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 こんがり焼けたトーストを食む彼の眉根に、苦悶の縦皺が刻まれた。聞くに堪えないといった様子で年若い集団を一瞥し、また姿勢を戻す。

「ここに来る度に……あ、いや、こうして若者の会話を聞いているとね、歴史の変遷というか、言葉の衆愚化みたいなものをどうしても意識せずにはいられないんだ」

「言葉遣いが悪いってだけでしょ」

「そればかりじゃない。顎機能はどんどん退化してるし、正常な敬語や語法は駆逐される一方じゃないか」

「考え過ぎよ」

「確かにね。僕は病気なんだ。いっそ地下室にでも潜り込んで、手記でも認めたいところさ」

 そう。この点に関しては、常々彼と折り合いが付かずにいる。若者たちの言語は日増しに進化している。音便が音便を生み、省略形は更に省略され、最適化された言語はやがて発音数の減少に伴い淘汰されていく。顎機能の退化とは、これ即ち人類の進化の別称にほかならない。

 これは不可逆進行だ。もう後戻りは出来ない。進行を遅らせることは出来ても、停止することはまず以て不可能。

 彼らはそれを速めているだけだ。彼らに非はない。若ければ若いだけ、彼らは破壊者の属性を帯びることになる。それは自身の意図とは関係なく一方的に降りかかってくるのであって、今では齢を重ねた誰の身にも一度は降りかかってきたものだ。彼だって例外じゃない。それだけの話なのに。

「僕はただ、彼らにそういう自覚がないのが残念でならないんだ。気づいてさえいれば、あんなに大きな声で喚き立てることもないだろうに」

「自覚っていうか、自分を客観視出来てないだけなんじゃないの」未だに湯気の立っているグラタンに息を吹きかけつつ、彼女は面を上げた。「若いうちなんてあんなもんでしょ、みんな」

「若気の至りか。厭な言葉だ」

 吐き捨てるように言って千切りのキャベツを咀嚼する。その彼の横で、ゴメンね、感じ悪くて、といった面持ちで彼女が両手を合わせている。

 問題ない。彼の人となりは熟知している。言語観の根本的な相違もそう。

 口が利けないことに言及するとき、〈発声する能力を失った〉というニュアンスを彼は匂わせるけれど、それは間違っている。そうではなくて、不要な機能を言わば端折っているのだから、これは若者たちとは別系統の、立派な進化形なのだ。

 独りでいるとき、一体どんな言葉が必要だというのだろう?

「ねぇ。さっきのはあれでいいとして、もう一個のネタのほうは見せなくていいの?」

 ちょっと待て。まだあるのか?

 危うくスープを吹き零しそうになった彼だが、どうにか持ち直した。とはいうものの、彼女の何気ない一言が旗色をまたしても悪くしたのは事実だった。

「い、いや、あれは駄目だ。まだ完成してない」

「なんで? 最後まで台本出来てるじゃん」

「いや、あれは準備稿だよ。手直しするところがまだたくさん」

「じゃあさ、どこ直したらいいのか今のうちに訊いとこうよぉ」

 とんだ審査員に仕立て上げられてしまった。そもそもお笑いそのものに審査員の存在意義なんかこれっぽっちもないんだけど。彼女の買い被りっぷりもどうかと思うが、台本見せるだけならいいでしょ、の一声に結局反駁出来ない彼のほうも相当酷い。

 開いた手帳を逆向きに置き、ここ、と彼女が指を差す。

 見出しが〈高校・告白〉とある。一行開けて、その下に台詞が箇条書きに続いている。思った通り、アドリブの一切ない完全台本のようだ。

『誰に告白するんだよ』

『えっと六十七組の』

『マンモス学校にもほどがあるぞ』

『間違えた。四組の中村六十七之助くん』

『名前と間違えたのかよ』

 …………。

『お前なら大丈夫だって。マッハで行って伝えてこいよ』

『無理。時速およそ千二百二十五キロの速度で行くのは無理』

『例えだろうがよ。真に受けるなよ』

 ……大半は読み飛ばさせてもらった。まあ完成度云々は抜きにして、タクシーのほうが幾分マシだろう。

「台本だけ見せてもさ、本当の面白さは伝わりにくいからね」グラスから口を離して彼が言った。「文章に書き起こした漫才がちっとも面白くないのと一緒だよ。相手の顔色や声の調子みたいな感覚的情報が失われるからね。それらがないと、言葉の意味が伝わるばっかりで、本当に話し手の意図していたところがぼやけてしまうんだ。こればっかりはネタの出来不出来には関係ないから、どうしようもないよ」

 ひょっとしてギャグで言っているのか? 身体的動作を否定しておきながら、文章に対してはこの仕打ち。鼻先の辺りを凝視する。至って真面目な顔つき。この天然め。

 しかしだ。右隣のページに書かれた、別のネタっぽい記述のほうがより一層気になった。彼女の発案のようだが、大きなバツ印で見出しが消されているので、既にボツ決定のものらしい。

 左ページを見る振りをして、眼球のみ右に向ける。〈こんなタクシーはイヤだ〉の下に、会話文にすらなっていない語句の羅列が見えた。『教習所のマニュアル持参』『キーの代わりにコイン投入』『立ち漕ぎ(ドロハン)』『ハンドル食べる』『ハンドル刺す』『回すときうまく手が送れない』『回りすぎて一回転』『デカすぎ(ウィーアーザワールド)』『サイドブレーキもデカい(棒倒し)』『バス・電車を勧める』

 ウィーアーザワールド? 脚注付きでないのが残念だ。なんだかこっちのほうが客ウケしそうな気がするけど、彼の嫌いなアクション必須のネタ満載で、今後も採用されることはないだろう。可哀想に。

 告白ネタについては、素人なので良く判らない、と身振りで答えるに留めた。最初のネタの段階で大いに羞恥心に苛まれている彼の機嫌を、これ以上損ねるような無粋な真似はしたくない。

「もういいじゃないか、この話は」

 漸く彼が幕引きの言葉を口にし、唐突に始まったお披露目は終焉を迎えた。ただ彼が言うのを待つまでもなく、とっくに彼女は別件に心を向けていたようだけれども。

「思い出した、あなたの同期で、誰か異動になった人いるでしょ」

「ん? ああそうそう。お前もあいつ知ってるんだっけ。急な話であっちもびっくりしてたよ。なんでも事業部の方針で……」

 仕事の話か。興味のない話だ。彼の業種も職場も知らないし、訊いたことすらない。彼から話してくることもないしね。そうか。彼女には仕事の話もするのだな。

 二人の会話を遠い国の出来事のように聞きながら、顔を伏せ、一回だけ深呼吸をした。なるほど。一人だけ沈黙していれば、相互に入り組んだ三角関係もさほどギスギスしないで済むわけか。

 グラスの中の氷が、カラリと小さく音を立てた。氷なりの自己主張というやつか。そんなことをしても、いずれは溶けて消えていくだけなのに。


 幾度となく通った夕方の賑々しい舗道だけれど、この三人で歩くのはいつになく新鮮だし妙な違和感を覚える。隣に彼女。更にその隣に彼。端から見ると男・女・女、ごく普通の三人組に見えるだろう。そのうちの一人が半陰陽で、三通りのカップルが成立していることまで見分けられる人間が、世の中に何人存在するのか。易の六十四卦にも、大アルカナ限定ケルト十字の三百五十通りの組み合わせにも、いや、いかなる占意においてもそんな結果は出てこないはずだ。

 歩を進めながら、これからこの三人でどこへ行こうというのだろう……ふとそんなことを考えた。ウィンドウショッピング? 事務所? それともこのまま帰宅するのか? 終着点は謎のままだ。

「あ、見て見て。お笑い番組やってる」

 家電量販店の大画面薄型テレビに、タキシード着用の二人組が大きく映し出されている。

「ちょっと観てかない?」

「観てどうするんだ」彼は全く乗り気でない模様。蒸し返されたのが業腹なのかも。

「参考にするのよ」

 喰い下がる彼女に向かって、そんなもん参考になるわけないだろ、と言うや否や、彼はフフンッと鼻で嗤い腕を組んだ。

「こういう輩は顔とかネームバリューで売り出してるんだ。笑い声だって後から足してるに決まってるさ」

「あら、随分斜に構えてんのね。言い出しっぺなんだから、もっとお笑いに拘りでも持ってんのかと思ってたのに」

「うっ……それは」

 言い出しっぺ? 彼が?

 彼女の発言はまさに技ありだった。コンテスト参加の件が露見してしまったのに加え、自分が提案者であることまでバラされたのだから。もうグロッキーといった様子で彼は両の眼を屡叩かせ、返す言葉を失った。

 こういうやり取りのほうがずっと面白いわ。ま、コンテストに出せるネタじゃ全然ないけどね。

 それでも一分あまり画面を注視していただろうか。映像が切り替わったところで彼女は向き直った。

「ねぇ、タクシーのネタなんだけど」

 新しい案が思いついたようだ。

「最後の口移しのときに、こうやって」と言って口唇を窄め、「唇を突き出すってのはどうかな?」

 可愛らしい彼女の相貌に引き替え、彼の態度は思わしくなかった。

「そういうコミカルな演技は必要ないな」

「少しは動いたほうがいいと思うけど」

「僕が求めてるものと違う」

「何それ。いいじゃない別に。ホントにキスするわけじゃないんだしさぁ」

 一瞬だけ、視線が彼女と交錯した。フラッシュバック。夕暮れ刻。白樺の木陰。

「僕はね、もっとこう観客の想像力を刺激するようなものをやりたいんだ。眼に見える部分じゃなくて、眼に見えない部分を喚起させるような」

「でも、そんなこと言い出したら、お客さん付いていけないんじゃないの?」

「客が駄目なら審査員に訴えかけるさ。合否の鍵を握るのは審査員なんだからな」

「笑いの規模も参考にするって注意事項に書いてあったでしょ。そんなんじゃ誰も笑わなくなるよ」

 この二人、さっきからずっと言い争ってばかりいる。周りに誰もいないときも、こんな調子なんだろうか。それでも切れることなく付き合っているのだから、人の仲というのは至極不思議なものだ。占い好きの現実主義者と高い志を持つ理論家。いやいや、不思議だ。

 一時間も前に彼に出くわした地点を今一度通り過ぎた。ほんの一時間先の未来すら見通せないなんて、占い師失格だなこりゃ。

「ねぇねぇ、あなた知ってる? 人の虫歯って……」

 と、彼女がまたもや違う話題を持ち出した。母親とのキスで、虫歯菌は子供に感染してしまう。ヤマアラシのジレンマの話。昨日聞いたのとそっくり同じ内容だ。口移しの際の唇繋がりで連想が働いたのかも。

「勿論だよ」一時間前とは打って変わって余裕に満ちた面構えで、彼が反り返ってみせる。「歯に害を及ぼすミュータンス連鎖球菌やソブリヌス菌だけを選択的に殺す抗菌剤の実用化に、中国の企業が乗り出したっていう話だろ?」

 ちょっと違う。

「えっと、ちょっと違う気がするけど」

 尤もな彼女の意見だが、彼は意に介さず、続けて、

「ところがだ。抗菌剤を使うと、多くの場合予想だにしなかった耐性菌が新たに繁殖したりするものなんだ。利益を追求するあまり、耐性菌との際限ないイタチごっこに巻き込まれなければいいと思うがね、僕は」

 あんたの発言のほうがよっぽど予想つかないよ。呆れがちに眉を顰める彼女に気づいてないのか? ヤマアラシとイタチじゃあ、結構な違いだと思うけれど。

 同じ言語を用いながら、こんなにもズレていくものかのか。これは最早呆れを通り越して賞賛に値するとさえ思う。滑稽な漫才は既に、始まるともなく始まっていたのだ。

「こんにちは」

 不意に呼び止められ、一行は思い思いのタイミングで足を止めた。いや、たとえ声を掛けられずとも、足は止まっていただろう。何故なら声の主は行く手を阻むよう前方に仁王立ちしていたのだから。

 既知との遭遇である。衣装は変わっていたが、確かにあの女性だった。易者改め地球浄化委員会とかいう奇っ怪なカルトの一味。よもやこんな場所で待ち伏せとは。

 見る間に彼女の面持ちが険しくなっていく。彼のほうも多少は訝しげだが、危機感はない。

「しつこいわね」警戒気味に身を竦め、彼女は口を開いた。「いい加減にしてよ。こっちがどれだけ迷惑してんのか判ってんの?」

 女性は無言のまま、一歩詰め寄った。サリーを思わせる裾の長い金色の衣装に隠れ、足許は見えない。

「あんまりしつこいと警察呼ぶわよ」

「警察ですか? そうですね、呼んでみるのも面白いかもしれませんね。わたくしも色々とお話ししたいことがありますので。例えば……」

 女性は彼の鼻面に筋張った指を突きつけると、

「この方が、そちらの占い師さんと足繁く先程の喫茶店に通ってらっしゃることとか」

 彼の顔面は蒼白になった。ぽかんと口を開け、異議を唱えることも出来ない。これで眼鏡でもずらしてくれたら、より喜劇っぱくなったのだけれど。

「何、それ……どういうこと?」

 それから驚きを隠せない彼女のほうに指を向け、女性は更に勝ち誇った声で、

「あなたが昨日、道路脇の木陰に隠れて占い師さんと接吻していらしたこととか」

 びくっと肩を震わせ、一瞬にして彼女の顔が紅潮した。眼を剥いて身じろぎ一つ出来ずにいる彼の横で、彼女もまた動きを封じ込められた。二人の間だけ、時が止まってしまったかのようだった。

「わたくしの情報網は同業者に限りません。北澤酒店のご主人も、〈キャバレー・ヴォルテール〉の店員さんも、わたくしのお得意先ですからね。本気で聞き込めば幾らでも調べがつきます。もっと過去の興味深い話も色々と伺っておりますよ。ただ、これ以上言う必要はなさそうですけれどもね」

 そういうことか。様々な人たちに密会の現場を押さえられていたわけか。一組のカップルをものの数秒で屠りおおせた女性は、ここからが本題と言わんばかりに悠然と襟元を正した。

「さあ、一緒に本部へ参りましょう。そして手を取り合って踊り明かそうじゃありませんか。あなたはわたくしと共に、更なる高みへ赴くのです。大地の穢れを踏み清め、シヴァ神の偉大なるリンガと合一するために」

 動きを止めた二人。両腕を掲げ、声を張り上げる女性。思考だけがぐるぐる回り出す。心地好い酩酊感。この旋回、ひょっとしてこれが舞踏なのかも。回転する思考。世界がどんどん回る回る。女性の声は益々ざらつきを増し、耳障りなノイズとなって鼓膜を叩く。

「まだ気づかないのですか? あなたは周囲の人間に誑かされて、本当の自分を失っているのです。惑わされてはいけません。そちらのお二方は、あなたの昇天を妨げる障害でしかありません」

 うるさい。舞踏の邪魔をするな。何を言ってるんだこの人は。本当の自分だって? 臆面もなくよくそんなことが言えるよ。自分探しの勧めか? 一生やってろ。どうして占い稼業に手を染めているのか判らないのか? 他人にしか関心がないからだろうが。

 本当の自分を見つけ出したと思い込む独断に、陥りたくないからだ。

 あー愉快だ。反吐が出そうだ。傑作だ。

 聞こえる。笑い声が。誰の? 判らない。どこからともなく聞こえてきた笑い声が、夕刻の商店街を揺るがすように谺し包み込む。今の気分にぴったりの声だ。

 道行く人たちが次々に立ち止まり、何事かと眼を向ける。その逆で、歩みを速めそそくさと立ち去る者もいる。相対する女性の顔が凍りついている。怯えている。恐怖に打ち震える容貌。何を怖がることがある? さっきまでの自信に満ちた様子が嘘のようだった。

 どうも皆の様子がおかしい。何か変事が起きている。一様にそんな態度を示していた。全員。全員か? うん、全員だ。

 中でも、彼と彼女の様子は尋常ではなかった。二人の視線はもう女性のほうに注がれていない。視点を変え、メデューサに魅入られた哀れな人間みたく再び固まった全身。一言で言い表すなら未知との遭遇。そんな顔をしていた。

 あ。

 そうか。

 そういうことか。

 今まで眼にしたことのない彼女と彼の表情を見て、この二人にはこれが笑い声だということが判らないのだ、と知るに至った。なるほどね。笑っている本人にしか、その意味が理解出来てないってわけか。この状況で一番自然な行為といえば、どう考えてもそれ以外ないのに。空気の読めない愚か者ばっかりだ。どいつもこいつも。センスゼロだね。

 だったら笑い声だけ残して煙みたいに消え失せてやろうか。無理か? いや、やってやれないことはないはず。想像力さえ逞しく出来れば。笑いの渦に呑み込まれながら、ふとそんなことを考える。

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