荀子ちゃん、現る
金曜日、何となく冴えない頭で僕は学校に行った。先生の話が耳を通り過ぎていく。板書だけは何とかノートに書き写しているものの、頭の中でずっと孔子ちゃんのことを考えていた。結局、あまり授業に集中できないまま時間が過ぎ、昼休みになった。心配したように、二口さんが話しかけてきてくれた。
「貢君、大丈夫? 調子悪そうだね」
昨日の、僕の不躾な視線のことは、もう気にしていないように見える。僕も努めて自然な反応を心掛けた。
「昨夜の寝付きが悪くてね。でも、大丈夫だよ。ありがと」
二口さんは微笑むと、深くは追及せずに話題を変えてくれた。
「そう言えば、孔子ちゃんは相変わらずですか?」
「そうだね、相変わらず、rongofulと言うかrongosticと言うか、そんな感じだよ」
僕がrを大げさに発音して言うと、二口さんは笑いながらノって来てくれる。
「そう言う貢君も、随分rongonizeされちゃったみたいですね! 今日辺り、私もリベンジしようかな」
「大歓迎だよ! 少しrongoticに言うと、『またよろこばしからずや』って感じだね」
怪しげな中国思想的造語を交えて盛り上がっていると、後ろの席の関が話しかけてきた。
「おい、端木、お前いつの間に二口さんとそんなに仲良くなったんだよ!? ずるいぞ!」
「ちょっと一緒に、引きこもり中学生の社会復帰プロジェクトを実行してるんでね」
「うげ、なんだよ、そのくそ面倒くさそうなプロジェクトは」
「まぁ、成り行きでちょっとした社会勉強さ」
詳しく聞きたいのかも知れないが、僕は軽く流した。その引きこもり中学生が超絶美少女であることを知れば関の反応も変わるだろうが、僕はそこまでお人好しではない。あきらめたのだろう、関が話題を変えた。
「そう言えば、聞いたか? 今朝、学校の馬小屋でちょっとした火事があったらしいぞ」
春秋学園は近くに競走馬の調教を行う施設がある関係で、普通の高校には珍しく馬術部があり、校内の馬小屋で何頭か馬を飼っているのだ。
「それは大変でしたね。お馬さんは大丈夫だったんですか?」
二口さんが心配そうに尋ねる。
「丁度馬術部の朝練の時間だったから大丈夫だったらしいよ。それにしても、馬を心配してあげて、二口さんは優しいなぁ」
関が鼻の下を伸ばす。
「そ、そんな、普通ですよ」
二口さんが照れて大げさに首を振る。そんな様子も可愛いが、関に向けられた態度だというのが微妙にムカつく。僕は強引に話題を戻した。
「じゃあ、また一応丘さんの了解を取ってメッセージ送るね」
「分かりました」
破壊力抜群の笑顔を残して、二口さんは他のクラスメートと喋るために席を外した。
「お、おい、端木、お前二口さんのID知ってるのか!?」
「ああ、例のプロジェクトの一貫でね」
勝ち誇ったように言ってやる。
「教えてくれ! いや! 教えてください!」
関が凄い勢いで迫ってくるのを僕はことさら冷たくあしらった。
「個人情報だし、無断では無理だな。本人の了承を取ってから頼んでくれ」
「それができるなら直接聞くわ!」
もっともな突っ込みだけど、僕は聞こえないふりをした。
***
放課後、また二口さんと一緒に孔子ちゃんの家に行けると思ったのに、二口さんは用事を済ませてから来るとのことで、僕は一人で下校した。家に帰り、少し休んでから当然のように孔子ちゃんの家に行く。弘美さんに二口さんのことを話すと、渋い顔をしながらも了承してくれたので、僕は二口さんにメッセージを送っておいた。
孔子ちゃんの部屋に入り、とりあえず世間話を振ってみる。
「そうそう、孔子ちゃん、今日僕の学校の馬小屋でちょっとした火事があったんだよ」
「ふむ、それで?」
孔子ちゃんは冷たく言った。
「いや、それだけだけど……。他に何かないの? 『お馬さんは大丈夫だった? 』とか」
僕は今朝の二口さんの反応を思い出しながら言った。あわよくば、「優しいね」攻撃まで仕掛けるつもりだったのに、あてが外れた感じだ。
「馬の心配などする必要はない!」
孔子ちゃんがびしっと僕を指差して断言する。
「ど、どうしてさ!?」
女子は大抵動物が好きで優しい、というのは僕の思い込みだったのだろうか? 孔子ちゃんの鋭い断言に僕はたじたじだ。
「当然じゃ。『厩焼けたり。子、朝より退く。曰く、人をそこなえるか。馬を問わず』!」
この程度なら読み下しでもなんとなく意味はわかる。馬屋が焼けた時、孔子は人の安否は確認したけど馬については聞かなかったということだろう。どう答えていいか一瞬言葉に詰まると、孔子ちゃんが得意げに続けた。
「ちょっとした火事、と言うからには死傷者が出ておらぬのは明らか。故に、馬を問う必要はないのじゃ」
確かに論理的だ。言葉の軽さから死傷者が居ないことは容易に推測できるし、だからこそ、確かに二口さんも馬の心配しかしなかった。
「で、でも、それはちょっと動物愛護の精神に欠けるんじゃないかな?」
無駄と思いつつも反論してみる。孔子の生きた2500年前に動物愛護などという概念があったとも思えないし、孔子ちゃんの基本原則は、孔子の教えは現代にも通づる、だ。
「愛らしい動物を見て思考停止に陥るのは解らぬでもないが、昨今の、動物愛護の名を借りた政治活動やテロ活動の風潮はどうかと思うぞ」
「またそんな過激発言を……」
「大体、食文化だって立派なその国の文化であるのに、自分達が食べないからと言って特定の食材を食べる民族を野蛮人扱いするなど、知性を疑うレベルの妄言じゃ」
苦々しげに孔子ちゃんが吐き捨てる。既に馬の心配をすべきか否かという話から完全に逸れている。これ以上エスカレートするのが怖くなって、僕はこっそりと話題の軌道修正を試みた。
「な、何の話をしてるのさ? そういう話じゃなかったような気がするんだけど……」
「無論、昨日食べた、く○らの竜田揚げが美味しかったという話じゃ」
「そんな話してなかったでしょ!?」
「そうなのですね。話の根幹は、孔子の教えがいかに無為無益か、ということなのですね」
「だ、だれだ!?」
不意に話しかけられて、僕は慌ててドアの方を見た。孔子ちゃんもゆっくりと目を向ける。そこには、いつ入ってきたのやら、可愛らしいゴスロリ姿の女の子がいた。見たことのない子だ。年の頃は孔子ちゃんよりも少し幼く見える。
「わたくしの名前は小林じゅんこ……なのですね」
「つまり、この小林孟子の妹ってことだよ、お兄ちゃん」
じゅんこちゃんの後ろから現れたのは、孟子ちゃんだった。
じゅんこちゃんの後ろから現れたのは孟子ちゃんだった。
「孟子ちゃん!? と言うことは、ひょっとして君の名前も、荀子って書いてじゅん子?」
「よくわかったのですね。姉の言う通り、ただ者ではないのですね」
「いや、さすがに安直過ぎるでしょ……」
「安直? わたくしの父は、荀子の教えは現代にも通じると言って……」
「もうそれはいいから! 大体、特定の思想を信奉しているならともかく、性善説と性悪説みたいに真逆の思想家から名前を取るなんて、君たちのお父さんは、古代中国の思想家ならなんでもよかったんじゃないの?」
思わず、言ってしまった。
「それは侮辱だよ、お兄ちゃん!」
「侮辱なのですね」
孟子ちゃんと荀子ちゃんが口を揃えて抗議する。確かに、自分達の名前を気に入っているらしいこの子たちからしたら、何でもいい、は失言だ。
「今のは貢殿が悪いな。人間の本性を善とするか、悪とするか、その発想の出発点に違いがあるだけで、どちらの説も、人は徳を身に付けなければならないという結論には違いがない。その意味で、名付けに込めた想いにも矛盾はないと思うぞ」
意外にも孔子ちゃんが二人の味方をする。
「貴女……古くさい孔子の名を冠しているくせに、まるきり馬鹿でもなさそうなのですね」
意外に思ったのは僕だけでは無かったらしい。荀子ちゃんが孔子ちゃんを興味深げに見やる。
「いや、荀子もそんなに新しくないんだけど……」
確か、荀子は、孔子よりも百年ほど遅い孟子よりも更に半世紀ほど遅かったはずだけど、それでも紀元前四世紀ごろの人間のはずだ。この子たちの歴史感覚についていけない。頭を抱える僕のことなど気にせず、二人は会話を続ける。
「孔子の後出し劣化コピーの一つに過ぎぬくせに、吹くではないか」
「進化、と言って欲しいのですね。確かに、孔子が人に大切な仁義礼智信という徳を整理して説いたことは大きな功績ですが、大体、孔子にしたところでそれまで体系化されていなかった思想をまとめあげただけで、何か新しい思想を産み出したわけではないのですね。言わば、孔子はコピー思想家の元祖……なのですね」
挑発的に荀子ちゃんが言う。
「孔子の目的は思想家となることではなく、自ら政に携わり、より良い世の中を作ることであって、またそうした目的に耐えうる人材を教育することにあったのじゃから、後世の思想屋どものように『新しい思想』とやらを流行させる必要はなかったと思うが」
孔子ちゃんが余裕の笑みで返す。思想屋というのは聞いたことのない言葉だけど、政治屋のように、それを金儲けの道具にしているという程度の蔑視だろう。孔子は思想家ではなく、政治家或いは教育者だという主張に、荀子ちゃんは返答に窮したように軽く舌打ちした。
「ともあれ、姉がヤラれたとあっては、黙っているわけにはいかないのですね」
「わ、私はヤられてなんてないよ! お兄ちゃんの顔を立てて一時退却しただけなんだから!」
「いいから、お姉様は黙って見ていればいいのですね。人の性は悪……少しでも知性を持つ人間であれば、その真実を否定することなどできないのですね」
「ほう、吾は否定できると思うが?」
孔子ちゃんが自信満々で、とても小さな、しかし荀子ちゃんよりは微妙に膨らみのある胸を反らす。荀子ちゃんも負けじと胸を張った。