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三つの戒め

 ふぁー……。


「大きなあくびですね。寝不足ですか? 貢君」


 水曜の朝、学校に着いて早々に大あくびをした僕に、隣の席の二口(ふたくち) 淵子(ふちこ)さんが話しかけてきた。


 二口さんは、この名門、春秋学園でも常に成績トップの才媛だ。おっとりとした優しい雰囲気ながら、目をやるのも畏れ多いほどないすばでーの美人さんで、僕の憧れの人だったりする。彼女と同じクラス、しかも、隣の席になれたのは恐らく僕の人生の中でも屈指の幸運だろう。


「うん、ちょっと遅くまで本を読んじゃって」


 何となくめくった論語がなかなか面白く、つい夜更かししてしまったのだ。


「何を読んでいたんですか?」


 興味津々の様子で、二口さんが聞いてくる。二口さんは読書家で、ラノベから純文学まで幅広く読むらしく、ラノベ好きの僕とは話が合うのだ。


「えーっと……」


 だからこそ、僕は躊躇した。普段ラノベの話ばかりなのに、急にカッコをつけるように論語を読み始めるなんて、中二病に羅患したことを告白するような気恥ずかしさがあるのだ。


「ひょっとして、えっちな本ですか?」


 淵子さんが更に目を輝かせた。淵子さんは、最近官能小説にも興味をもっているらしい。


「ち、違うよ! ちょっと訳あって論語を読み始めたんだ」


 僕は慌てて事実を語った。萌えはエロを駆逐する、をモットーとする僕が、こっそりエロ小説を読んでいると誤解されるなど、プライドが許さない。


「論語……儒教の始祖と言われる孔子とその弟子たちの言行録ですね」


 さすが淵子さん、受験知識は完璧だ。


「そうそう。最近隣の中学生の家庭教師みたいなことを始めたんだけど、その子が論語を曲解する変わった子でね。対抗しようと思って読んでいるんだ」


「論語は私も読みましたよ。昔のこととは思えない話がたくさんあって、面白いですよね」


 淵子さんが微笑む。よかった、共通の話題になるならラッキーだ。


「でも、家庭教師みたいなことって、なんなんですか? 家庭教師ではないんですか?」


「家庭教師なんだけど、そもそも引きこもってて勉強する気がないらしくて、教えるところまでいかないんだ。とりあえず論語を話題にご機嫌とりしてる状況だよ」


「それは、大変ですね……」


「言っても、雑談してるたけだからそれほど大変でもないんだけどね」


 僕は軽くおどけて見せたけど、淵子さんは少し考えて、言った。


「貢君、私も一度その子に会って話してみたいです。紹介してくれませんか?」


「急にどうしたの?」


「いえ、論語についてお話するというのが面白そうなので。引きこもりを解決するお手伝いも出来るかも知れませんし」


 淵子さんが可愛く微笑む。孔子ちゃんのことを考えていてくれたのか。なんて優しいんだ。


「わかった。大丈夫だと思うけど、今日行った時に、確認してみるね」


「大丈夫そうなら、私の携帯にメッセージ送ってくださいね」


 そう言って、淵子さんは僕にスマホ用通信アプリのID を教えてくれた。今まで聞く機会も、勇気もなかった連絡先をゲットできるなんてラッキーだ。心のなかで孔子ちゃんに感謝する僕だった。


***


 放課後、僕はとりあえず二口さんを自分の家まで案内した。僕の部屋で待機しておいてもらって、弘美さんのお許しがでたら孔子ちゃんの家に呼ぶ作戦だ。


「おかえり、お兄……って、何考えてるのよ!? そんな美人を家に誘拐してくるなんて……早く自首しなよ! 警察呼ぶね!」


 言うが早いか、由宇が自分の携帯で110に掛けようとする。


「ちょっと待てぃ!」


 僕はあわてて由宇から携帯を取り上げた。


「どうしてお前はいつもそう短絡的なんだ! どこをどう見たら誘拐に見えるんだよ!」


「だって、お兄がそんな美人連れてくるなんて、それしか考えられないじゃん」


「確かに貢君を疑うのもわからなくはないですけど、今日は違いますよ」


 二口さんが笑顔で助け舟(?)を出してくれる。


「そういうフォローの仕方は地味に傷つくんだけど……」


「ごめんね、貢君。軽い冗談だよ」


「もういいだろ、由宇。こちらは二口さん。僕の同級生で、隣の孔子ちゃんと話してみたいっていうから、来てもらったんだ」


「なぁんだ、あの子絡みなんだ。二口さんもせいぜい、ケンカ売られないよう、気を付けてくださいね!」


 露骨に嫌そうな顔で捨て台詞を残して、由宇は自分の部屋に戻った。僕は二口さんを自分の部屋に案内した。


「私、男の人の部屋に入るの初めてです」


 特に面白いものもないはずだけど、興味深げに二口さんが部屋を見回す。見られて困る類いのものは、目につく所にはないはずだけど、かなり気恥ずかしい。


「なかなか充実した蔵書ですね」


 ラノベが中心ながら、ぎっしりと本の詰まった僕の本棚を見て二口さんが言う。


「古本屋を有効活用してるからね」


「人の本棚って、その人の人となりが出るから見ていて楽しいですよね」


「そんなこと言われたら、肌色面積の広い本が多くて恥ずかしいんだけど……」


 こんなことを軽く言えるのは、二口さんがラノベの挿絵に寛容なのを知っているからだ。


「とりあえず、本は好きに読んでくれていいから、ここで待ってて。二口さんを連れていっていいか、丘さんに聞いてくるよ」


「はい、わかりました」


 早速本を手にとってめくり始めた二口さんを置いて、僕は丘さん宅へ向かった。


「いらっしゃいませ、先生」


 弘美さんが笑顔で迎えてくれる。


「弘美さん、あの、孔子ちゃんが論語好きなの、ご存知ですよね? 僕の友人にも論語好きな女の子がいて、孔子ちゃんとお話してみたいって言ってるんですけど、来てもらっていいですか?」


「ええ、もちろん構いませんよ。家族以外としゃべることも、今の孔子には必要ですし」


 そう言って、弘美さんは快く同意してくれた。僕は、教えてもらった二口さんのIDに、メッセージを送った。


『okでたから、隣の家の前まで来て』


『わかった\(^o^)/』


 二口さんは、アプリ固有のスタンプではなく、わざわざ昔ながらの顔文字で返事をくれた。


 一旦、丘さん家の玄関から出る。ほどなく、豊かな胸を揺らしながら二口さんが現れた。僕は二口さんを伴って再び丘さん家に入る。


「初めまして、あの、えっと……二口淵子と申します。すみません、突然お邪魔してしまいまして」


 玄関で待っていてくれた弘美さんに二口さんが行儀よく挨拶する。


「こちらこそ。娘のためにわざわざお越しいただいて、ありがとうございます」


 弘美さんも丁寧に返す。表面、和やかなやりとりだが、僕は何か不穏なものを感じていた。気まずい沈黙が続いている。僕にはなんとなく理由がわかった。僕の推測は次のとおりだ。


 二口さんは、弘美さんを何と呼んでいいか迷っているのではないか。普通、ある程度大きなお子さんがいる女性に対して、そのお子さんの友達や知り合いが呼び掛ける場合には、「おばさま」と呼ぶのが丁寧で、二口さんも最初はそう呼ぼうとしたはずだ。


 しかし、若々しい弘美さんを見て思いとどまった。義母に過ぎず、また自分の若さと美貌に自信のあるだろう弘美さんからすれば、おばさま、という単語を思い浮かべられるだけで腹立たしいはずだ。加えて、二人が同系統の美人、つまり、抜群のプロポーションを誇る美人で、違うのは年齢だけ、という事実も、この恐ろしい緊張状態に拍車をかけているのだろう。


「ふ、二口さん、こちらは、孔子ちゃんの義理のお母さんの弘美さんだよ」


 僕はこれ以上溝が深まらないうちにフォローに走った。あぁ、それで、と二口さんの顔に納得した表情が浮かんでようやく、二人の間の緊迫感が緩んだ。と思った瞬間……。


「どうりで、おばさまと呼ぶには若いと思いました」


 にこやかに、二口さんが禁句を口にしてしまった。一気に空気が凍りつく。僕はおそるおそる弘美さんの顔を見た。弘美さんは笑顔のままだったけれど、体を小刻みに震わせている。その震えは、だんだん大きくなり、さすがに二口さんが焦り始めた。


「あ、あの……おばさま?」


 思わずまた言ってしまって、しまった、とばかりに二口さんが口を押さえる。そして、弘美さんが泣き出した。


「酷いよ、ちょっと自分が女子高生だからって。あなただって、今は若くても数年後には私みたいなおばさんになるんだからね!」


「ひ、弘美さんはまだ若くて可愛いですって!」


 僕は必死で弘美さんを慰めた。


「そうですよ、私も、数年後には弘美さんみたいな美しい大人の女性になりたいです!」


 二口さんも慌ててフォローする。


「いいもん、いいもん……」


 泣きながら部屋のすみでいじけている弘美さんを何とかなだめて、僕たちはそそくさと孔子ちゃんの部屋に向かった。


***


「孔子ちゃん、こちらは僕の友人の二口さんだよ。孔子ちゃんの話をしたら、一度論語の話をしてみたいって」


「二口淵子です。よろしくお願いしますね」


 孔子ちゃんは、笑顔で自己紹介した二口さんを睨むかのように、じっと見つめている。


「ど、どうしたの? 孔子ちゃん……」


 孔子ちゃんは二口さんに近付くと、おもむろに二口さんの自己主張の激しい胸を揉み始めた。


「きゃ、きゃあぁぁ!?」


 当然のことながら二口さんが悲鳴をあげて逃げようとするけど、孔子ちゃんは巧みに二口さんに密着して執拗に胸を揉み続ける。


「ひ、孔子ちゃん、何してるのさ!?」


 僕は、孔子ちゃんを咎めながらも、その倒錯的な光景から目を離せなかった。可愛い孔子ちゃんの手で二口さんの柔らかそうなばくにうが弄ばれている。


「そのけしからん胸! 『きみ子に、三戒有り』!」


「さんかい?」


「然様。『若きとき、未だ血気定まらず。これを戒むるは色に有り』!」


「い、意味がわからないよ!」


「若いうちは、まだ血気がコントロールできないから、色欲は戒めなければならない、という意味ですけど……どうして私の胸を揉むんですか!」


 何とか孔子ちゃんの魔の手から逃げ出した二口さんが目に涙を浮かべながらも律儀に意味を解説してくれた。


「当然、若者の心を惑わす色欲の根源は大きな胸であるから、これを戒めたのじゃ」


 孔子ちゃんが対照的に乏しい胸を反らす。


「か、解釈が違います!」


「そうだよ、孔子ちゃん、君は間違ってる! 小さい胸だって立派に色欲の根源たりうるんだよ! ……はっ!? ということは、孔子ちゃんの胸も揉んで、じゃない、戒めていいのか……」


「だ、だめに決まってます!」


「ぐげぇ!?」


 激痛に思わず呻いてしまった。僕の神懸かった思いつきを物理的に否定するかのように、二口さんが僕の後頭部に鞄をフルスイングしたのだ。


「だ、大丈夫ですか?」


 自分で殴っておきながら心配そうな声をかけてくれる二口さん。


「……余り大丈夫じゃないです」


 痛む後頭部を押さえ、何とか答える。


「きょ、今日の所は、私の負けのようですね。貢君の調子も悪いようですし出直します」


「うむ、また来るがよろしかろう」


 どういう基準かはわからないけど、二人の間では勝敗が明確についたらしい。僕は二口さんに引き摺られるようにして丘さん宅から退却した。


「孔子ちゃん、思った以上に手強い相手でしたね。でも、次こそはぎゃふんと言わせて見せます!」


 孔子ちゃんの家の前で、アニメの中の敵キャラさながらに二口さんは力強くそう言った。


「ぎゃふんって、引きこもり脱却の手助けじゃないの?」


「もちろん、そのつもりですけど……私の見たところ、孔子ちゃんはとても頭のいい子です。一度しっかり負かせてあげないと、自分の考えは改めないと思います」


「うん、それは僕もそう思う。相手の言っていることの方が正しいと認めたら、それを受け入れる聡明さは持っていると思うよ」


「では貢君、二人で孔子ちゃんを社会復帰させるために頑張りましょう」


 二口さんは、僕の両手を固く握って瞳を潤ませながらそう言うと、颯爽と去っていた。微妙に目的がずれてきているけど、二口さんに手を握って貰えたからよしとしよう。


***


 自分の部屋に戻った僕は、とりあえず孔子ちゃんの言っていた色を戒める話を調べてみた。


『子曰く、君子に三戒あり。わかきとき、血気未だ定まらず、これを戒むるは色にあり。壮なるとき血気剛し、これを戒むるは闘にあり。老いたるとき、血気既に衰える。これを戒むるは得にあり』


 君子が年齢に応じて戒めるべき三つのものを語った言葉だ。若いときは色欲、大人になったら闘争欲、老いたら物欲、そんなところか。いつでも、どんなときでもあらゆる欲を我慢せよ、なんて無茶を言っているわけではないのが面白い。つまり、大人になったら色欲は戒めなくてもいいということだ。まぁ、若いうちだからこそ、色欲を戒めるのはかなり困難なのだろうけど。


 少なくとも、色欲を戒める気もない僕は、二口さんの胸を揉む孔子ちゃんを思い出すだけで悶々としてしまうのだった。


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