由宇との取引
孔子ちゃんに会えなくなって、敢えなく数日が過ぎた。平日は、まだ授業を受けているだけでなんとか一日が終わってくれたけれど土曜日(今週は土曜日も休みだ)になると、いらいらがピークに達してきた。午前中に宿題を終わらせようと机に座るも、なかなか進まない。問題が難しい訳じゃない。単に集中できないのだ。理由は明らかだ。孔子ちゃんに会えない禁断症状だった。
先週の月曜日から土曜日まで、一日と欠かさず孔子ちゃんの部屋に通っていたというのが、最早信じられないほど遠い昔のことに感じられる。その後、今日までの六日間会えていないわけで……。
しかし、よくよく考えてみると、孔子ちゃんに会う本来の目的はバイトだったはずだ。一応、弘美さんから一日五百円の寸志は出ていたものの、孔子ちゃんの家庭教師を続けたのではいつまで経っても投資のための種銭が貯まらないだろう。
お金を貯めたいという本来の目的からすれば、孔子ちゃんにこだわる意味は全くない。他のバイトを探すべきだ……そう自分に言い聞かせようとした時、先日の孔子ちゃんの、と言うか孔子の言葉が頭に浮かんだ。
『子曰く、富にして求むべくば、執鞭の士といえども吾また之を為さん。もし求むべからずば、吾が好む所に従はん』
吾が好む所……。
「……お金よりも、孔子ちゃんに会いたいな……」
あまり認めたくはなかった言葉が口からでて、僕は溜め息をついた。
僕は今まで、自分は二口さんが好きなのだと思っていた。勿論、今でも二口さんのことを嫌いになったわけではない。孔子ちゃんと出会ってから二口さんとも、ぐっと仲良くなれて嬉しいと思っているし、できればもっと仲良くなりたいとも思っている。
だけど、今の僕は二口さんのことを考えても、孔子ちゃんのことを考えるときのような、どこか苦しいような気持ちにはならない。二口さんは相変わらずの高嶺の華で、自分が二口さんと付き合うなんてとても想像できないのだ。僕にとって、二口さんは単なる憧れの人で、アイドルか何かと変わらないのかも知れない。
僕は孔子ちゃんを好きなのだろうか? 少なくとも、惹かれてはいるだろう。それは、家庭教師を勤めた、たった一週間の間に見せつけられた孔子ちゃんの個性のせいだと思う。
正直、僕の人生のなかで、一人の女の子とこれだけたくさん話をした経験はない(由宇を除く)。そのことが影響している可能性も否定できないところだ。でも孔子ちゃんの言葉で翻弄されたいという、あまり公言できないような欲求の正体は、恋と言うのが一番近いような気がするのだ。
しかしながら、その気持ちを認めるには大きな問題がある。孔子ちゃんは一応、元とは言え、教え子だ。しかも、まだ中学生だ。そして、引きこもりだけど、それが欠点とは言えないほどの美少女だ。絶世の、と言っても過言でないかも知れない。客観的には、冴えない僕とは釣り合わないという点で、二口さんとそう変わるものではないだろう。それが二口さんよりも身近で、手が届きそうに感じるのは、一週間毎日相手をしてもらったことに起因する純然たる勘違いに違いない。
「はぁ……」
そこまで考えて、僕は暗鬱な気分になって深い溜め息を吐き出した。
「どうしたの? お兄、そんな溜め息吐いて」
「うお、由宇!? お前何で僕の部屋にいるんだよ!?」
「マンガ借りに来たに決まってるでしょ」
「……どこから聞いてた?」
「え? 孔子ちゃんに会いたいよー、くらいからしか聞いてないよ?」
「!!」
まさか。聞かれていたとは……。
「てか、お兄、あんな変人がいいんだ? ロリコンなのは知ってたけど、趣味悪くない?」
由宇がずけずけと言う。常の僕なら、この程度の攻撃、軽くあしらって見せるのだが、恥ずかしい独り言を聞かれてしまったことで、僕はパニックに陥っていた。
「ろ、ろ、ロリコンとかそんなわけないだろ! ロリコンの語源となったナボコフのロリータでは、大人の男をを虜にするニンフェットが9才から14才と定義されているんだぞ! JK好きもJS好きもいっしょくたにロリコン扱いされたら迷惑なんだよ!」
「いや、あたしも孔子(あの子)も今年14だし、ばっちりその範囲に入ってるんだけど……」
「くそ、口答えするなよ! ロリで何が悪い!? 人の性癖にけちつけるなんて、人間として最低だ! それに、ペドみたいなクズよりはましだろ!」
「いや、 お兄、もう支離滅裂だよ……」
由宇がびびったかのように少し後ずさった。
「何だよ、そんな怯えた顔しやがって! いくら14だからって、妹に欲情するほど堕ちちゃいないんだよ!」
僕は、自分の言葉を証明するために、由宇のスカートをめくりあげてやった。人生初めてのスカートめくりだったけど、由宇のミニスカートの裾が、見事に美しい三次曲線を描いて波打つ。そして露になったのは……。
「くまさんパンツかよ……」
あまりの色気のなさに、僕は正気に戻ってしまった。
「勝手に見といてがっかりするなぁ!」
由宇の見事なアパカに、僕の意識は闇に落ちた。
「で、結局お兄は、あの変な子が好きなの?」
数秒ほど気を失っていたらしい僕を気遣うでもなく、由宇が問い詰めてくる。
「それは、その、だな……。って言うかそんなに変か? 孟子ちゃんと大して変わらないと思うけど」
「そりゃ孟子も大概変だけど、押し倒して聴診器でまさぐってくるくらいだし」
「それは立派に犯罪だろ!」
「なるほど、妹のスカートをめくる変質者が言うと説得力あるわね」
「あ、あれは僕がシスコンでないことを立証するためにやむなくだな……」
「はいはい、で、どうなのよ? 好きなの? 好きじゃないの?」
由宇が興味津々な様子でしつこく食いつく。
「……まぁ、その、なんだ、好きとはこういうことなのだろうかと自問自答するくらいには気になっているというかなんと言うか……よくわからん」
「ヲタクなお兄もキモいけど、乙女ちっくなお兄もやっぱりキモいわね」
僕の葛藤を、由宇はばっさりと切り捨てた。
「誰が乙女ちっくだよ!?」
言い返しながらも、男らしい悩みだとは自分でも思えない。
「まぁ、報酬次第では協力してあげなくもないけど」
由宇がにやりと邪悪な笑みを浮かべる。
「協力って?」
由宇に弱味を握られるのは危険だと、僕の本能が告げているけど、僕は問い質さずにはいられなかった。
「家庭教師を首になったら口実なくて誘いにくいんでしょ? その点、あたしなら同級生だし遊びに行っても不自然じゃないよね? 代わりに誘い出してあげてもいいよ」
「ほ、ほんとか!?」
確かに、僕が誘うのは孔子ちゃんのお父さんから禁止令が出ている可能性が高いけど、由宇ならまだノーマークかも知れない。
「報酬次第って言ってるでしょ。まぁ、ケーキ一個で手を打つよ」
「一個くらいなら、なんとか……」
「じゃあ、イスパハン一個で交渉成立ということで! お兄の名前でお取り寄せしとくね!」
「いすぱはん? 何だよ、それ」
「聞きたい? 聞きたい!? バラの風味のマカロンのケーキでね、マカロン星人の異名を取る……」
こちらが答えるよりも早く、由宇が目を輝かせて喋りはじめた。体を動かすことと、食べることが大好きな由宇は、スウィーツにも目がなく、しかも蘊蓄を語り出すと長いのだ。
「いや別に聞きたくない」
ケーキになど興味はないので、最後まで聞かずにそっけなく断る。話を遮られ由宇が機嫌悪そうに頬をふくらましたが、大事なのはそこじゃない。
「で、今から連れ出してきてくれるのか?」
土曜なら家庭教師できたのだから、孔子ちゃんのお父さんはいないはずだ。
「まぁ、別にいいけどさ。でも、正直なとこ、お兄に誘われてもあの子だって微妙だろうし、失恋してもあたしのせいにしないでよね?」
由宇がずけずけと言う。そんなことは百も承知で、なるべく考えないようにしていたのに。
「わかってるよ」
「おけ。じゃあ、誘ってきてあげる!」
由宇は勢いよく僕の部屋を出て行った。




