私立青葉学園文芸部の受難
「今後何か有意義であると認められる活動が見られない限り、文芸部は廃部とする」
それは、突然の襲来。そして爆発。まるで隕石が何の前触れもなく降ってきて、目の前に落ちたかのような。そんな衝撃。
日常を壊すその一言に、綾崎栞はただただ茫然とするほかなかった。
1.綾崎栞の場合
高校生になって初めての夏休みも、これといって特別なことが起こるわけでもなく、ただただ平坦に淡々と四十日間を過ごして終わった。
新学期の朝、まだまだ暑さの残る中。しばらく袖を通していなかった制服を身に包み、私は静かで生活感のない家を出る。父は仕事で海外にいるし、母は早朝からの仕事に入っているため、あまり顔を合わせることはない。
電車を待ち列をなす人たちに加わる。ほとんどの人がスマホに目を落としている。ネットで情報を得たり、ゲームをしたり、最近の科学技術の進歩はすごい。別にそれに抗うわけでもないのだけれど、私はカバンからスマホではなく文庫本を取り出す。
ゲームのことは分からないし、連絡をとる友達も大していないからね。なんて、自虐的に考えてしまうのはいつもの癖。そしてもう一つ、私には誰にも言えない特殊な「癖」があった。電車がゆっくりとホームに入ってくる。列を作っていた人々が我先に乗り込もうとする。始発の電車で座り少しでも足りない睡眠を確保しようと必死なのだ。
私はそこまで座ることに執着はしていなかったのだけれど、今日は運よく空いている席を見つけることができたのでありがたく腰を下ろすことにする。閉じていた本を再び開いて、私はそっと目を閉じた。
『あら。おはよう、シオリ。お久しぶりじゃない?』
「おはよう。うん、先週読んで以来だったもんね」
『ひどいわ。もっと遊びに来てもらわなくっちゃ、退屈で私、死んじゃう』
「もう。そんなこと言って、すぐに面白いこと見つけられるくせに」
今、電車がどの駅に止まっているのかを確認するために、私を目を開けた。周りはきっと私が本を読みながら眠っていると思っているのだろうが、実は違う。
私の幼い頃からの特殊な癖……それは物語の世界に入り込んでしまうこと。それも文字通りの意味で、だ。
どんな本だってかまわない。いやいっそ本でなくたっていい。それが物語であるなら。私が行きたいと願えば、その世界に私の意識は飛ぶことができる。
初めて意識を飛ばしたとき、思わぬ未知との遭遇に大興奮した私はすぐに近くで洗濯物をたたんでいた母親に事の顛末をまくしたてた。けれど母親は笑って信じてはくれなかった。
表向きはまだ小さな自分の娘が話す姿に微笑ましく見守る素振りをみせながら、実際はその年ごろの子どもによくありがちな空想話だと決めつけていた。幼心にそれを感じ取った私は以後周りの人間に自分の特技ともいえるこの妙技を得意げに話すことを控えるようになった。
もともと内気で友達も多いとは言えなかった私がますます自分の殻に閉じこもり物語の世界に入り込むようになるのには時間がかからなかった。私が別世界にいる間、現実世界ではまるで眠っているかのように意識をなくす。母親をはじめとする周りの大人はこぞって一見すると眠ってばかりいる私を心配し、一時は病院にまで連れていかれたこともあったが、いたって健康そのものの私に何か異常がみつかるわけもなく、結局よく寝る子と結論付けられた。
ついでに言えば、私がその世界に行きたいという意思がない限り活字を読んでいても意識が飛ばされることはない。だから夜は普通に眠るし、読書をただ楽しむことだってできる。
電車のアナウンスが次の駅名を告げる。もうあと数分で自分の降りる駅に到着することに気づき、私は慌てて目を閉じた。
「ごめんね、もう次の駅で降りなきゃ。また話そうね」
『あら、もう行ってしまうの? まだお茶も飲んでないじゃない』
「またすぐ遊びに来るから、ね?」
『約束よ、シオリ。じゃあ、またね』
物語の主人公、リリの笑顔に手を振り、意識をこちらに戻す。現実の時間とは流れている時間が大抵違っていたりするので、朝の登校時に物語の世界に遊びに行くのは一種の冒険だった。下手したら乗り過ごしてしまう。
手に持っていた文庫本を鞄にしまう。もう随分と前に出版されたその本は私という持ち主によって読みこまれ、かなり古くなっていた。私はこの本の作者が紡ぐ言葉が、そしてその紡がれた言葉によって作り出された世界観がとても好きですぐにファンになったのだが、あいにく著作はこの本だけのようだった。
そして唯一の作品ももう絶版状態で、今手にしているこの本を失えば再び手に入れようとするのはかなり難しいだろう。
私は小さくため息をつく。この本は、特に私のお気に入りだった。物語の世界に入り込むなら、大抵リリのいる世界を望んだ。リリといる時間は私にとって安らぎだった。
自由で、いつも笑顔を絶やさないリリは私の憧れだった。「やってみなければわからないじゃない!」が口癖の、私とは正反対の少女。
きっと長い間あちらの世界に入り浸れば入り浸るほど、現実世界には戻ってこれなくなる。それが分かっていても、私はリリのもとへ遊びに行くことをやめることはできなかった。
駅から学校までは歩いて十分はかからない。電車から一斉に吐き出された学生たちがぞろぞろと歩いていく。校門が近づくにつれ、にわかに前を歩いていた学生たちが騒ぎ出したのがわかった。
「うっわ。最悪。今日抜き打ちかよ」
「まじで? ヤダー、メイク落とされる!」
どうやら今日は抜き打ちで校則チェックがあるらしい。校門で一人ひとり髪の色やスカートの長さを執拗に品定めでもするようにみているのは教頭先生。いつも仏頂面で生徒を馬鹿にしたような態度をとるので、生徒たちからは嫌われている。
「君、なんだね、その顔は? 化粧をしているのなら落としなさい! 今すぐにだ!」
「違いま~す。コレは絶賛恋してるからで~す」
教頭先生が目ざとく見つけて注意する。けれど注意された生徒は全く反省していない。制服のリボンの色が赤だから、三年生の先輩だ。先輩が口にした言葉に、周りで一緒に教頭先生につかまっていた生徒たちが一斉に吹きだした。
「何を馬鹿な事を言ってるんだ!」
「え~、教頭先生知らないんですかぁ? 女の子は恋すると可愛くなるんですよ?」
「いやいや。あんた『女の子』ってキャラじゃないだろ!」
「てへ。ばれた?」
「今更かわいこぶっても無駄だっつーの」
もはや教頭先生そっちのけで騒ぎ始める。その混乱に乗じてそそくさと校門を抜けようとする生徒がちらほらと現れる。
私はというと、校則違反何それ美味しいの? 状態の、校則通りのきちっとした着こなしにすっぴんという教頭先生からしたら百点満点の生徒だったので、堂々と校門を通る。
実際教頭先生も私のことをちらりと横目で見ただけで、すぐに目の前で騒いでいる生徒たちに目を向けた。
ほらね。私は地味で目立たない。先生からの反感を買うことだってない。
校舎が見えると、屋上から「祝・テニス部全国大会出場」とでかでかと書かれた横断幕が垂らされているのが見えた。どうやらウチはそこそこの強豪らしく、毎年のようにこの幕を見る。
あぁ、日常が始まる。私の、穏やかな波すら立たない日常が。
それを望んでいたのは確かなはずなのに、どうしてこんなにも心がざわざわとするのだろう。