孔子ちゃんvs孟子ちゃん
家の玄関には、まだ孟子ちゃんの靴があった。一階のリビングに人の気配はない。恐らく、二階の由宇の部屋にいるんだろう。僕は孔子ちゃんを伴って二階に上がり、由宇の部屋を軽くノックした。ドアの向こうは何やらぎゃーぎゃーと騒がしいが、返事らしきものはない。
「入るぞ?」
一応断って、僕はドアを開けた。そこには……。
「だめだって! そんなとこ触らないでよ!?」
そこには、上着をはだけたあられもない姿で孟子ちゃんに押し倒され、泣きそうな声で必死で抵抗する由宇の姿があった。
「もう! 由宇ったら、診察するんだからそんなに暴れたらダメだよぉ」
孟子ちゃんは由宇の上に跨がって、聴診器で由宇の身体をまさぐっている。いきなり濡れ場に遭遇して、僕はパニックだ。
「だめ、バカ、お兄、見るな!」
由宇が僕に気づいて叫ぶ。その言葉で孟子ちゃんもこっちに気づいたようだ。
「どうしたの、お兄ちゃん? やっぱりお兄ちゃんもあたしたちとお医者さんごっこをしに来たの?」
孟子ちゃんが由宇にまたがったままで話しかけてきた。見事なまでの上目遣いで、舌舐めずりする。
「いや、そういうわけじゃなくて……」
あまりに頽廃的な光景だ。恐る恐る、僕のうしろにいる孔子ちゃんに目をやる。孔子ちゃんは怒っているのだろう、身体をぷるぷると震わせている。
「貴様、昼寝だけに飽きたらず、若い癖に淫ら事に耽るなど何たる怠惰! 」
孔子ちゃんが鋭い口調で叱責する。
「あら、誰かと思ったら、現代的な昼寝の効能も知らない古くさい子じゃない。そんなこと言って、貴女も仲間に入れて欲しいんじゃないの? 寂しい子だね」
「断じて否! 『子曰く、きみ子は和して同ぜず』、じゃ」
どうやら、前に由宇の言っていた、昼寝で孔子ちゃんとケンカになった子というのは孟子ちゃんだったらしい。孔子ちゃんは、この間は機会があったら謝ると言っていたけど、今はそんな雰囲気ではなさそうだ。
「お兄、何でこんな子連れてきたのさ!?」
ようやく孟子ちゃんから解放された由宇が服の乱れを直しながら僕に怒ってくる。
「まさか、孟子ちゃんが孔子ちゃんとケンカした子だったとは思わなかったんだよ!」
「たけ子、つまり、こ奴が孟子に因んで名付けられた腐れ儒者ということじゃな」
どうやら、孔子ちゃんは孟子ちゃんの名前を知らなかったらしい。転校してから一度しか登校していないのなら仕方ないかも知れない。
「だ、誰が腐れ儒者よ!? 貴女こそ、孔子なんて時代遅れな名前を付けられた癖に!」
「孟子の名を付けられた割に、考えが浅いな。孟子は孔子の死後およそ百年の後に孔子の教えを学び、自らの学説を立ち上げた、言わば温故知新の体現者。然るに、その名を冠するお主が孔子を時代遅れと笑うとは」
孔子ちゃんが舌鉾鋭く孟子ちゃんの時代遅れ攻撃を両断する。孟子を引き合いに出した攻撃に孟子ちゃんが口ごもる。孔子ちゃんは余裕の表情で続けた。
「しかも、なんの恥じらいもなく淫らなお医者さんごっこに興じるなど言語道断じゃ!」
「べ、別にいいじゃない。私のママは、私が医者に興味を持つように、わざわざお墓の隣から病院の横に引っ越したんだから。お医者さんごっこして何が悪いのよ!?」
むきになって言う孟子ちゃんを、孔子ちゃんが鼻で笑った。
「ふむ、孟母三遷という奴じゃな」
そうか、孟母三遷か! 教育熱心な孟子の母が、住む場所が教育に与える影響を考慮して三回引っ越したという故事に基づく故事成語だ。
「そ、そうよ! 孟子の優れた業績は、母の努力の賜物。あたしもママがちゃんと考えてくれてるから立派なレディーになるんだもん! ひっきーなあんたとは違うんだから!」
「汝の母上のことは知らぬが、吾は常々、孟母三遷が美談として伝えられることに疑問を持っておるのじゃ」
「ど、どうしてよ!? 母親の尽力で子が大成するなんて、昨今の児童虐待の大流行からしたら間違いなく美談でしょ!?」
「いや、大流行は言い過ぎだし、そんな頭のおかしい親を比較対象にするのもどうかと思うけど……」
僕の控えめな反論は二人の耳には届かなかったようだ。
「それはどうかな? 吾には、孟母は賢母どころか、まるでヒステリー女に見えるのじゃ。墓の隣に住んでいた時に墓守りの真似をしたなら、市場の側に住めば商人の真似をするのは予測できたはずじゃ。教師にしたいなら最初の段階で学校の横に引っ越しておけば一回の引っ越しで住んだはず。然るに、考えなしに二回も引っ越したのじゃから。子が思った通りにならないからと、衝動的に行動してしまう様は、寧ろ虐待する親に近いものがあると思うぞ」
そういえば、三遷と言いつつ、孟母は二回しか引っ越していない。僕的にはそちらの方が疑問だけど、二人は気にしていないようだ。
「そ、それは……たまたま学校の近くの家が売りに出ていなかっただけかも知れないでしょ! 子供のことを考えての行動をヒステリーなんていう言葉で片付けるのは心外だわ!」
お母さんの行動を批判されて孟子ちゃんが悔しそうに言う。
「お、お兄、この二人なに言ってんの? 私には全然意味わかんないんだけど……」
二人のやり取りに、完全に蚊帳の外の由宇はどん引きの様子だ。
「安心しろ、僕もわかってない」
ただ分かるのは、二人の間では何やらすごい勝負が繰り広げられているということと、やや孔子ちゃんが優勢らしいということくらいだ。
「孟母がやむを得ず市場の側に越したなど、寡聞にして知らぬな。何か根拠があるのか?」
「くっ……」
口ごもる孟子ちゃんに、孔子ちゃんが追い討ちをかける。
「いくら子供のことを思った行動であったとしても、そこに思慮分別が伴わねばヒステリーと変わらぬ。昨今急増している所謂モンスターペアレンツの問題にも通じることじゃと思うが」
孟子ちゃんの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。孔子ちゃんが先に断ったとおり、孔子ちゃんは別に孟子ちゃんのお母さんを責めたり馬鹿にしているわけではない。単に、孟母三遷という故事の一般的な解釈に異を唱えているだけだ。
でも、孟子ちゃんとしては、自分とお母さんを、孟子と孟母に重ねてしまっていのだろう。お母さんを悪く言われているようなもので、いい気がするわけがない。僕は少し孟子ちゃんが可哀想になった。
「ちょっと待ってよ、孔子ちゃん。ひょっとしたら孟子のお母さんは、最初は孟子を商人にしてもいいと思っていたのかも知れないよ」
「ほう、どんな根拠で?」
いたたまれない気持ちで口を挟んだ僕を、孔子ちゃんが興味深げに見る。
「さっきの孟子ちゃんを見ただろ? どんな物事にも暗黒面があるんだ」
僕は、某有名SFの悪役を思い浮かべながら言った。
「ダークサイドじゃと!?」
「そうだよ。確か、孟母が市場を教育に悪いと考えたのは、孟子が悪徳商人の真似をしたからだったと思うけど、これは商人のダークサイドだね。医者の場合だと、医者が患者に性的なイタズラをしてしまうというダークサイドがある。ちょうど、今の孟子ちゃんのようにね」
「ふむ、それは理解できるが……」
「そして、子供がダークサイドに落ちるかどうかは、親とか、師匠みたいに教育する人には、必ずしもコントロールできないと思うんだ。ひょっとしたら、孟子だって、一つ間違えば教師のダークサイドに堕ちて、女子トイレを盗撮したかも知れないよ? そうなったら孟母はきっと引っ越ししただろうね」
「いやいや、そんな時代にカメラはないでしょ、お兄……」
「そこは突っ込んだら負けだよ、由宇……」
孟子ちゃんが僕の気持ちを代弁してくれた。そんな見え見えの釣り針で孔子ちゃんを釣りたいわけじゃない。
「なるほどな。環境が子になんらかの影響を与えることは確かじゃが、どのように影響を受けるかはその子供の資質次第で、必ずしも親の思い通りにはならないということか」
「そうよ! だから孟母はまったく悪くないんだからね!」
僕の発想は、お母さんを悪く言わないという点で、孟子ちゃんにも受け入れやすいものだったようだ。
「まぁ、いずれにせよ、ダークサイドに堕ち淫ら事に耽った汝が悪いことに変わりはない。猛省するんじゃな」
勝ち誇ったように、孔子ちゃんが慎ましやかな胸を反らして断言した。
「くっ、今日のところは、お兄ちゃんに免じて大人しく引き下がってあげるわ。でも、覚えてなさい。次に会うときはお医者さんごっこの素晴らしさを思い知らせてやるんだからね!」
よくわからない捨て台詞を残して、孟子ちゃんは去って行った。
「では、吾もこれで帰るかな。そうそう、先ほどの孟子嬢への心遣い、見事であったぞ。流石は子貢、『おもんばかればすなわちしばしばあたる』、じゃな」
「何それ、意味わかんない……」
会話に全くついていけなかったからだろう、由宇が不機嫌そうに言う。
「ごくごく一般的な日本語じゃというのに、意味がわからぬとは……。やれやれ、『女子と小人養い難し』、というやつか」
「もうやめてよ! そんなわけわかんない言葉、聞きたくないわ!」
「ふむ、『子路は聞くことありて未だ行わねば、更にただ聞くことあるを恐る』、ということか」
孟子ちゃんとの闘いで気が昂っていたのか、立て続けに三つも論語からの引用らしきものを残して、孔子ちゃんも帰って行った。後には間抜けに取り残された兄妹が二人。
「お、お兄、何だったの? あれ……」
孔子ちゃんの論語的世界に巻き込まれ、精神をぼろぼろにされたのだろう、由宇が茫然と呟いた。
***
自分の部屋に戻り、徒労感でどっと疲れた僕は、自室のベッドに身を投げた。何故か寝付けない。気になっていた孔子ちゃんの言葉の一つを探して、枕元の論語をめくる。ほどなく、次のような一節を見つけた。
『子曰く、回やそれ近きか。しばしば空し。賜は命を受けずして貨殖す。おもんばかれば則ちしばしばあたる』
孔子の考えでは、出世したりお金を手に入れることは勉強の目的ではなく、天運によって決まることらしい。だから、お金など気にせず、ただ学ぶことを楽しむべきなのだそうだ。孔子の一番弟子の顔回は貧乏だったけれど、しばしば米びつが空になっていることにも気づかないくらい勉学を楽しみ没頭したという。だから、孔子から道に近い、と評されている。それに比べて賜、つまり、子貢という弟子は、お金がないと心配で、すぐにお金を殖やそうとしたらしい。ただ、頭は良かったから、何かを考えれば、大体理にかなっていたそうだ。
孔子ちゃんは、どういう気持ちでこの言葉を使って僕を褒めたのだろうか? 僕が金銭にかなり執着してしまっていることに気付いているのだろうか? 孔子ちゃんの前でお金にこだわるそぶりを見せたことはないはずだ。そんなわけはない、と思って僕はそのくだらない被害妄想を頭から追い出そうとした。ただ、たまたま僕の名前がこの子貢という人物に似ているから、その言葉を使って僕を褒めただけで、特に深い意味などあるはずがない。そう思いながらも、僕の心はなかなか晴れなかった。