青色吐息
♪♪♪
ジジジジジジジジジ。
目覚まし時計が鳴っている。すぐ近くの枕元。
夢の世界から、私の精神がゆっくりと離反していく感覚。気持ちよくはない。白と黄色のドリルが鼓膜に付き立てられて喜べる人がいたら見てみたい。
不意に苛立ちのスイッチが入って、がなり立てる目覚まし時計を枕で黙らせる。
時計のアラームの凶器は殺されまいと鳴き続けるが、綿の下じゃ無駄なこと。五分も経たない内に窒息死する。最期の時まで諦めなかったのは評価してやろう。
もぞもぞと布団をかぶり直す。微妙に覚醒した理性で、携帯を毛布に引っ張り込む。暗闇の中で液晶が光り、今の時間を知らせる。
六時三分。起きるのはあと五分後にしよう。
その十五分後。アパートの一室から柚木楓は出発した。
♪♪♪
柚木楓は悩んでいた。
どうすればうちの楽器店『タナカシンフォニー』が赤字から脱することができるか、と。
やはり名前が悪いのだろうか。客が店頭まで来て踵を返すのは、薄ら寒いセンスの店名が原因なのだろうか。それとも私なのか。店奥のカウンターにて剣呑な目つきでお客さんを出迎える、この私が原因なのだろうか。あるいはその両方、か。
まあ、両方だろう。
そもそもの話、楽器が買われない。よくて一ヵ月に一台である。そして店を支えている一番の収入源、唯一の人気商品はCDだ。ここまでは別にいいのだが、明らかに売れないであろう海外の珍妙な楽器まで仕入れるのは、もう無駄でしかない気がする。
「でも、売れるんだよなぁ……」
CDやアンプほどではないが、実際売れているのだから余計腹が立つ。楓が仕入れるように指示したエレキギターやベースは一つも売れていないのだからむかっ腹が立つ。
ちなみに一番の売れ筋は近所の中学高校の運動部が使う和太鼓だ。軽音部や吹奏楽部の連中はわざわざうちで買ってくれない。あの小娘らめ。
しかし、今回の赤字ラッシュは五ヶ月連続だ。そろそろ転職も考えたくなる。赤字について詳しく真面目に、田中店長に切り出してみたところ。
「え? 一ヶ月に一個も売れてるの?」
暢気すぎるにもほどがあった。しかも話題はそれじゃねえ。その場で鉄拳制裁を食らわしておいてが、あれで改心するようなタマではない。店が続いている内に、次の働き先のコネを手に入れておかねば。
楓の口から溜め息が漏れるが、それは荒い呼気の中で掻き消される。
吐いた息が、走る私の視界を白く染める。
ジョギング中にこんな益体も付かないことで悩んでしまうのは、今朝に見た店が潰れる夢のせいでもあるが、副業の締め切り日が迫っていることもある。つまりは現実逃避だ。
いっぺんに二つ受け持ったのが失敗だった。一つはすでに完成しているのだが、もう一つのが一向に進んでいない。依頼が多いのは喜ばしい限り。しかし、今回のように納期が重なると身が追いつかない。次からは注意せねば、だ。
夏といえども早朝は涼しい。
適度に走ればその涼しさを風として受けられる。汗が浮かんできたが、これも涼しむための材料である。
町内を周るコースは、日と気分によって、長かったり短かったり複雑だったりとまちまちであるが、今日は中央商店街の方に足を向けた。神社も面している大通りだ。住宅街の道と違って道路が直線的なため、走るのに適している。
犬の散歩をしている人とすれ違いながら、ラーメン屋『火の粉』と眼鏡ショップの間の角を曲がり、まつのき総合病院の駐車場の横を走り抜け、ちっちゃい十字路の赤信号を華麗に無視して、踏み切りを前にする。
黄色い音が降ってきて、黄色と黒の遮断機が進行を阻む。ここを渡ったらゴールの自宅はすぐだ。どうせなので、その場で柔軟を始める。
屈伸と膝伸ばし。アキレス腱伸ばし、腿伸ばし。肩伸ばし、指伸ばし。
平日だから今日も客は来ないんだろうな、と予想して、憂鬱とまでは言わないが、暗い気持ちになる。こう朝からネガティブな日は何らかの変化を期待してしまう。
急に商店街のおばちゃんたちがバンドに目覚めてくれないだろうか。いいや、尺八とか三味線でもいい。お琴だったらなおさら良い。癪だが、昨日インドネシアから入荷したゲンゴンでも構わない。そろそろレジ打ちの仕方を忘れてしまいそうで怖い。
カンカン、という黄色い羽ばたきが目障りだ。目を瞑るが羽は付きまとってくる。ゴトンゴトン、と遠くからヌーの大群の響きが走ってきた。目を開ける。目の前を鈍重な車両が通り抜けていく。三車両のガラガラ状態だが、この町の駅でいっぱいになる。
凶悪な猛牛のリズムが遠のき、喧しかった黄色い小鳥も飛び立つ。
楓は足を止めている間に噴き出た汗を拭い、走りを再開した。ぬめつく汗が、シャツを肌に貼り付かせる。太陽が上がってきた。風に温度がまとわり付く。
夏の暑さに追いつかれる前に、楓は自宅に逃げ込んだ。
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