琴美と一葉 7
生徒会室での話は他の誰にも内緒だ。
幸運なことにその翌日は休日だったため、月曜の朝にもなれば目の腫れも引き、自己申告しなければ泣いたことなどわからない。
誰かに見られていたら噂になっていたらどうしよう、と不安を抱えながら登校してみたが、何も変わらない。
綾子も他の生徒も、いつもと変わりなく琴美に“ごきげんよう”と声をかけるのだ。
ひどい有様になってしまった冊子については後で考えることにして、放課後、彼女は美術室へ向かっていた。
「ごきげんよう、先日はすみませんでした。・・・高堂様、ごきげんよう・・・」
何度も何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、時折ため息をつく。
義務ではない、願望として謝りたいのだという気持ちとは裏腹に足取りは重く、少しずつ迫ってくる美術室の扉からはドス黒い何かが漂っているようにさえ見える。
「・・・ごきげんよう」
いつものようにこちらに背を向けて絵を描いている一葉を思い浮かべながら取っ手に手をかける。
カラカラ、と扉が開いて琴美は立ち尽くした。
目の前にはただ四角い美術室が広がっていて、琴美に気づく存在など何もいない。
一葉がいないことに少しホッとした自分が恥ずかしくため息が出る。どうしようか、と美術室を眺めていたその時だった。
「あら?ごきげんよう」
ふいにかけられた声にハッとして姿勢を正す。振り返れば、いつぞや一葉の不在を伝えてきたあの3人がいた。
あれが嘘であったことなど知る由もない琴美は何の警戒もなく取り繕った。
「あ、ごきげんよう!今日はもう、皆様帰られたのね」
「やだ琴美さんったら、テスト週間に入ったでしょう?」
くすくすと笑う3人を見て、琴美は“あっ”と声を上げる。来週は定期テストだった。
ちょうど一週間前の今日からはテスト週間とされ、一部の運動部を除く部活動は半強制的に活動を自粛させられる。そして意味もなく居残りなどしていれば、風紀委員に注意されるのだ。
今日は一葉がいなくて当たり前だったのである。
「私ったらうっかりして・・・、ありがとう。皆さんはどうされたの?」
「ちょっと忘れ物を、ね」
琴美と1人が話している間、あとの2人はニコニコと笑っているだけだ。
この3人の力関係はほぼ初対面に近い琴美にもすぐにわかった。喋る1人に対し、あとの2人はただの腰ぎんちゃくなのであろう。
シンデレラに出てくる継母と継姉達が脳裏をよぎり、それがなぜか微笑ましい。
「それにしても・・・よほどお好きなのね、高堂様のこと」
にこやかに言われた一言に、“いえ、私は・・・”と琴美が否定しようとしたその時、取り巻きの1人がやっと口を開いた。
「あら、違うわよ。高堂様の絵を見に来ているんですもの」
「あぁ、そうだったわね。ごめんなさい琴美さん、間違えてしまったわ」
そしてまた3人でくすくすと笑う。何がおかしいのか琴美にはさっぱりわからなかったが、そこにある悪意だけはしっかりと伝わってきた。
「でも尊敬しちゃうわ。私達も高堂様に親しくしていただきたいけれど・・・あの方、取り付く島もないのですもの」
「やっぱり琴美さんみたいに行動力がないと無理なのかしら」
「琴美さんはすごいと思うわ。だって居残りしていらっしゃるところにしょっちゅうでしょう?」
「普通はちょっと、ねぇ?ご迷惑じゃないかとか遠慮をしてしまうから」
琴美は、まるでお芝居を見ているようだった。乙女達の楽園にいるはずなのに、ドロドロとした黒いものに覆われてしまったような気さえした。
どう反応していいかもわからず立ちすくむしかない彼女を、お喋りな1人が品定めをするように見る。
「ねぇ、教えてくださらない?高堂様に、どうやって取り入ったの?」
「私は、そんな・・・」
「やだ、失礼よ。取り入っただなんて・・・」
「あ、ごめんなさい。違うのよ、琴美さん」
取り巻きからの指摘に、少し焦ったような泣きそうな表情を見せて、またうっすらと笑う。
「本当にごめんなさい。誤解しないでね?悪気はないの。私、言葉を選ぶのが下手みたいで・・・」
「・・・いえ、別に。気にしていないから」
苦笑いで答える琴美に被せるように“ただ、ね”と言葉を続ける。
見えない手で琴美を押さえつけようとしているような、そんな威圧感になんと返したらいいのかわからない。
「ほら、なんというか・・・琴美さん、見た目もお家も普通の方でしょう?高堂様とご一緒していて、恥ずかしくなったりしないのかしら、って」
彼女達は一葉のことが好きで、自分のことが邪魔なのだろう。もしかしたら美術部にも、彼女目的で入ったのかもしれない。加えて、彼女達は美しい。お喋りな彼女は一際美しく見える。これもまた、一葉に近づきたいが為の努力だとしたら、降って沸いた自分の存在が疎ましいのも当たり前だ。
「あぁ、嫌な気持ちにさせていたらごめんなさい?そんなつもりではないのよ。本当に私、話すのが下手で・・・」
ふぅとため息をつく彼女に、何か返そうとしたが言葉が出てこない。
喉の奥が張り付いてしまったように息苦しく、足元が心もとない。初めて向けられた明確な悪意というものは、こんなにも苦しいものなのかと琴美は初めて知った。
とその時、カタッと救いの音がした。
「まぁ、恐ろしいこと」
それは美術室の中からだった。淡々とした声に4人の表情がサッと変わり、一斉に中へ振り返る。
普段は準備室にしまってあるイーゼルを1つ、美術室へ運び出している一葉が、ごくごく当たり前のようにそこにいた。
よく見てみてば、そのイーゼルの隣にはまたもう1つのイーゼル。琴美が中を覗いた時には無かったものがそこにあるということは、いったい彼女はいつから中にいたのか・・・考えただけで血の気が引いた。
「え、高堂様・・・っ」
「え、うそ・・・」
慌て始めた3人の顔色が悪い。琴美が心配になるほどに顔面蒼白としている3人に対し、一葉は動じる様子もなく近づいてくる。
「あら?テスト週間というのは部室に近づくこともしてはいけなかったかしら?」
「あの、いえ、そんな・・・」
しどろもどろになっているうちに、一葉は3人と琴美の間に割り込んできた。そのまま琴美を背に隠すようにして3人と向き合うと数秒黙って彼女達を見定め、ため息をつく。
「なんて嘆かわしいことかしら。こんな小姑のようなことを言う子達が私の後輩だなんて」
憎憎しげに突きつけられた言葉に、3人がグッと息を呑んだのがわかった。お喋りだった少女にいたっては、今にも泣き出しそうである。
自分のせいで大事になってしまったと琴美が慌てて口を挟む。
「あ、あの高堂様、私は別に「あなたは黙っていなさい」」
だが、ぴしゃりと切り捨てられる。少しだけ振り向いた一葉は少し怒っているように見えた。
「私はこの子達の先輩。きちんと指導しなければいけない立場なの。あなたは黙っていなさい」
毅然と物を言う一葉は凛としていて、なんとも美しい。琴美程度の存在がその気迫に対抗できるわけもなく、“はい”と小さな声と引きつった笑顔を返すことしかできなかった。
一葉が再び3人を見れば、彼女達はぴったりと身を寄せ合い、取り巻きの1人にいたっては“ひっ”と悲鳴すら上げた。
「あなた方、この子が傷ついてしまったらどうするの?むしろ、そのつもりだったのかしら?」
「え、そ、そんなつもりでは・・・っ」
「あら、ではどんなつもりだったのか聞かせてちょうだい」
“あなたにもう近寄らないようにするために、嫌味を言いました。”などと正直に言えようか。3人はお互いにチラチラと視線を通わせ、徐々に真っ赤になっていく顔で“あの、その、”ともごもごと繰り返す。
あれほど悠長に喋っていた口が何も言えなくなってしまったのを見ると、一葉は深く深くため息をついた。眉間に寄った皺がいっそう深くなり、3人を見る目は冷たい。
「これは見ようによっては虐めよ。私から先生に報告しましょうか?」
「そんな!違うんです!!」
“虐め”の一言に3人の顔色が一変した。虐めなど起こっては学園の恥。謹慎停学など簡単に飛び越えて、待っているのは退学処分だろう。
証拠がなければそこまでいかないかもしれないが、証言するのは高堂一葉である。他の生徒たちに後ろ指をさされ、学園を追放され、親の顔に泥を塗ったと責められる。恐ろしい未来しか待っていないのだ。
「高堂様お願いします!どうか、お許しを!」
「どうしようかしら、ね」
すがる3人にそっけなく言って、一葉は琴美に視線を投げた。その視線を追って、3人も子羊のような目を彼女に向ける。発言する機会を与えられたのだと察した琴美は、引きつりながらもなんとか笑って見せた。
「えっと、私は、その・・・大丈夫ですから」
「・・・だそうよ。よかったわね」
一言発したら、もう後は蚊帳の外だ。ホッとしたような表情を向けられるのも向けるのも、自分ではない。少々納得のいかないところもあったが、文句を言えるような状況ではない。
ただただ、この場が収まることを祈るばかりだった。
「けれどあなた方、名前もクラスもわかっているのですからね」
一葉がどんな顔をしているのか、琴美からは見えない。だが、その美しい黒髪の向こうで眉間に皺を寄せ、誰もが視線を逸らすほどの眼力で3人を見ている、その顔は容易に想像できた。
「今度この子に何かしてごらんなさい。絶対に許しませんからね」
突きつけられた最後通告は、どれほど3人の心を抉っただろうか。明らかにショックを受けている彼女達を見て良い気味だとも思えず、琴美はただただ黙っていた。
一葉から帰るように促されても何かまだ言いたそうにしているが、彼女がそれを許すはずも無い。
“早く!”と一喝されると、また大きく肩を震わせて子羊達は去っていった。
“忘れ物はいいのかな”などとまるで他人事のように心配する琴美を振り返った一葉の眉間には、やはり深い皺が寄ったままだ。
「あなた、どうして言い返さないの?」
「えっと・・・」
「あんなに嫌らしい言い方をされて、どうして黙っているの」
少し苛立った様子の一葉に苦笑いして“すみません”と返す。そうして改めて一葉を見てみれば、心底呆れた様子の顔も態度も、ため息にいたるまで以前とまったく変わっていない。
避けられる様子も、なんとなくぎこちない様子もない。琴美の体に圧し掛かっていた黒いもやもやとしたものが綺麗に落ちてしまったような感覚があった。
「・・・ふふっ」
安心した途端、笑いがこみ上げてくる。一葉の表情は呆れから“気味が悪い”に変わった。
「な、何よ」
「ふふっすみません、だって・・・っこ、小姑・・・っ」
一度笑い出したらもう止まらなかった。
「小姑、なんて・・・っわ、私、初めて生で聞きましたよ・・・っあははははっ」
「な・・・っ、あのねぇ、私はあなたのために!」
「すみませ・・・っでも、でも高堂様が言ったら怖すぎますって!やだもう、あははっ」
難しい顔をして諌めようとする一葉だったが、あまりにも楽しそうに、目尻に涙が溜まるほど笑う琴美につられたのか“ふっ”と噴出してしまった。
2人揃って声を上げて笑っている姿など風紀委員に見つかれば、きっと厳重注意を受けるだろう。だがここは放課後の部活棟。水を差す者など誰も居ない。
「・・・この間は、悪かったわ」
だが、ふいに聞こえた一葉の呟くような言葉に琴美の笑いが止まった。丸くなった目で一葉を見れば、困ったようにぎこちなく微笑んでいる。
自分が謝りに来たことを思い出した琴美は慌てて頭を下げる。
「いえ、あの、私こそ・・・すみませんでした。何も考えないで、浮かれて・・・その・・・」
そして恐る恐る一葉を見る。人に謝ったり謝られたり、そういったことに慣れていないのだろうか。
浮かべている微笑はやはりどこかぎこちなく、居心地が悪そうで、しかし琴美が謝り返したことでほんの少しホッとしているようにも見えた。
どちらかがどちらかを許すわけではなく、お互いに気恥ずかしそうに微笑みあって事態の収束を感じた。




