波紋を踏む
2.千原玲の場合
その日、千原玲はイライラしていた。朝から母親と成績のことで口論になり、電車は人身事故で遅延し、よりによって苦手な授業で抜き打ちテストがあった。所属する放送部でもうまくいかなかった。そんなことか、と人によっては思うようなことも、すぐに腹が立って当たってしまう。そうしたイライラは玲の中でコップに少しずつたまっていく。余裕がないことは玲もわかっていた。それでもどうにもできない。
だから、放課後に部活を早々に切り上げて帰ろうとした矢先に自分を訪ねてきた先輩二人を見て、そしてその用件を聞いて、コップのぎりぎりまで注がれたイライラはついに溢れた。たった一滴でさえも、今日に限っては抑えられなかった。
腹が立つ。イライラする。何もかも、うまくいかない。
〇
「――……で? 俺に、何の用だって?」
「いや、あの、だから……その……」
目の前の女はびくびくとして、連れの男の背中に隠れるようにしてこちらの様子を伺う。リボンの色は水色だった。つまるところどうやら来客は一つ上の学年、高一のようだ。
だからといって敬語を使う気にもなれない。目の前の女のような、おどおどしてはっきりと物を言わないやつは嫌いだった。
「……君、千原玲だろ。放送部をメインにはしているみたいだけど一応文芸部にも所属の」
連れの男が引き継ぐようにして前に出た。こいつは見覚えがある。そうだ、文芸部の先輩だ。ほとんど話したことはないが。中学受験をして今の学校に入って以来、玲は最初こそ文芸部にも顔を出していたのだが、今ではすっかり放送部メインとなってしまっていた。
というのも文芸部には決まった活動がないのだ。それに対して放送部は色々と活動がある。年に何回かの番組発表会のために、日ごろから発声練習に励み、脚本を書いたりDJ
のネタを探したり何かと忙しい。もっとも玲は基本的に裏方にまわることが多く、ほとんど発声練習には参加しないが。
「千原。君に少し頼みがある」
「はぁ? 頼み?」
「俺たちは文芸部の存続のために文化祭で部誌を配布することになった」
「部誌?」
「君にも参加をしてもらいたい」
「断る。俺は今忙しいんだ」
本当のところ、興味が全くないというわけではなかった。今でも放送部では主に脚本を書いて貢献している。脚本と小説ではまた違うのだろうが、創作活動にはもともと関心があった。それでも、と玲はかぶりを振る。今はとてもではないが文芸部に首を突っ込んでいる余裕などない。ただでさえ自分のことでも手一杯なのに、これ以上余計な頭痛の種は増やしたくない。
「あ、あの!」
「……あんた、誰?」
「ご、ごめんなさい……! 私、綾崎です。綾崎、栞」
栞におどおどととした態度で目の前の敵――、すなわち自分を見つめられる。
「お忙しいのはわかっているんです。で、でも、どうしてもあなたの力が必要で……」
「……無理だって言ってんだろ」
にべもなく突っぱねると、栞はしゅんとしてうなだれてしまった。
罪悪感にも似た何かが芽生えそうになるのを感じ取り、玲はそっぽを向く。そうして、わざとらしく時間を確認すると、かばんをひっつかんで退出した。
廊下を早足で歩くと途中で誰かとぶつかった。苛立ちがつのり、舌打ちする。相手はそんな玲のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、咄嗟に謝って逃げるように走っていく。
家に帰りたくはなかった。どうせまた母親と口論になる。むしゃくしゃする。
破壊衝動にかられたが、そんなことをしたところで一ミリも気が晴れないことを玲は知っていた。理性が警告音を鳴らしている。
さっきまで雨が降っていたらしい。あちこちで水たまりができていた。校門近くに立っている大木の葉から白露が滑り落ちて、真下の水たまりにダイブする。雫が飛び跳ねて大きく波紋を広げる。
玲はその水たまりをばしゃんと踏みつけるようにして歩いた。自分の苛立ちをぶつけるように。




