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孔子と干し肉

 孔子ちゃんの引用したこのフレーズを、当然僕は知っている。教科書にも出てくる、論語の有名な一節だ。


『吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳(したが)う。七十にして己の欲するところに従えども、のりえず』


 孔子が晩年に自分の人生を振り返って述懐した言葉で、日本語でもここから、不惑とか耳順という言葉が生まれている、というところまでが受験知識だ。


「そ、それ、意味が違うよね? 孔子が自分の過去を振り返ってそう言っただけで、十五まで勉強しなくていいとか、三十まで自立しなくていいというわけじゃないし……」


 一応控えめに、僕は反論した。


「孔子ですらそうであったのだからそれでよかろう」


 そう言って偉そうにぺったんこな胸を反らす。


「でも、孔子って2500年ほど前の人だよ? 現代とごっちゃにされても……」


「孔子の教えは現代にも通づる……そう言って、吾の父は吾にこんな名前をつけたのじゃぞ」


「い、いい名前だよね?」


 実はあまりそうは思っていなかったけど、一応社交辞令で言うと、孔子ちゃんは顔を真っ赤にして怒りだした。


「何がいい名前じゃ…… 大体、ひろこ、という読み方自体が当て字で、孔子と弘子の字面が似ているなどというどうでもいい理由で付けられた上に、普通に訓読みしたら、あなこ、じゃぞ!? あ、な、こ! 穴扱いとは女性蔑視も甚だしい!」


「あ、穴って……意味わかってる?」


 中学女子の口からはあまり聞きたくない露骨な下ネタに、僕は少しドン引きしたんだけど、僕の質問に孔子ちゃんは更に顔を赤くした。その様子からなんとなく、怒り度がアップしたというよりは、羞恥が加わったのがわかる。


「ば、ば、ばかにするな! わかっているに決まっておる!」


「じゃあ、ちゃんと説明してよ?」


 孔子ちゃんの様子がなんだか可愛くて、僕は追い討ちをかけてしまった。我ながらかなりセクハラっぽい質問だ。


「そ、それは……」


「やっぱり知らないんだ? だめだよ、知らないのに知ったかぶりしたら。『知らざるを知らずとなせ』、だよ」


 僕は少し意地悪に、中学で習った論語の一節を引いて詰ってみた。


「その、あの、母が言っていたのじゃ。吾が、あるジョークの意味がわからずそれを母に尋ねたときに、女の子を穴扱いするなんて女性蔑視だと」


 どんなジョークかは大体察しがつく。自分には息子が九人いるから野球チームができると自慢する男に、自分には娘が十八人いるからゴルフができると切り返す類のアダルトジョークだろう。


「でもなんでそんな際どいジョークの本読んでるのさ」


「吾は教科書以外なら何でも読むのじゃ!」


 孔子ちゃんが再び、無い胸を反らす。


「じゃが、確かに、汝のいう通り、『知らざるを知らずとなせ』、じゃな。これを機会にちゃんとした意味を学んでおくべきじゃろう。教えて貰いたい。女性を穴扱いするとはどういうことなのじゃ?」


 まじめな顔で素直に教えを請われてしまった。どうしよう、流石にJC相手にこんなえっちな言葉の意味を説明するのははばかられる。


「どうしたのじゃ? まさか汝も知らぬのか?」


 思わず、かなり困った顔をしてしまっていたのだろう。僕をからかうように、孔子ちゃんが意地悪な笑みを浮かべる。とんだ逆襲だ。


 知らないと思われるのもしゃくだけど、卑猥な言葉を口にするのも躊躇われ、僕はぎりぎりの表現を求めて頭をフル回転させた。


「それは、その、女の子には、保健体育的な意味で、その、穴が、あるから……」


「ほ、保健体育じゃと!? なんと卑猥な……」


 孔子ちゃんが大げさに後ずさる。


「いや、保健体育自体は悪くないでしょ!」


 言いながらも、とりあえず納得してくれたようで僕は安心した。


「ともあれ、汝がそれなりに誠実な人間であることは分かった。名を聞いておこうか」


 何やら試されていたらしい。


「端木 貢だよ」


 言って、僕は学生証を見せた。この辺りに住む人なら誰でも知っている名門進学校、春秋高校の学生証だ。


「ふむ。子貢しこうを思わせる良い名じゃな。孔子に子貢なら、ぴったりじゃ」


 孔子ちゃんは学生証ではなく名前の方を誉めてくれた。


「しこう?  ぴったりなの?」


 意味がわからず、僕は問い直した。


「然様。貢の上に子をつけて、子貢じゃ」


「なんで子をつけるのさ? 僕は男だよ?」


「別に、子は女のものとは限るまい。孔子も老子も孟子も荀子もみんな男じゃぞ」


「み、みんな昔の中国人じゃないか!」


「では、小野妹子」


「それは日本人だけど、少なくとも今風の名前じゃないよね」


「子を付けたくらいで不満を口にするなど贅沢な。吾など、あな子じゃぞ、あな子。もっとも、吾は十五になれば家庭裁判所に改名を申請するつもりじゃが」


「なんて名前にするのさ?」


「無論、君子(きみこ)じゃ。きみ子危うきに近寄らず!」


「いや、それ、きみこ、じゃなくて、くんし、だから」


 思わず突っ込んでしまったけど、孔子ちゃんはきょとんとした顔をしている。


「孔子が理想とする立派な人のことだよね? きみこ、じゃなくて、くんしって読むんだよ。くんし危うきに近寄らず」


「読み方など知らぬ。そもそも日本語で読み下している時点で原文の読み方を無視しているのじゃから細かい読みに拘るなど無意味。きみ子で十分じゃ」


 君子は既に日本語の名詞になっているんだから、勝手な読み方をすると意味が通じないけど、拗ねてそっぽを向いている孔子ちゃんに僕はそれ以上なにも言えなかった。まぁ、確かに、当て字で孔子をひろ子と読ませるよりは、君子と書いてきみ子の方がいい名前かも知れない。


「それにしても、論語に詳しいんだね。『吾十有五にして』、とか、『君子危うきに近寄らず』とか」


 とりあえず機嫌をとろうとして褒めてみる。


「何を言っておるのじゃ?  きみ子危うきに近寄らず、は孔子の言葉ではないぞ」


「え? そうなの? てっきり孔子の言葉だと思ってたんだけど」


 特に根拠はなかったけど、君子、という言葉が出てきたら大抵は論語由来、というのが浅学な僕の認識だ。


「少なくとも、論語には出てこぬ」


 孔子ちゃんは断言した。不存在を断言できるということは、論語をしっかりと全て読んだということだ。僕には教科書に載っている程度しか論語の知識がないけれど、確かかなりの分量のはずだ。


「論語、全部読んだんだ?」


「汝は読んでおらぬのか?」


「教科書に載っている言葉をいくつか暗記させられただけだね」


「では、汝にこれをやろう。吾にはもう必要ないゆえ」


 そう言って、孔子ちゃんは部屋の本棚から一冊の本を取り、手渡してくれた。それは注釈つきの論語だった。どうやら、孔子ちゃんの奇怪な言動の多くは論語に基づいているようだし、彼女を知るためには読んでおくべきだろう。自分のための漢文の勉強としても悪いことじゃない。


「じゃあ、ありがたく貰っておくけど、本当にいいの?」


「よい。吾は神童ゆえ、十四で論語をそらんじておるのじゃ」


 そう言って孔子ちゃんは三度、ささやか過ぎる胸を反らせた。


「これ全部、暗記してるの!?」


 一冊だけとは言え、かなり分厚い本だ。軽くめくってみると、文字がぎっしり詰まっており、原文もしっかり載っている。


「二十篇四百九十九節の読み下し文だけじゃ。注記や解説は覚えておらぬし、原文も無視しておるからそう大した量ではない」


 孔子ちゃんはそう言ったけど、それでも言うほど簡単なものではないだろう。教科書に出てきた二、三の読み下し文を覚えるだけでも苦労したのに、それを四百九十九も暗記するとなると気が遠くなる。神童というのもあながち誇張ではないのではないか。


「では、次に来るときまでにできるだけ読んでおくように。あと、干し肉を一束、忘れるでないぞ」


「読んでおくのは別にいいけど、干し肉ってなにさ」


「うむ。『子曰く、束しゅうを行うより以上は、吾未だかつて教うることなくばあらず』という奴じゃ」


「そくしゅう? どういう意味??」


「つまり、孔子は干し肉を持ってきたら誰にでも教えてやった、ということじゃ」


「孔子って、教えるのに干し肉取ったんだ?」


 聖人君子の代名詞的存在の孔子が、人に教えるのに干し肉を要求していたというのは少し意外だ。


「人はパンのみにて生くるにあらず、という奴じゃな。時には肉も必要じゃ。ともあれ、忘れないように」


 教えるのは僕なんだけどな、と思いながらも僕はうやむやに笑って孔子ちゃんの部屋を出た。


「いかがでしたか、先生?」


 居間まで降りてきた僕に、弘美さんが心配そうに話し掛けてきた。


「すみません、もう来るな、とは言われませんでしたけど、勉強しては貰えなかったです」


「そうですか……少し待ってくださいね」


 そう言って、弘美さんは階段を上がっていった。


数分後戻ってきた弘美さんは嬉しそうに微笑みながら僕の手を取った。


「先生、ありがとうございます。孔子ったら、先生のこと気に入ったみたいです。また、来ていただけますか?」


「えぇ、それは勿論構いませんけど……」


 僕は言葉を濁した。可愛い孔子ちゃんと喋るのはなかなか楽しいけど、勉強してもらう自信はないし、バイトという本来の目的が果たせないからだ。


そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、弘美さんは財布を取りだし、中から500円玉を取り出した。


「勉強していない場合は、お約束の授業料は払えませんけど、これでよろしいですか?」


「え、そんな、悪いです!」


 物欲しそうな顔に見られたなら恥ずかしいことこの上ない。僕は慌てて辞退した。


「いえ、悪いのはこちらの方ですから、せめて気持ちだけでも」


 そう言って、弘美さんは僕の手をとって500円玉を握らせてくれた。


「ありがとうございます」


 このお金で、次は干し肉を買って来ようと考えながら、僕は孔子ちゃんの家を出た。


 家に帰った僕は、孔子ちゃんに貰った論語を何気なく開いた。分厚く、可愛い挿絵もなく、文字だけがぎっしりと詰まった本だ。全然読む気にならない。ただ、孔子ちゃんが最後に言った、干し肉がどうこうという話が気になったから、僕は干し肉という言葉にだけ注意して本をめくってみた。


「お、見付けた」


『子曰く、束しゅうを行うより以上は、吾未だかつおしふることなくばあらず』


 確かに、束しゅうは干し肉が束になったもののことで、それを持ってきたら教えないことはなかった、という、意味なんだけど……。


 注釈によれば、古代中国では人に教えを乞う際には贈り物をするのが礼儀で、中でも干し肉は許される最低限の贈り物だったそうだ。つまり、孔子は最低限の礼儀さえわきまえていれば誰でも弟子にした、ということで、別に干し肉が欲しかったわけではないらしい。


「孔子ちゃん、解釈間違ってるやん……」


 僕はなんとなく可笑しくなった。『吾、十有五にして』、もそうだったけど、偉そうに論語を語る孔子ちゃんは、まさしく、『論語読みの論語知らず』なのだ。自分の名前に負けじと、意味もわからず必死で論語を暗唱したのだろう。そんな孔子ちゃんは、とても健気で可愛いと思った。


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