SMのお仕事?
論語は現代にも通じる、孔子ちゃんのその主張に、僕は素直に頷いた。
「確かに、現代にも十分通じると思うよ。でも……そろそろ『勉強』しない? そんなにいい言葉を沢山知っているのに、『勉強』しないのは勿体無いよ」
孔子ちゃんと十分に仲良くなった、そんな自惚れがあったのかも知れない。僕の口から、家庭教師としての言葉が出た。途端に、孔子ちゃんの表情が皮肉なものに変わる。
「汝の言う『勉強』とは、受験勉強のことじゃろ?」
「そうだよ。悪い? 」
「悪いというより、くだらぬな」
「そりゃ、勉強なんて面白くないし、僕だって遊んでいられるならその方がいいけどさ……」
「吾はそういうことを言っておるのではない!」
孔子ちゃんが安易に同意した僕の胸ぐらを掴み、言葉を強めた。孔子ちゃんの顔が、鼻が触れあいそうなくらい僕の顔に近づく。
「じゃ、じゃあ、どういうことなのさ?」
僕はどぎまぎしながら問い返した。
「聖徳太子は593(コックさん)、1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府、1582(イチゴパンツ)の信長さん……」
「受験では定番の語呂合わせだね」
「うむ。前の学校で習ったものじゃが、極めつけは、孔子の生没年じゃな。教師め、『孔子は中国を代表する人物なので紀元前の551(豚まん)から479(シナチク)と覚えましょう』などと抜かしやがったのじゃぞ! お陰で、前の学校での吾のあだ名は豚まんじゃ」
「それは酷い……女学生のあだ名に豚まんとか、イジメだよ」
「まぁ、吾を豚まん呼ばわりした輩には相応の報いをくれてやったがな。あ奴も『子曰く、己の欲せざるところ、人に施すことなかれ』、という言葉の意味を、身をもって理解したことじゃろう」
「思い知らせたんだったら、それはむしろ、『目には目を、歯には歯を』じゃないの?」
孔子ちゃんによる報復なんて、かなり恐そうだ。あまり詳しい話は聞きたくない気がする。
「やられて初めて、『己の欲せざるところ』が何なのか理解できるのじゃから、あながち間違ってもおらぬじゃろ。それより、貢殿は、『目には目を歯には歯を』を目をやられたら目をやり返せ、歯をやられたら歯をやり返せ、という意味で使ったな?」
「もちろん。出典はハンムラビ法典で、典型的な復讐法だよね」
「見事なラベル付けじゃな。しかし、その言葉の真意は、他人の目を傷付けた罪は、自らの目をもって償いなさい、という意味であったそうじゃぞ」
「えっ、そうなの?」
「流石に、原典を読んだわけではないから正しい意味は知らぬが、少なくともそのような解釈もあるようじゃな。ものの本に依れば、隣人を愛し、『右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい』などとマゾヒスティックな教えを説いたキリスト教の流行で、意味が歪められて伝えられた、とも。ともあれ、『ハンムラビ法典、目には目を歯には歯を、復讐法』とただ記憶して何になるのか。その背景にある事実や思想や文化を理解して自ら考えねば意味はあるまい。『学びて思わざれば則ちあやうし』という奴じゃ」
孔子ちゃんが正論を吐く。理解はできるけど、受験生にとっては空虚な絵空事だ。
「でも、受験知識の全てについて、その意味まで考えるなんて不可能だよ? 年号にしたって、それ自体は意味のない数字の羅列なんだし、語呂合わせしてでも覚えないとテストに対応できないんだし」
「そのような受験中心の考え方が最早古くさいと言うのじゃ。記録媒体が紙しかなく、書物から得た知識を脳に記憶してすぐに引き出せるようにしておくことに重きが置かれた時代ならいざ知らず、インターネットとモバイルコンピュータの発達した今日、そうした記憶のための記憶に時間と労力を費やすことは不毛じゃと思わんか? 機械にでもでき、かつ機械の方が遥かに有能な、『記憶』という能力で競い合うなど愚かしい。そんな古臭いお勉強はやめて、人間にしかできぬ、考える力を磨くべきじゃろう」
紀元前の教えを振りかざす孔子ちゃんに、ここ数十年の考え方を古くさいと言われてしまった。そのことの滑稽さは置くとしても、はっきり言って居心地が悪い。僕だって、別に受験勉強は素晴らしいと手放しで礼讚しているわけではないのだ。近年、孔子ちゃんのような考え方が広まってきて、詰め込み型の学校教育を批判する意見が多いのも知っている。だけど……。
「受験勉強ってバカにするけど、これができないと将来ろくな仕事に就けないんだよ? 」
「ろくでもない仕事があるような口振りじゃな。職業に貴賤なし、と言うが?」
孔子ちゃんが挑むような目で僕を見る。
「そんなの、社会的強者が語る単なる建前だよ」
切り捨てるように断言したけど、孔子ちゃんの挑発的な目は変わらない。
「ふむ、本音のところでは貴賤がある、そう言うのじゃな?」
「そうさ。どんなに綺麗事を言ったって、世の中には、汚くてきつくて薄給で、体か心を壊すまで働かされるような酷い仕事が実際にある。肉体的にはそれほど辛くなくても、上司や先輩から精神的に追い詰められるような職場だってある。そして、会社にとって都合が悪くなると首を切られて……失業者とかニートとかメンヘラとか社会の最底辺にいるかのようにカテゴライズされてしまう。少しでもいい職についたり、辞めさせられたときに次の職をみつけるために、受験勉強で得られる学歴は有用なんだ。働かなくてすむくらいお金があるならいいかも知れないけど……そうでないなら、働かないと、生きていけないんだよ」
僕はほぼ一息に吐き出した。正直に世の中の暗部を指摘すれば、聡明な孔子ちゃんは理解してくれる、そう思ったのだ。
「汝の言い分は解った。一面では、それは真理なのじゃろうな」
解ったと言いながらも、孔子ちゃんの挑発的な目へ変わっていない。僕は少しイラついた。
「しかし、そもそも、汝は誰のために学んでおるのじゃ?」
「そりゃ、勿論自分のためだよ」
孔子ちゃんが何を言いたいのか、僕には理解できなかった。
「勉強せずに後悔するのは自分なんだから、自分のために勉強しているに決まっているじゃないか!」
「本当にそうか? 吾には到底、そうは思えぬ……。『子曰く、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす』」
「なんだよ、その言葉……意味が、解らないよ」
もちろん、言葉の表面的な意味はわかる。誰のために勉強するのか、孔子が『今』と『昔』を比較しているのだろう。孔子が古と言うからには、孔子の時代よりも更に昔の話であるはずだけど、問題は、己のためにする、の意味だ。懐古趣味に昔が良かったと言うなら、孔子の時代の『今』の人間がしていたという『人のための学問』は、ダメな学問のはずだ。
「汝のしている勉強、それは、他人に見せるためのものではないのか? 実を伴わない上辺だけの知識の暗記が自分のための学問なのか? 日銭を稼ぐことのできる地位を得るために、テストへの回答という形で他人に見せるために暗記することが学ぶことなのか? そして、それをできない者、或いはその価値を共有しないものを見下すことが『学んだ』者のすることなのか? 」
孔子ちゃんの言葉で、先の孔子の言葉の意味は解った。自分のための学問、それは自分の人格を高めるための学問で、他人のための学問は試験や昇進の目的のために、判定者という他人に見せるための学問という程度の意味なのだろう。この解釈が正しいなら、人間は2500年前から何一つ変わっていないとすら言えるのではないか。
しかし僕は、孔子の言葉の普遍性に驚きつつも、納得はできなかった。
「でも、そんなことを言ったって、人格だけいくら高めても食べていけないじゃないか!」
「今日日、食べるだけならどうとでもなると思うが? 吾は、職業に貴賤なしという言葉は、珍しく真理であると思っておる。職業には貴賤はない。あるのは人の心の貴賤のみじゃ」
どんな職業も、みんなが暮らしていくためには必要だ。辛い、汚ない仕事、薄給の仕事を誰もしなくなったら、みんなの生活は成り行かなくなる……。そういう仕事を卑しい仕事だと、言う人こそが卑しいのだ……。道徳の授業で聞くような、大上段からの綺麗事だ。孔子ちゃんは暗に言っているのだ。卑しいのはお前だ、と。
「でも僕は、ブラック企業にすり潰されるのも、お金がなくて惨めな思いをするのも嫌なんだよ! それは悪いことなのか!?」
欠乏への恐怖……それ自体は誰にでもあるだろう。典型的な恐怖心だし、特に恥じる必要はないのかも知れない。でも、その、人の根元的な恐怖と隣り合わせの、僕の心の中にある浅ましさまでえぐり出された気がして、僕は叫んでいた。
人に見せたくない汚ない部分をぶちまけた僕に、孔子ちゃんは意外にも優しく微笑んだ。
「別に悪いとは思わぬ。金があるのはいいことじゃ。じゃが、吾にはそれだけに心を囚われる人生が楽しいとは思えぬ。貢殿はそうは思わぬか?」
「それは、そうだけど……」
こんな風に優しい瞳で見つめられると、これ以上ひねくれた答えを返すのが躊躇われて、僕は言葉を濁した。
「論語にはこんな言葉がある。『子曰く、富にして求むべくば、しつべんの士といえども吾また之を為さん。もし求むべからずば、吾が好む所に従はん』」
正確な意味はわからないけれど、言いたいことは、わかる。金を儲けようと頑張ったって、金持ちになれるとは限らない。それなら、金に心を囚われることなく、好きなことをしよう、そういうことなのだろう。言いたいことはわかるが、あまりに無責任な綺麗事だ。
「でも、好きな道を行って、一度でも失敗したら、今の日本で敗者が復活するのはすごく難しいんだよ?」
「他の国に比べれば、日本はまだましじゃろう。生活保護もあるしな」
がっくし。僕は大袈裟にこけてしまった。途中までは、なんかいい話だと思ったのに!
「かっこいいこと言って、結局行き着く先は『なまぽ』なの!?」
白眼で睨んだ僕の視線を、孔子ちゃんは涼しい顔で受け流した。
「うむ。別に問題はなかろう。生存権は国民の権利、生活保護は、最後のセイフティネットじゃからな」
孔子ちゃんはもっともらしいことを言って鷹揚に頷いた。
「否定はしないけど、それこそ敗者の典型じゃない?」
「別にルールがあるわけでなし、勝った負けたという問題でもあるまい。要は自分が人生を楽めるかどうかじゃ」
「だけど、若いうちから自分で努力をせずになまぽを当てにするなんて……」
「ふむ、貢殿は心配性じゃな。吾が努力をせぬなどと、何故決めつけるのじゃ? 『子曰く、後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや』」
「どういうこと?」
「後から生まれた者は自分を越えるかも知れないから怖れるべきだ、という意味じゃ。つまりじゃ、貢殿よ、吾の可能性に怖れおののけ!」
孔子ちゃんが、微塵の可能性も感じられない平らかな胸を反らして、僕に指先を突きつけた。
「いや、まぁ確かに孔子ちゃんは僕より若いけどさ。僕だってまだ十六だよ?」
「甘いな。後から生まれただけで大きな顔ができるのがこの言葉の良いところじゃ。歳上というだけで能力がなくても偉くなる年功序列制度の崩壊を予言しておるようではないか」
毒気を抜かれた僕には、もはや言い返す気力もなかった。適当に話題を変えることにした。
「そう言えば、さっき言ってた『しつべんの士』ってなに? 」
「良くは知らぬが、漢字からすると鞭に関係する職じゃな。鞭を打つ仕事なのか打たれる仕事なのか……。まぁ、SMクラブのようなものと思っておけば良かろう」
「流石にそれはないでしょ! そんな孔子、嫌すぎる……」
半裸で怪しげな仮面を被って膝をつき、悦んで鞭を受ける老人を想像してしまって、僕は激しく頭を振った。
「嫌な仕事だからこそ、この文脈で例えになるのじゃろ? それに日本では、SMバーは政治家が打ち合わせに使ったりする格式高いものらしいぞ。まぁ、些末なこと些末なこと」
最近あった政治家の不祥事を例に出して、一件落着とばかりに笑う孔子ちゃんに、僕は何も言えなかった。
***
自分の部屋に戻った僕は、言い負かされたことに何となく納得できず、論語を開いた。
「お、これだ」
『子曰く、富にして求むべくば、執鞭の士といえども吾亦之を為さん。如し求むべからずば、吾が好む所に従はん』
執鞭の士……気付かなかったけど、鞭打ち役人のことで、注釈によれば卑しい職の代名詞のようだ。つまり、この言葉は、もし金が望むだけ貰えるならどんなに卑しい職にでもつこう、しかし現実にはそうでないのだから、好きなことをしよう、そんな感じの意味になる。
要するに、孔子は、職業に貴賤があると思っていたらしい! 孔子ちゃんめ、もっともらしい正論をぶっておきながら、本家が職差別主義者だったとはあんまりだ……。そんな風に思いながらも、僕は、あのときの孔子ちゃんの優しい顔を思い出して、なんとなく暖かい気持ちになっていた。




