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 職場の応接間で掃除機を掛けていると、アポなしの来客があった。どこかで見た顔だが、すぐには思い出せない。昨日の夕方商店街で、と言われて漸く筮竹の女性易者と判った。メイクの感じが異なるのみならず、今日は完全な洋装だったせいで、昨日の印象とは俄には合致しなかったのだ。

 にしても、どうやってこの事務所の所在を捜し当てたのだろう。後でも尾行られたか。あるいは占術で? なわけないか。

 掃除機を脇へ追いやり煎茶で持て成す。突然の訪問で申し訳ありません、とその女性は丁寧に頭を下げた。筮竹を振っていた面影は少しも残っていない。心の中ですら易者と呼ぶのは憚られた。年の頃は四十代前後といったところ。女性はテトラグラマトン・フォーチュンテリング・アソシエーション関東支部代表と印字された名刺を手渡し、再度深々とお辞儀をした。

 どこにでもいそうな辻占い師かと思いきや、結構なお偉いさんのようだ。こんな看板すら出していない、知る人ぞ知るしがない占い事務所に何用だろう。

「わたくし、関東一円のあらゆる種類の占い師とコネクションを持っていると自負していたのですが、恥ずかしながら同業者だというあなたのことは存じ上げなかったもので、昨日調べさせてもらいました。ですので、あなたが個人経営の占い事務所を開いていると知ったときは大変驚きました。趣味としての占いならともかく、こんなにちゃんとした事務所を持つあなたの情報が入ってこないなんて、わたくしのネットワークもとんだ笊だったのでしょうね、きっと」

 人の心に阿るような柔和な口調。危険信号が灯った。経験者は語る。この手の連中は用心するに越したことはない。

「それにハンデを背負いながら仕事を続けていらっしゃるのも、素晴らしいことですわ。涙ぐましい努力の賜物と存じます。まさに占い師の鑑です」

 おいこら。ハンデって口が利けないことを言っているのか? 情報網の正確さは認めてやってもいいけれど、全く失敬な。要らない機能を排しているだけなのだからハンデもクソもない。事務所にしたって道楽半分、名ばかりの占い稼業だ。この持ち上げ方には裏があるな。そう直感した。

「昨日こちらから声を掛けたのも、占者としてのわたくしの感覚が、あなたの放出するただならぬ気配を捉えたためでしょう……そんなわけでして、昨日の一件も何かの縁、本日はあなたの腕を見込んで、一つご相談したいことがあって参ったのです」

 そら来た。占いの腕前なんか知りもしないくせに、のうのうと言ってのけちゃって。こりゃ占いの交換などと暢気なことを考えている場合じゃなさそうだ。いざとなったら筆談でもしようかと紙とペンを出しておいたが、果たして使う機会があるかどうか。

「実はわたくしが所属する〈テトラグラマトン・フォーチュンテリング・アソシエーション〉とは、世を忍ぶ仮の名称でして」

 女性の目尻がきらりと光った。気がした。

「正式名称を〈地球浄化委員会〉と呼ぶんですの。和風な名前ですが、実際はヒンドゥー教の三主神の一、シヴァ神を信奉する団体です。今、地球全体は〈カリ・ユガ〉という末法の段階に達しています。相次ぐ天変地異・凶悪犯罪の類は皆この終末へ向けての前段階に……」

 うわ、やっばー。人は見かけによらないとはよく言ったものだけど、まさかあっち側の人間だったとはね。洗脳カルトか? 壺でも売りつけるつもりだろうか。それならまだ救いはある。その行為自体が、あっち側を全然信じていないことの何よりの証左となるからだ。

 けれどもこの人の眼は、そんな感じじゃない。何かを見ているようでその実何も見えていない、焦点の合わない、超越世界への眼差し。かなり危険な部類だよこりゃ。

 平気で向こう側の物語を語り出す、狂信者の眼にしか見えない。

「これだけは断っておきたいのですが、別に入会費を払えとか、法具を買ってほしいとかいうわけでは全くないのです。そんな俗世に塗れた汚らわしいものは、受け取ってくれと手に握らされても突き返すことにしています。わたくしはただ、一人でも多くの方に目覚めてもらいたいだけなのです、ええそうです。健全なる真の世界へ到達するためには、上代より極秘裏に伝わるシヴァ神の秘儀、〈舞踏〉によって心の闇を祓い落とし、同時に穢れた大地を清めるべく踏みならし蹴り固めねばなりません。なぜなら、ゆくゆくは踏み固めた己の足場が、一切の浄化を終えたのちに現出する新たな地上の礎となるからです」

 淀みのない口調であるが故に滲み出る胡散臭さ。無償の奉仕というキーワードもあっさり出てきた。昨日の易者風情は要するにカムフラージュでしかなかったわけだ。剰え天竺の思想に心酔するとは、とんだ似非易者だ。シヴァ神に非があるとは言わないが、これでは太上老君があまりにも惨めではないか。

 とにかくだ。強く押していけば自分のペースに持ち込める、とでも思っているのだろう。口が利けないから。言葉で断れないから。

 その手に乗って堪るか。確かに言葉の力は恐ろしいけれど、その恐ろしさを知っていれば不必要に動じないで済むものだ。このタイプは頑とした態度で、確実にいなしてやらないと。

 事務机の抽斗横に設置された防犯用非常スイッチ。椅子に坐したまま、相対する女性に気づかれぬようこっそりカヴァーを外しスイッチを押す。一見なんの変化もないが、これでひと安心。

「〈舞踏〉はですね、肉体と精神の両方に有効に働きかけてくれるのです。取りも直さず、〈舞踏〉という一定の所作を行うことで、肉体と精神が相互に深い結びつきを持つようになり、良質な運気が循環するようになります。よろしいですか? ここに言葉は必要ありません。バベルの塔の崩壊以来、人類の意思の疎通を妨げてきた言語の壁も、〈舞踏〉の前では無きに等しいのです」

 今度は旧約聖書か。多様性というか、単に節操がないだけ? そのうちに『アヴェスタ』携えたドルイド僧がデルフォイの神殿で真言でも唱え出しそうだ。

「あなたには素質があります。わたくしの見立てに間違いはありませんでした。あなたは言葉を、言霊を失った代償として、宇宙の大いなる舞踏神と交感する資格を得ているのです。その能力を開眼するためには、まず太古の契約神たるミスラの……」

 だからその代償って言い方やめろっての。胸糞悪い。さっきほざいていた無償の精神は一体どこに行ったのやら。

 一つだけ真面目に考えてみよう。何故この女性は独りなのか。もし本気で勧誘に来たのなら、単身乗り込むなんてまずありえない。二人以上でやって来るのが普通だ。そうでないということは、この女性のほかに説得力に長けた人材がいないのか、はたまた今回は探りを入れに来ただけなのか。そのいずれかだろう。どのみち強めに撥ねつけておいたほうが後々楽に違いない。

 などと思いながら女性の長広舌を適当に聞き流していると、やがて表のドアが荒々しく開かれ、上背のある制服の警備員が二名ほど、靴音も高らかに入室してきた。

「ちょっ……なんですか、あなたたち」

 途端に怯んだ女性の肩と腕を一人が取り、もう一人が用心深い形相で周囲を窺う。

「一人だけですか?」

 大きく頷く。

「は、離して下さい。わたくしが何をしたというんですか? ねえちょっと、あなた、助けて下さい。もしかして、あなたが呼んだのですか?」

 頷きはしなかったけれど、まあ地球浄化委員の関東代表たる似非易者にはちゃんと伝わったはずだ。

「大人しく従って下さい。無茶な真似はしないように」

「ちょっと、乱暴してるのはあなたたちのほうでしょ」

「あまり抵抗すると、今度は警察を呼ぶことになりますよ」

「厭よ、離しなさいってば。痛いわね、離して」

 これは意外に手こずるかもしれないな、と思った。警察の名を出しても一向に折れる気配がない。絶対に呼ばないと思っているのか、呼ばれても平気なのか。頑なに抗うその瞳の輝きが、更に増したようだった。

「これは使命なのです。わたくしには義務があるのです。あなたを我が委員会に、シヴァ神の密儀に参入させる義務が。あなたは、言霊の驚異を、いえ脅威を身を以て体感してきたはずです。あなたなら、言霊を奪われたあなたになら、言霊を否定出来るはずなのです。それが出来るのはあなたしかいません」

 使命。義務。なんという思い込みの激しさだろう。浮かんだ表情はどこまでも真摯で、質が悪いったらありゃしない。どうも予想に反して追い払うのに難儀しそうだ。

 見かねたもう一人の警備員が加勢に入る。多勢に無勢、さすがに体の自由は利かなくなっていたが、抵抗をやめる気は毛頭ないらしい。身をよじり、男らに毒づき、彼らを帰すよう懇願を繰り返している。

 と、開いたままのドアの陰にふっと人影が現れた。

 彼女だった。室内の異変を敏感に察知したらしく、立ち止まって尻込みしているのが見切れたり見切れなかったり。

 様子見に時折顔を出すことなら以前からあったが、昨日も逢っているのにわざわざ事務所を訪ねてくるのは少しおかしい。何かあるなと不審に思っていると、案の定彼女の横手から背の低い初老の男性がそろりと身を乗り出した。

 男性は彼女の叔父に当たる人物で、この貸しビルのオーナーでもあった。

「どうしたんだ」

 警備員と見知らぬ女性を視界に捉え、オーナーは口を切った。

「不審者か?」

「通報を受けまして」白髪交じりの警備員が答えた。「これから下に連れて行くところです。もう大丈夫ですよ」

「何が大丈夫なものですか」女性は一際声を荒げた。「いいから離しなさいよ。こんなふざけた真似をして……ただじゃ済まないわよ。やめて、触らないで、穢らわしい」

「この人……」彼女がはっと息を呑む。「昨日の、占い師の人?」

 オーナーが一団に加わったものの、揉み合いは尚も続いた。女性相手なので実力行使というわけにもいかないのだろう。とはいえ、三人がかりではやはり抵抗に限界がある。後ろ手に押さえつけられ、すっかり憔悴した様子で佇む女性の両脇を制服の二人が固めた。

 彼女が駆け寄る。

「大丈夫?」

 心配そうに言うので頷いてみせたけれど、これといって危害を被ったわけではない。宗教勧誘としてはまだまだ良心的な、軽い段階のはず。防犯スイッチを押したのは、手っ取り早く片を付けたかったからに過ぎない。

「……わたくしを、信じて下さらないのですね」恨めしげに見上げながら、女性はぽつりと呟いた。「あなたは、こんな所で燻っていては駄目なのです。ここは不毛の地です。ここにいてはいかなる大願も成就いたしません」

「おい、なんなんだあんた」建物の所有者たる彼女の叔父が、事ここに至って初めて噛みついた。「何を根拠にケチをつけとるんだ?けしからん。不愉快だ。もう二度と姿を見せんでくれ……おい君たち、とっとと追い出してくれ。あと塩も撒いとけ」

 女性に引き続いて警備員らも姿を消す。ここに来たのがもし彼女でなく彼のほうだったら、もっと面白い展開になっていたのではないか。

 いつもの喫茶店。いつか聞いた台詞。『元来ただ一つの神を信奉していただけだった。それがユダヤ教となりキリスト教が生まれイスラム教が生まれた。分派するばかりで決して統一しない。宗教とは、いや人間とはそういうものだ。人間は、本来的に思考の共有が不得手なのだと言わざるをえない』

 良く言えば滅法弁が立つ、悪く言えば舌先三寸の彼のことだ。きっとあの女性の論敵として存分に語り尽くしてくれただろうに。

「なんだかよく判らないが」

 期せずして訪れた沈黙は、すぐさま顰め面のオーナーに破られた。

「あんまり変な奴を呼び込まないでくれ。この前もその筋の人間が怒鳴り込んできたろう。こうも立て続けに問題を起こされると」

「叔父様、この方は何も悪くないわ」と、横槍を入れる彼女。「前回の件は完全な人違いだったし、今の人だって頼んでもいないのに向こうから馴れ馴れしく近づいてきたんです。被害者はこっちのほうだわ」

「そうは言うが、問題を起こしとることに変わりないぞ」窘めるような口調もそのままに、オーナーは続けて、「本当は賃貸料のことで話し合いに来たんだが、この分だと話し合いなどと悠長なことを言っとる場合じゃなさそうだ。こっちも慈善事業じゃないんでね」

 何しに来たのかと思えば、賃上げの要求か。なるほど、それで彼女も同伴しているのか。

 元々この物件を紹介してくれたのは彼女だ。使用料を格安にするよう叔父に交渉してくれたのも彼女だし、非常時に備え警備員室直通の防犯スイッチを提言したのもそうだ。彼女には世話になりっぱなしだった。見返りを求めない態度にも頭が下がる一方だった。

 ここでも賃上げに関する押し問答が始まったが、結果は眼に見えていた。貸し手に勝る借り手なんてどこにも存在しないのだから。

 誰も閉めようとしない出入り口に眼を向け、ここは本当に不毛の地なのだろうか、と今まで思いもしなかった疑問が湧き上がるのを、どうすることも出来なかった。

 肩に力が入らない。ああ疲れた。眠くなってきた。欠伸を噛み殺す。重い瞼をゆっくり下ろし、現状から意識を切り離すことにする。茫乎と広がる平板な暗灰色の中、どういうわけか耳に谺する言い争いの声がやけに快く聞こえた。

 何一つ、心弾むことはないのだけれど。

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