琴美と一葉 2
“ごきげんよう”“ごきげんよう”朝の白鷺学園で少女達の声が聞こえる。
正門から校舎への長いアプローチは、学年に関係なく生徒達が挨拶を交わす交流の場である。
琴美も例に漏れず、クラスメイトや同じ委員会の上級生達と挨拶を交わしながら歩いていた。
「琴美さん、ごきげんよう!」
後ろからの声に振り返れば、同級生の柏木綾子が笑顔で手を振っていた。“ごきげんよう”と琴美も笑顔で返し、自然と2人並んで歩き出す。
2人は中等部からの友人である。外部入学で白鷺学園にやってきた綾子に琴美が声をかけたのが始まりだった。中等部時代、同じクラスになったのは1年生の時のみ。今も別のクラスになってしまっているが、その友情は変わらない。
授業の事、昨日のテレビの話。とりとめのない談笑をしながら正門へと向かう途中、綾子が“あっ”と小さく声を上げた。
何人もの生徒達がほんの少し距離を保ちながら、ほとんど挨拶もできず追い抜いていく2つの背中があった。
片方は黒くスッキリとうなじが見えるショートカット。もう1人は長い黒髪。挨拶をする勇気ある生徒に答える声は、ショートカットの方がハッキリとして明るい。
「生徒会長と、妹さんだよね」
「そうね」
少し歩みを遅め、声を落として言う友人に合わせて頷く。
ショートカットの方は一葉の実の姉、揚葉だ。後姿だけでわかる高堂姉妹の存在感は学園内で1、2を争うほどのものだ。声をかけたいが、おこがましくてかけられない。そんな生徒達がチラチラと2人を見ながらその横を通り抜けていく。
正直、琴美は平気で挨拶もできると思ったが、綾子はそうではないらしい。完全に追い抜くタイミングを失い、少し距離を保ったまま歩いている彼女に合わせることにして、琴美もそのまま歩いた。
そうこうしているうち、ふと何かのタイミングで揚葉が一葉の方へ顔を向けた。その時、視界の隅に2人が入ったのだろう、そのまま少し振り返り琴美と目が合った。
「ごきげんよう!」
挨拶は揚葉の方が早かった。笑顔で明るくハキハキと、まさに生徒会長といった雰囲気だ。琴美が笑顔で挨拶を返し、綾子もなんとかそれに倣った頃、一葉も少し振り返り淡々とした声と表情で“ごきげんよう”とだけ言った。
「ねぇ、琴美さんはまだ美術部に通っているの?」
「毎日ではないけれどね。それに部活動が終わってからだし」
下駄箱で上履きに履き替えながら綾子が切り出した。
「じゃあ、あのお姉様と2人きりってこと?」
「そうね」
ふぅん、と相槌を打つ友人に“どうかした?”と首を傾げる。すると綾子はとても言いにくそうな顔をして声を潜め、“怖くない?”と問うのだ。
「えぇ?全然!優しい方だと思うよ?」
明るく笑い飛ばしてそう言うと、まだ少し怯えているような顔で相槌を打つ。
「邪魔だとか、出て行って、とか言われたこともないし。まぁ、言われないように気をつけてはいるけれど」
「そんなに、あの方の絵が好きなの?」
「大好き。どうしてかしら・・・でも、とても好きよ」
そう言った琴美の表情はキラキラとしていて、綾子は少し安心した。
放課後、“今日も行くの?”という綾子の問いに笑顔で答えて琴美は美術室への廊下を歩いていた。
放送委員の仕事を少し手伝って時間をつぶし、ちょうどよい時間のようだ。少し離れた教室から放送開始の木琴の音が聞こえる。
そろそろあの絵も完成するだろうかと心を弾ませながら歩いていると、前方から3人の生徒がやってきた。名前は知らないが、3人とも同級生で美術部員であることは知っている。
こうして通っていれば時折すれ違うこともあるので、挨拶だけは何度か交わしたことがあった。
“ごきげんよう”とお互いに挨拶をしてすれ違う、と思いきや行く手を阻むように1人がわずかに手を差し出してきた。
驚いた琴美が立ち止まると、3人ともがとても愛想の良い笑顔を浮かべ、手を出してきた生徒が言った。
「美術室に行かれるのよね、高堂様に会いに」
唐突だが、間違ってはいない。しかし厳密に言えば、絵を見せてもらいに行くのだと訂正しようとした。だが相手は聞く気がないらしく好きに続ける。
「けれど、今日はいらっしゃっていないのよ」
「え、そうなの?」
「なんでも、生徒会のお手伝いがあるとか。それでお休みなの」
実の姉がいる生徒会の手伝い、おかしな話ではない。先日一葉も言っていた姉妹校との交流会の準備で忙しいのだろう。
琴美は納得し頷くと、にっこりと笑った。
「教えてくれてありがとう。今日は帰ることにするわ」
「その方がいいわね」
3人もまたにっこりと笑って“ごきげんよう”と去っていった。
とはいえ、行く方向は同じだ。しかし並んで歩くのもなんとなく気まずい。行くはずだった先を見れば、まだ遠い美術室の扉。
その向こうで本当は一葉が筆を走らせていることなど知る由も無いまま、綾子とカフェにでも行けばよかったとため息をつき、3人の後をついていくようにして琴美はその場を後にした。
せっかくだから図書館に寄ろう、軽い気持ちで立ち寄って気がつけば1時間が経っていた。外は夕焼けで染まり、正門の前まで来ると生徒は1人もいない。
特に急ぐこともなく、なんとなく空を見上げると“そこのあなた!”と後ろから声が飛んできた。
振り返った琴美が見たのは、何とも豪華な3人組だった。
笑顔で向かってくる生徒会長と、その一歩後ろから副会長の2年生、そして書記会計の1年生。
高等部のトップ3といえようこの3人は、いつも一緒にいるようでなかなか揃っているところは見られない。
“レアだわ”などと思いながら琴美は少し会釈をする。
「あなた、及川さんでしょう?朝は気づかなくてごめんなさいね」
生徒会長、揚葉はにっこりと笑うが2人にはちゃんとした面識は無い。彼女の口元に黒子があることも初めて知ったくらいだ。
しかし副会長と共に控えている書記会計の1年生、彼女とは面識がある。きっと彼女が教えたのだろうとそちらに目をやると、肯定するようににこっと笑っていた。
「妹が仲良くしていただいてるそうね」
「いえ、そんな・・・私が勝手に押しかけているだけですから」
「でもあの子、怒らないのでしょう?」
「え、まぁ・・・」
「それなら、仲良くしていただいてるのよ。ありがとう」
と、話が長くなると思ったのだろうか。横から副会長、宇都宮奏が“会長、”と割り込んできた。
「私達はお先に失礼します」
「えぇ、そうね。ごきげんよう」
書記会計、樫本千鶴に“行きましょう”と声をかけ、琴美にも簡単に挨拶を済ませると奏はその場から去った。追従する千鶴が去り際、自分に向かって胸の前で小さく手を振ったのを琴美は見逃さなかった。
今度ゆっくり話してみたいな、などと思いつつふと一葉の事を思い出した。
「あ、生徒会のお仕事は終わったのですね。お疲れ様です」
生徒会役員がこの場に揃い踏みだったということは、一葉の手伝いも終わったのだろう。
挨拶だけでもできたらいいのにと辺りを見渡すが、どこにもその姿は無い。
「高堂様・・・えっと、妹様はご一緒ではないのですか?」
「え、一葉?」
「はい。美術部の子が“高堂様は生徒会のお手伝いがあるからお休みです”と教えてくれたんです」
一瞬、揚葉の表情が曇った。何か言いたげな顔で、言葉を飲み込んだのもわかった。だが、“あの?”と琴美が首を傾げると、パッと笑顔に戻った。
「あぁ、あの子は職員室に寄ってもらっているの。ちょっと時間がかかっているみたいね」
「そうですか、大変ですね」
「本当に。3人しかいないでしょう?普段はいいけど、いざという時困るのよね」
ふぅっと大げさにため息をつく彼女を見て琴美がくすくすと笑う。
気取らず、誰にでも友好的な揚葉はまさに生徒会長になるべくしてなった人だ。
「お姉様?」
和やかな空間に、訝しげな声が現れた。2人揃って揚葉の後ろを見ると、帰り支度を整えた一葉が向かってくる所だった。
揚葉が動いたことで、そこに琴美がいることに初めて気づいたのだろう。怪訝そうな顔が更に深まった。
「あなたも・・・こんな所で何を?」
「偶然会ったから、少しお話をね。あなた全然紹介してくれないじゃない」
「別に、紹介するような間柄ではありません」
実の姉に対してもそっけない態度は変わらないらしい。揚葉も慣れたもので、特に言い返しもせず琴美に“ごめんなさいね”と小声で謝るだけだった。
普通の生徒達はショックで泣いてしまうかもしれない。だが琴美とて、こんな態度には慣れっこである。
「お手伝い、お疲れ様でした」
「え?」
琴美が笑顔で言った言葉の意味がわからず、一葉は少し眉間に皺を寄せる。“何のこと?”と聞こうとする声に被せるように揚葉が少し大きな声を出した。
「本っ当助かったわ!ありがとう」
「え、何・・・」
「あらもうこんな時間ね!それじゃあ、私達はこれで。ごきげんよう、及川さん!」
「あ、はい。ごきげんよう」
早口で言うと、揚葉は“え、”“ちょっと”と短く言葉を発する妹の手を取り、歩き始めた。
いつも一葉と別れる正門で、今日は2人を見送る。ぐいぐいと引っ張られながらも懸命についていく一葉の背中はどこか微笑ましく、姉妹の姿がすっかり小さくなるまで琴美は見送っていたのだった。
一方、やっと手を離してもらった一葉は少し息を切らせながら歩いていた。
「姉さん、何なの?!」
「“お姉様”でしょ」
打って変わって、揚葉は冷静に返す。たとえ血の繋がった姉妹でも、学園内では“お姉様”であり、“高堂さん”なのだ。
「学園の外なのだから、もういいでしょう?さっきのは一体何です?!」
「あなた、今日も部活には行ったのよね?」
「え?えぇ」
少し苛立ちを含んだ声が、あくまで冷静な揚葉の声に圧される。
“そうよね”と呟くように言って妹を見れば、一葉はまだ混乱の中にいるような複雑な表情をしていた。
「あの子、美術部の子に“高堂様は生徒会のお手伝いがあるのでお休みです”と言われたそうよ」
“えっ”と短い声を発して一瞬目を見開くと、揚葉の言いたいことを察したのか大人しくなった。
自分と同じ部の部員が、琴美に向けた悪意のある嘘。勘違いしようのない、明らかに故意の嘘。
不快なのか、怒っているのか、苦虫を噛み潰したような表情で歩く一葉を、あえて揚葉は見ない。
「気をつけてあげなさいね」
正面を向いたまま言われた言葉に、一葉は小さく“えぇ”と答えた。




