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「メロン読んだ?」

「いんや、てか買ってねーし。貸せよ」

「持ってねーよ。買うのはぜってー無理。二冊同時に出てんだぜ。買えるわけねーじゃん」

「金遣い荒すぎんだよ。んで、幾らよ」

「二八」

「一冊ずつ買おうぜ」

「俺は来月だな。立ち読みしたけどチョーウケんぜ。あれやべーって。今日も授業中思い出し笑いしてマジヤバかったし。落雁とかロバート・スミスの口紅とかさぁ。腹よじれっかと思った」

「ンだよ口紅って」

「はは、それがさ、便器からはみ出したクソがさ……」

 窓の外は既に暗い。テーブル席の一角を陣取る学生の放埒な会話に品位でも与えようというのか、ウォルター改めウェンディ・カルロスを思わせる電子音が伸びやかな旋律の室内楽を奏でている、古い調度の目立つ店内。裏通りに面した隠れ家的喫茶店。その名も〈キャバレー・ヴォルテール〉。おいおい喫茶にキャバレーってなんなんだよ。そんな疑問を純粋に抱くことが出来た最初の来店から、もう二桁を数えるくらいは通っているだろうか。ちょいと訳ありの密会にはなかなかどうして有用な所だ。

 ドアのベルが来客を告げる。来た。特徴ある跫音を響かせ、滑るように座席の脇を通り過ぎた彼は、借金取りみたいな平たいハンドバッグを放り投げ、鷹揚な身ごなしで真向かいにどっかと腰を落ち着けた。今日は一体どんな話題を切り出すのか。早くも残り少ないレモンティーを口に含み、出方を待つ。

「トマトジュース」メニューも見ないでさも当たり前のようにスタッフに言い、矢庭に眼鏡を掛け直す。「先日言った『聖アントワヌの誘惑』を読み終えたんだがね、大変興味深かったよ。思うに、フローベールは『ファウスト』よりも、スウェーデンボリやバルザックの『セラフィタ』を強く意識してこのオカルト夢幻劇を物したのじゃないかな。わざと求心力を欠いたような紙芝居的な筋書を、ゲーテの力強い筆致と比べるのはお門違いな気がするんだ」

 読了後の素人書評から始まったか。彼は典型的な〈本で見つける〉タイプの人間。経験の先取りとしての読書体験を重視する、文系の中の文系。

「中でも特に僕の眼を惹いたのは、古代キリスト教の異端・邪宗門の数の多さだ。北は小アジアから南はエジプトまでの限られた区間で、しかも一世紀末から四世紀までの間に現れた異端派が、小説内に出てくるだけでも三十二派。注釈によると、グノーシス主義に至っては少なくとも七十派は存在したそうだ。少なくとも、だよ。まるで雨後の筍状態じゃないか。新興宗教の勃興なんてのは、二千年近い昔から既にありふれた出来事だったわけだ。種々雑多な教義を生み出すだけの発想力を有していたと言ってしまえばそれまでだが、結局人間なんて大昔からちっとも変わっちゃいないんだよ。受け売りの中身が増えていくばかりでさ」

 そして眼鏡の縁から上目遣いに見やりつつ、読んでみるかい? と傍らの鞄を指差して言う。日頃より持ち歩いているらしい。というより、書物を持ち運ぶための鞄なのだろう。興味があるのはそれを読んだ彼の感想のほうであって、本自体ではない。首を横に振る。

 彼は、そっか、残念だな、と洩らすと頬を数回掌で擦った。

「強制するのは僕にとっても本意じゃないしね。けど、『セラフィタ』は是非とも君に読んでもらいたいな。僕には君が主人公のセラフィタ・セラフィトゥスに見えて仕方ないんだ」

 何度目の指摘だろう。もう聞き飽きた。創作物語の登場人物に似ている。それがどうしたというのだ。そんなものに意味はない。実在するモデルがいるならまだしも、人は人であってお話はお話だ。彼の意見は示唆に富むものが多いのだけれど、この点だけはどうにも頂けなかった。似てるからって読む義理なんかないっての。

「君はセラフィタと同じ類の神秘を孕んでいるんだ。天上に属する美しさというか、神々しさというかね。言葉にすると逃げてしまうような、独特の雰囲気が」

 そんな褒められ方は嬉しくもなんともない。男なのか女なのか、人間なのか天使なのか、何もかもが曖昧なセラフィタ・セラフィトゥス。冗談じゃない。そんな戯言は空想の中だけにしてくれ。

「や、済まない。君はあんまりこの話が好きじゃないんだったな」

 彼は身を乗り出して非礼を詫びると、知らないうちに置かれた紅い液体のグラスを取り、二口三口飲み込んだ。直後に小さく噎せ返す。面白い男だ。整然とした弁論と滑稽な挙動。直向きさ故の微笑ましさか。彼がそのことに気づいていないのもまたいい。天然だ。総天然色。彼の思い出は絶対モノクロームにならない。

 悲劇に多く登場する薄幸の主人公を、彼は〈ナルシストにしてマゾヒスト。およそ考えられる限りにおいて最低の人物類型〉と断じたことがあった。〈人生は一行のボードレールに如かない〉というが、それに当て嵌まるのはむしろジョイスだろうと息巻いたことも。今どき珍しい古風な文学の語りたがり屋だった。考古学的価値すら見出せそうなほどの。

 それが何故に、お笑いグランプリに出場するなどと酔狂なことを言い出したんだろう?

 愉快な御仁であることは認めるに吝かでない。しかしだ。それは主に人格面を指してのことだ。漫才のような形式に則って尚も面白さを維持出来るものなのかどうかと訊かれれば、莫大な量の疑問符を呈せざるをえない。その上コンテストの話を一切口に出さないところを見ると、エントリーの件を隠そうとしているのは明白だ。落選したのを知られるのが恥なのか。それとも確乎たる勝算があって、後であっと驚かせてやろうという寸法なのか。真相はその銀縁眼鏡の向こうに潜んだままだ。

「……そう考えると『夜と陽炎』の時代よりも、一人称の不在というのは今や相当切実な問題になっているのかもしれないな」

 彼の話はいつしか別の話題へと変わっていた。こうした気分の移ろいやすさは多少彼女に似ていなくもない。

「沈黙には二種類あるんだ。君はその二つの違いを良く理解しているはずだよ。敢えて言わないことと、言いたくても言えないことの違いを」

 いやいやいや判らないし考えたこともない。普通考えないってそんなもの。でもまぁこういうとき、発声が出来ないことが大きな助けとなるのは事実だ。返答に窮した場合も、それを悟られる心配がないからね。言いたくても言えないほうに、ひとりでに集約されていくから。

 ただ、今の彼の発言で、以前読んだとある探偵小説を思い出した。自己主張のない、あまりにも影が薄すぎる記述者。探偵が不意討ちみたく「ねえ、ヴァン」と話しかけてくれるおかげで、やっとその存在を思い出す程度の、存在意義のおよそ感じられない限りなく三人称に近い一人称。あの溜め方は強烈だった。あれが例えばスピードばかりが要求される昨今のお笑い界なら、致命傷になりかねないタメだったろう。比較対象が微塵もスマートでないのは、この際気にしないでおこう。つまり彼の言い分は大した問題ではない。そういうことだ。

 ストローでレモンティーの残りを飲み干す。懐に収めた布張りのカード入れがゴソリと音を立てた。

 彼は倦みもせず独り喋り続けている。内容はさておき、生態観察の対象としては申し分ない。ここまで形骸化した行動を遵守出来る人は稀だろう。建物も座席も同じ。話す内容だけがその都度変わる。ひょっとしたらこの喫茶店の中が、彼にとって唯一そういったアウトプットを可能にしてくれる空間なのかもしれない。環境の所産。

 果たして彼女をここに連れてきたことはあるのか? あるとしたら、やっぱりこの席に座らせるのか? 彼女に向かってどんなことを喋る? まさか、詮もない読書感想の吐露じゃあるまい。想像がつかない。彼が彼女と付き合っていること自体、考えうる事象の埒外にあるのだからして。うーん判らん。まあだからこそ、両者の様子を眺めるのが面白いのだともいえるが。

 彼と彼女は目下交際中のカップルであり、今日はその双方との媾曳きの日だ。三つの二股によって構成される、罪悪感とは無縁の風変わりな三角関係。決定的な差異といえば、彼女はほぼ毎回唇を求めてくるが、彼のほうはそれすらないということか。彼は少し神格化が過ぎるきらいがある。人をなんだと思ってんだか。


 二人と会った日の夜は、部屋の姿見の前に一糸纏わぬ姿で立ち、その姿を長らく眼に留めることを欠かさぬようにしている。儀式みたいなものだ。神の存在を前提としない、他人には全くどうでもいい儀式。

 帰宅したのは深夜近くのことだった。玄関の鍵を閉め、商売道具を片付ける。普段はこのタイミングで化粧を落とすが、全身を鏡に映す日はそれも後回しだ。薄暗い間接照明の中、一枚一枚服を脱ぎ捨て肌を外気に晒していく。固より風はないので澱んだ空気が生温く感じる。最後の下着を置き、鏡面に向かい直立する。胸許を覆う長い黒髪。彼女からは憧憬と羨望の、そして彼からは畏怖と審美の眼差しが注がれる、曲線美に彩られ均整の取れた見事な裸体。ナルシシズム? いや違う。これは戒めだ。困ったことに、一見完璧な女体にあって覆い隠しようのない不具合が、最大の汚点として眼前にありありと浮かんでいるのだから。明らかな欠陥。いや、これは余剰というべきだろう。声を持たぬ女体は、等価交換でもあるまいに不要な器官を具えてしまっていた。

 鏡の向こうには美しき半陰陽……表情の失せた顔で静かに立つ、男なのか女なのか、性別すら曖昧なセラフィタ・セラフィトゥス。

 いつぞやの彼の台詞が脳裏を過ぎる。『鏡はね、左右を逆に映しているんじゃないよ。前後を逆に映しているんだ』

 鏡の向こうの虚ろな顔が、皮肉っぽく唇を歪めた。

 シャワーでも浴びるか。

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