小さな依頼
朝晩はかなり冷え込む時期になったが、日中はまだまだ暑く感じる。少しでも涼もうと開けた窓から、木の葉がひらりと侵入してきた。すぐ傍にある並木道の銀杏の葉。うっすらと黄色みがかったそれを見て、あぁもうそんな時期かと物思いにふける。
彼女がやってきたのは、そんな秋の風情を感じている時だった。
「すみません、こちら中原探偵事務所でよろしいですか?」
「ん、あぁそうです。どうぞおかけください」
来客に気付き、立ち上がってソファの方へ案内する。お茶を入れて差し出すと、ガラステーブルを挟んだ反対側に腰を下ろす。
「どうも、初めまして。私がここの責任者で中原実と申します」
名刺を渡しつつ、さっと相手の外見に目を通す。ざっくり見て40代といったところか。服装は落ち着いたもので、率直に言えばそこらで売ってそうという印象。バッグもシャネルだとかルイ・ヴィトンだとか言うわけでもない。ある意味相手しやすいというものだ。
「どうも、笹部綾子と申します」
「笹部さんですね。本日はどのようなご用件でしょう?」
尋ねながらも、頭には自然と依頼内容の候補が浮かぶ。女性が探偵事務所となると、まぁ十中八九旦那とかの浮気調査だろうと予測がつく。
まぁ今回は残りの一割の方だったが。
「……これの中身が、知りたいのです」
そう言って笹部さんは、バッグの中から箱を取り出し、テーブルの上に置いた。思わず目を見張る。
「これは……触っても?」
「ええ、どうぞ」
驚きを隠せないまま、箱を手に取って観察する。着色したかのような鮮やかな色合いで幾何学的な模様を描き出しているそれは、寄木細工と呼ばれているものだ。片手で持てるほどの大きさで、振ってみると確かに何かが入っているような音がする。だがこの箱には、蓋と呼べるようなものがない。
「寄木細工の、いわゆる秘密箱というやつですね」
「はい。その中に主人が何を隠しているのかが知りたいのです」
「ご主人の……って、勝手に開けて良いのですか?」
「構いません」
「ふむ……」
断言する笹部さん。訳ありそうだが、仕事の内容としては秘密箱を開けるというだけに過ぎない。つまりはパズルを解くだけの簡単なお仕事だ。
……簡単に解けるとは思わないが。
「依頼内容は分かりました。お引き受けいたします。さっそくやってみましょうか……因みに今日はお時間は?」
「そうですね、5時頃までは大丈夫かと」
「なら、あと3時間ほどですね」
言いながら、箱を手に取ってもう一度じっくり観察した。
秘密箱というものを開けるには、表面の板を特定の順番でずらしていく必要がある。一つ間違えれば板が動かず動かせず開けられないという事態に陥る。動かせるものを探りながらちょっとずつちょっとずつ進んでいくという感じなのだが、これが結構難しい。全くのノーヒントだというのもある。
ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら一人黙々と秘密箱を弄りまわす。数分ほど、壁にある時計の秒針の音のみが部屋に響く。その空気の重さに、自分が耐えられなかった。
「ところで、何でまたこれを私に頼んでまで開けてほしいと思ったんですか?」
「近いうちに三下り半を突きつけるつもりでいます。財産分与の話を円滑に進めるために財産を整理しようと考えまして」
「ほぉ、それはそれは……つまりはこれの中身が財産だと?」
「正確には、それに連なるもの。金庫か何かの鍵だと思ってます。それらしきものを主人の車中で見かけましたので」
「なるほどね」
話を聞き取りながら、指を動かす。僅かに蓋がずらせるようになってきているが、まだしばらくかかりそうだ。
「離婚しようと思った理由は、何なんですか?」
「愛想が尽きたの一言に尽きますね。顔を合わせれば喧嘩ばかり」
「ほぉ、それはそれは。何時頃からそのようなことに?」
「さぁ……多分最初からじゃないかしら。小中高と同じ学校でしたけど、口喧嘩ばかりしていたような気がします。腐れ縁ってやつですね」
「へぇ……そんな相手なのにご結婚されたんですか」
「そんなもんじゃないですか? 割と」
「あぁ失礼。私未婚なもんでして」
「いえ、どうせ近々別れますし」
笹部さんの愚痴を聞きながら、箱の板をずらしていく。何ミリか開けられたと思ったら詰みになってしまう。どうも最後の最後でないと中身を見ることすら敵わないようだ。
作業開始から、およそ30分。
「――あ」
思わず声が漏れた。側面の板をずらしたあと天板が動くかとやってみたら、勢いよく半分以上ずれていった。そろそろとずらしてみると、このまま抜くことができるようだ。
蓋が、開いたのだ。
「あっ、開いた。中身は!?」
「ん……どうせなら、ご自分で確かめていただいた方が良いかと」
たまたまこちら側に傾けていたのもあって、笹部さんには中身は見えていなかった。蓋を閉めて、笹部さんに差し出す。特に意味はないかもしれないが、ちょっとした演出だ。
怪訝な様子で箱を手に取る笹部さん。さっと蓋を外すと、その表情が固まった。
「……え? これ?」
「それが中身ですよ、笹部さん」
箱の中身を取り出し、笹部さんは小首を傾げる。入っていたのは、一つの消しゴム。ケースには某美少女戦士の主人公が描かれている。使った形跡が見られるが、ほとんど使ってないらしい。
「それに心当たりは?」
「こんな古いの、一体いつのだか。それこそ私が小学校とかそのくらいの……あ」
どうやら何か思いだしたらしい。軽く視線で続きを促す。
「小学生の頃、当時流行っていたこのアニメが好きで、グッズが欲しいと思ってこれを買ったんです。ただ二個セットで売られていて、一つ余分だったんですよ。それをどうしようかって思ってたら、主人が消しゴムを失くしたって言ってて、まぁ処分ついでと思ってあげたんですが……それだけのことですよ?」
「それだけのことでも、ご主人にとっては大切なものなのでしょう。好意を持つ相手から初めてもらった、とか。それだけ想い続けてくれる相手がいるというのは羨ましい限りです」
「……」
依頼料を支払うと、複雑そうな表情のまま笹部さんは帰っていった。その後彼女がどうしたのかは、私には知る由もない。