奏と千鶴 4
「はい?」
キョトンとする千鶴に奏は一層目を細める。
「あなた、私の妹になりなさいな」
「・・・妹?」
「あら、姉妹制度のことはお母様から聞いていない?」
「いえ、あの、聞いています」
千鶴の母は白鷺学園のことを何度も娘に語っていた。夢物語のように、千鶴がうんざりした顔を見せてもやめようとはしなかった。
その中に彼女のお姉様の話があった。部活動の先輩で、人気があったり目立つような人ではなかったが、物腰の柔らかな優しい女性だったという。毎年送られてくる年賀状を母は大事に取ってある。
そんな経緯もあってか、千鶴はうろたえ始めた。
「え、で、でもあの、それ大事なものなんですよね?1人しか選んじゃいけないんですよね?」
「別に、“絶対に1人だけ”なんて、校則として決まっているわけではないのよ。でもまぁ・・・何人も手を出していたら、顰蹙を買うでしょうね」
「私のことなんて何も知らないのに、そんな・・・」
「あら、知らないからこそ良いのよ。お互いに知らない、ただの宇都宮奏と樫本千鶴としてお話をして、私はあなたが気に入ったの」
“擦り寄ってくる子は本心が見えなくて嫌だわ”と呟く。確かに千鶴は奏のことを知らない。
だが、風紀委員の反応や今の発言から“普通の子ではない”くらいは察しがつく。それでも“何も知らない同士”という部類には入るのだろうか。
「あなたは、アウェーな空間に放り出されるのが嫌なのでしょう?」
「え、あの、そう・・・ですね」
「だったら、私が守ってあげる」
そのあまりに甘美な言葉は、一瞬千鶴の頬を赤く染めた。
「たとえ何があっても、私はあなたの味方。わからないことは私が全て教えてあげる。不安なら、いつも側にいれば良いわ」
それは、御伽噺の主人公を言葉巧みに惑わせる魔女の言葉のような。それでいて、子羊を救わんとする聖母の囁きのような。いずれにせよ、憐れな少女は戸惑うことしかできない。
“さぁ、立って”と手をひかれれば、それがどんなに弱い力であっても従うしかないのだ。
「タイの形は崩さない」
千鶴のリボンタイをキュ、と締め直す。“スカートに埃はご法度”と言いながら優しくスカートを叩いてやる。“背筋を伸ばして”の言葉に、条件反射のように千鶴の背がピンと反るほどに伸びた。
「挨拶は“ごきげんよう”。言ってごらんなさい」
「え・・・っ」
今までに使ったことがない言葉に千鶴はうろたえた。今日一日で何度も耳にしたその単語は、自分が使うと途端に滑稽なものになってしまうような気がする。
それでも目の前にいる救世主は目を細めて“ほら、”と急かすのだ。
「ご・・・、ごきげんよう」
自分の口から出たはずの言葉は、どこか違和感を伴って千鶴の顔を熱くさせる。
しかし奏は笑うことも、言い直しを要求することもなく、満足そうに頷くのだ。
「それだけできれば、やっていけるわ」
「いや、あの、でも私は受験しませんから!」
やんわりと罠に嵌められたような気がして、慌てて手を胸の前で振る。
“本当に頑固ね”とため息をついて、奏は少し何か考えているような素振りを見せた。
いつの間にか、千鶴は奏の誘惑をかわすことに一生懸命になっていた。それは、誘惑に負けてしまう可能性を彼女に見せているのと同じであることに気づいていないようだ。
「・・・ねぇ、あなたが学園をとても敷居の高い所だと思っているということは、よくわかったわ。けれど、敷居が高いからこそ、純粋に憧れたことは少しも無い?」
“ありません”とは言えなかった。通学路の途中に見える白鷺学園、街中から離れて聳え立つ白い校舎はさながら白亜の城。風の便りに聞く生徒達の生活や、たまに見かける彼女達の立ち振る舞いを冗談半分で友人達と真似てみたことなど何度もある。
“普通の中学生”である千鶴にとっては、別世界のように見えていたものが急に目の前に現れては、うろたえるのが普通だろう。
「そりゃあ・・・まぁ・・・少し、は・・・」
「あなたを見つけたのはカフェの前だったわね。中には入った?」
「まさか、そんな!」
「そう。甘いものはお好きかしら?あそこのケーキ、美味しいのよ」
千鶴の瞳が少し大きくなった。
「あの、もしかして、モンブラン、ですか?」
「あらよく知っているわね。・・・あぁ、お母様?」
カフェには数量限定のモンブランがある。それは千鶴母の代にはすでにあったもので、“一生に一度は食べておくべきだ”と別店のモンブランを食べながら語っていたのを覚えている。
ケーキはモンブラン、しかも決まった店の物しか食べない母が、これほどまでに誉めるとはどんな物なのだろう。そう思ったことを今思い出した。
「美味しいわよ、モンブラン。けれど、部外者は入れないから・・・入学しないとね」
ふふっと奏が意地悪く笑う。
学園に入れば食べられる。学校行事で母が来れば、もう一度食べさせてあげることもできる。
千鶴本人も信じられなかったが、グラリと気持ちが揺れた。
そんな気持ちを見透かしたのか、奏が畳み掛ける。
「進学するにしても、就職するにしても、お見合いしようとしても、白鷺の卒業生ってなかなか箔がつくものよ?先生やお母様にも言われなかったかしら?」
「う・・・」
口すっぱく言われた。それを何度も突っぱね、呆れられた。
「綺麗な校舎。有名な制服を着て、卒業後も概ね安泰。白鷺に進学した生徒を出したあなたの学校も、お母様も、みんな幸せ。あなたが不安がっている、“馴染めないかもしれない”というのも、私がいることによって解決」
“あら?不思議ね”と奏がわざとらしく首をかしげる。
「あなたが、ここを嫌がる理由がなくなってしまったわ」
千鶴は返す言葉も見つからない。
奏が世話をしてくれるというのなら、きっとなんとかなるだろう。恥をかく前に、わからないことは一から百まで聞いてしまえばいい。
自分さえ白鷺に入学すれば、今通っている中学校に華を持たせることも、母の希望を叶えることも出来る。
だが、全てが丸く収まる結論を前にしても、足はすくむ。
「一生に一度の人生だもの。冒険してみても良いのではない?」
千鶴もわかってはいる。必要なのは、一歩踏み出してみる勇気と開き直りだ。
渋い顔で黙り込んでしまった彼女を見て、奏は浅くため息をつく。
「まぁ、お家でゆっく「本当、ですか」」
顔を真っ赤にした千鶴が、奏をじっと見つめる。
その目は、この結論を導き出したのはあなたのせいだ、とでも言いたげな恨みがましいものにも見えた。
「本当に、味方でいてくれますか?」
しかし、そんな様子も奏の目には可愛らしく映った。目を細める彼女に、千鶴は縋るように声を荒げる。
「私、バカだから、信じちゃいますよ?!」
「えぇ、信じてちょうだい」
「もし嘘だったら、みんなの前で大騒ぎしますからね!」
「好きになさいな、嘘なんてついていないから」
くすくすと笑う彼女をしばし見つめ、やがて千鶴は小さく一回、頷いた。
「わかりました。受験、します」
“あぁ、言ってしまった。”そんな思いと、何か胸にあった硬い塊がスルリと抜け落ちたような開放感があった。
「受験するだけではダメよ。受からないと」
「わかっています。気を抜かずに頑張って、必ず、ここに来ます」
決意を持って、まっすぐに自分を見る千鶴に、奏はなんとも言えない満足感のようなものを味わっていた。
「あなたに、会いに来ます」
猫の目をした少女の口角がにんまりと上がる。
「百点満点の答えだわ」




