旅立ちの日
私立白鷺学園は大正2年から成る伝統あるお嬢様学校である。
とはいえ、創立当時にあった財力・権力から成る狭き門は大きく放たれ、
平成の現在においては志を高く持つ少女達を広く迎え入れている。
都心より少し離れた緑豊かなこの学園は、その広大な敷地を生徒たちのために惜しみなく提供する。
校外の存在を極限まで絶ったかのようなそこは、まさに楽園。
濃紺の制服で身を包めば、少女たちの背筋が伸びる。
一つに繋がった制服のウエストには、細い飾りベルト。
さらりと膝下まで流れるようなスカートには皺一つ、埃一つあってはならない。
首元には制服と同じ色のタイ。タイの裾には大きく一本の白い線。裏には白銀の筆記体で持ち主の名前が刺繍されている。
リボンタイかネクタイかを選ぶのが、乙女たちにとって学園生活を始める儀式だ。
一、清く正しく美しい人であること。
一、志を高く持ち、自身の向上を惜しまぬこと。
一、学園内ではみな姉妹である。お互いに慈しみ助け合うこと。
三ヶ条を胸に楽園で過ごした乙女達が旅立つ日。
その日は開校以来、快晴でしかありえないという。
そして今日もまた、澄み渡る青空の下で乙女達は巣立ちの日を迎えた。
「卒業生入場」
千鶴にとって卒業式の司会というのは、学園生活始まって以来の大役であった。
気の早い保護者や在校生は入場時点で目じりを押さえているが、つつがなく式は進行し、祝電披露を終えれば次は在校生送辞である。
「在校生送辞。2年5組、宇都宮奏様」
凛とした表情で壇上へ上がる奏の姿に在校生卒業生、一部の保護者までもがかすかに色めき立つ。
そんな気配をひしひしと感じているはずだというのに、奏は千鶴の前を通る瞬間、千鶴の頑張りを誉めるようにかすかに微笑んで見せた。
うやうやしく頭を下げ、"送辞、"と紡ぎ始めた言葉には緊張の色など一切見えない。
「本日、晴れの日を迎えられたお姉様方・・・御卒業おめでとうございます。」
送る言葉が綴られた紙などほとんど見ていない。優しく微笑む視線は聴衆へと投げられ、その慈愛に満ちた表情に感極まり涙を拭う卒業生達は多いようだ。
「皆様の卒業式がこんなに早く来るとは、信じられないような気持ちと共に寂しさがこみあげてまいります。
皆様は私達の最上級生として、勉強やクラブ活動、生徒会活動などで、時に優しく時には厳しく、心強い先輩として私達を導いて下さいました」
入学式の日、満開の桜並木を歩きながらこの先に待つ学園生活に思いを馳せたのが昨日のことのように思い出された。
あの時着ていた真新しい制服はすっかり体に馴染んで、それが少し寂しくも思う。
上級生に憧れ、それに倣っていたのがいつの間にか下級生ができ、倣われる立場になっていた。少し気恥ずかしかったのが懐かしい。
「今、お姉様方は、胸に希望と夢を抱いてこの晴れの門出の席にいらっしゃることと思いますが、どうか、その希望と夢をたやすことなく、白鷺学園高等部で学んだことを礎に、新しい世界でもご活躍下さい」
友情を育み、勉学や部活動に励み、この日を迎えたことは誰にとっても誇らしいことであった。
だがそれと同時に、今までの一日一日をもっと貴重な物として大切に過ごせばよかったと後悔する者もいた。
だが今はただ一様に、奏の声を背景音楽に聞きながら目を伏せる。揚葉もまたその1人だった。
「たとえ幾年月経とうとも、輝かしい未来を歩まれるお姉様方のお姿は私達の誇りであり、希望・・・」
ふ、と静寂が訪れた。
心地よい声が途切れたことに気づいた揚葉はゆっくりと顔を上げる。
マイクを通して奏が浅く息を吐いた音が会場に響いた。
「・・・けれど、今は、ただ・・・」
その声はかすかに震え、壇上を見た揚葉は目を見開いた。壇上の脇で異変に気づいた千鶴はあっと声を上げそうになるのを手で押さえ、姉の姿を見つめることしかできない。
「あの桜並木で・・・もう、あなたに会えないのだと思うと・・・」
もう一度苦しそうに息を吐いた奏は、たった1人の生徒に向けて精一杯笑っていた。
入学式の日、桜並木を歩いていた奏を呼び止める声があった。振り返れば一足先に入学していた揚葉がそこにいて、“入学おめでとう”と笑ったのだ。
毎日毎朝、晴れの日も雨の日も、揚葉の声に奏は振り返った。
他の生徒に紛れていても、傘を差していても、誰かと一緒にいても、揚葉は必ず見つけてくれた。
だがもう、いつもの朝はやってこない。
「とても、寂しい」
今までの学園生活を思い出そうとすれば、まず浮かんでくるのは桜の下で笑うたった1人の人。
大粒の涙が奏から視界を奪い、頬を濡らし、胸を締め付ける。
会場はシン、と静まり返り、いつもは冷静沈着な生徒会副会長の新たな一面に多くの生徒が動揺した。
そうして誰一人動くことができなかった数秒後、カタン、とかすかなパイプ椅子の音がして壇上に小走りで駆け上がる人物がいた。
「次は答辞よね?」
「あ、はいっ」
揚葉であった。
驚く千鶴ににっこりと微笑んでまっすぐに奏の隣へと並び、ハンカチを手渡した。そしてマイクを自分の方へ向けると、まっすぐに前を見た。
これほどの人から注目を浴びても、ほんのわずかに頬の色を変える事もない。
「先生方、在校生の皆様、保護者の皆様、私たち卒業生のためにこのように厳かで、晴れやかな卒業式を挙行していただき、心より感謝いたします」
揚葉に渡されたハンカチで目尻を押さえている奏は顔を伏せたままではあるが、少し落ち着いたように見える。
「思えば入学式を迎えたあの日、新たに始まる学園生活への不安と緊張で私たちは胸がいっぱいでした」
「ですが、学業や部活動に励み、友人が増え・・・気づけば今日この日、私達の旅立ちを名残惜しんでくれる後輩もできました。こんなにも幸せな学園生活を送れたのも先生方、見守ってくださった保護者の皆様のおかげと存じます」
「在校生の皆様、どうかこれからも楽しい学園生活を送ってください。皆様は私達の誇りです」
最後の一文が予定していた答辞にはないことを千鶴と奏は知っている。
それは公の場を私的な物にしないようにとの配慮のされた、たった1人への賛辞なのだ。
揚葉の手が軽く奏の背中を押すと、ハッとした様子で奏は涙を拭い、恥ずかしそうに顔を上げた。
「卒業生答辞、高堂揚葉」
「・・・在校生送辞、宇都宮奏」
長い歴史を持つ白鷺学園高等部といえど、これほどまでの割れんばかりの拍手で満たされた卒業式は後にも先にもこの1回だけだという。
卒業式が終われば、入学式がやってくる。
季節は巡り、新しい風が吹いて、今日もまた乙女達は楽園へと足を運ぶ。
その胸に不安と期待を抱き、それがいつか誇りに変わる旅立ちの日まで。
【白鷺の乙女達】これにて完結でございます。
最終章の投稿がとんでもなく遅くなりまして、申し訳ございません。
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。




