男を見ると、男は小さく悲鳴を上げて逃げるように何処かへ走っていった。コンタクトをつけていなかったため、男の顔はよく見えなかったが、自分に似ていた気がした。