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 なるほど。この距離と角度なら、声を掛けられると思わず立ち止まってしまうのか。

  彼女との待ち合わせ場所へ向かう道すがら、呼び止めたのは辻占い師と思しき黒衣の女性。無視するには近すぎるが、断りを入れるにはやや間合いの浅い、絶妙のタイミングだった。

 お代は結構ですので占ってあげましょう、間を置かずにそんなことを言いジャラジャラ筮竹を振り鳴らすさまを、なんということもなくぼんやり見やる。よほど暇なのだろう、占いの押し売りとは。いや無料だから暇潰しと言うべきか。付き合う道理はないけれど突き放すほどの嫌悪もない。どの程度のお手並なのか興味がなくもないし、時間ならまだある。

 もうじき夕刻。人通りの少なくない郊外のアーケード街。長らく鎖された時計店のシャッター前に、矩形の卓子を覆う白布と粗末な黒装束の対照が些か場違いに映えている。行き交う人らはおしなべて忙しない感じだ。

 手相見や占星術師の女性は少なくないけれども、中国易となると稀少種なはず。筮竹の数え取りに併せて年代物の算木を凡て並べ終えたところで、占者は坐したまま嘆息した。

「失礼ながら、あなたは何かこう、他人を騙すことで安らぎを得ているような、嘘偽りを日々の糧にしているような、そんなところがありますね」

 言い回しは、まあ悪くない。占いたるもの直接的な言及は避けるに限る。古今東西の歴史がそれを雄弁に物語っている。適度に曖昧な物言いこそ最上の策。あとは人間の最大の武器たる想像力が勝手に欠落箇所を補ってくれるから。

「天水訟の卦が出ております。争いごとに巻き込まれる可能性大ですよ。気をつけて下さい。取るに足らない些細なことも充分原因となりますので」

 そんなふうに言われても、世の中取るに足らないことのほうが圧倒的に多いんだよね。さて、この先一体どうしたものか。実のところ占いの手際が見たかっただけだから、内容に関しては別段どうでもよかった。森羅万象を六十四の卦に絞るのは些か力業だし性急に過ぎる。

「どなたかと待ち合わせでもしていらっしゃるのでは? だとしたら、その方との会話には要注意ですよ」

 同業者であることは報せなくてもいいとして、問題は口が利けないことをどうやって伝えるかだ。いや、その必要もないか。そこまで卦で判れば大したものだけれど。

「ねえ、何してんの?」

 またもお呼びが掛かった。易者とは違う声。彼女だ。暦の上では秋なのだがそれでもまだ暑い日が続いていたから、薄手の紫のキャミソールを可愛らしく着こなしている。ちっとも優雅に見えないのは端的に色気が感じられないから。彼女の魅力はむしろその天真爛漫な小悪魔性にある。小悪魔性の定義についてはここでは触れない。というより定義なんてのは大概つまらないし。

「まさか占ってもらってたの?」呆れたように眼を円くして語尾を上げる彼女。「自分も占い師なのに?」

「あら、そうだったんですか」これには易者も思わず顔を綻ばせた。「失礼しました。ふふふふ、なんだか雰囲気が他の方々とは違うなと思っていたんですよ。でも、それならそうと一言おっしゃって下さればよろしかったのに」

 慇懃なその言葉に見る見る表情を険しくした彼女は、早く行こッと腕を取ると、親の敵でも見る眼で易者を睨めつけ、すたすたと大股で歩き出した。困惑を極めた易者の相貌をちらりと視界に収め、申し訳ないとは思いながらもなんだかいい顔してたなぁと笑いが込み上げた。当然笑い声にはならない。感情の発露は顔の筋肉の動きに限定される。

「なにニヤニヤしてんの、もう」

 彼女はそれすら許さないようだ。不自由極まりないが致し方あるまい。チェシャ猫みたく微笑みだけ残して消え去るわけにもいかないので、大袈裟に畏まり肩口にある彼女の拗ねたような小さい顔を見下ろす。

 早く着いちゃったから、そのままあなたの来る方向を辿ってたのよ、正解だったわね、案の定変な人に捕まってるし、一瞬知り合いかとも思ったけど、そんなふうでもなかったしね、あなたのこと知らないからって無神経なことまで平気で言ってくるし……リズミカルに歩きながら滔々と語った彼女はそこで言葉を切り、やや間を置いて、

「んで、占いの結果はどうだったの?」

 それが本音か。占い好きなのは先刻承知だが、自分以外の運勢も気になるのかこの娘は。

「どうせしょうもないことばっか言われたんでしょ」

 待ち人との会話に気をつけろだって、とは口が裂けても言えない。二重の意味で。それに一方的に嫌われてはいるものの、あの易者は決して無能ではない。化粧や装いを観察しただけで、誰かとの待ち合わせであることを見破っている。

 直接的な返答は避けることにして、最小限の手振りでお茶を濁す。

「ねぇねぇ、そんなことよりさ」

 ところが当の彼女は既に別の方面へと興味が移ってしまっていた。まあ、この振り回される感じが慣れてくると存外心地好いのだけれど。

「昨日歯医者に行ったんだけど、そこで面白い話聞いたんだ。キスで虫歯が移るっていう話」

 秋物の服を買いにセレクトショップへ向かう途中。彼女は弾むような口調でそんなことを言い出した。

「生まれたばっかりの赤ちゃん、歯がないでしょ。その口の中って、実はまだ虫歯菌自体も存在しないんだって。それがなんで虫歯になっちゃうかっていうと、大人の……ていうかほとんどママね、ママの唾液が、キスとか、あと噛み砕いてあげた食べ物経由で赤ちゃんの口に入って、そこに混じってた虫歯菌が棲み着いちゃうからなんだってさ」

 風にそよぐ彼女の髪から清潔そうな香りが漂ってきた。知っている話なのだがおくびにも出さず、神妙な面持ちで聞き入るふりをする。言葉の不在はここではむしろありがたい。

「でもさ、こういうスキンシップみたいなことも駄目って言われたら、もうどうやって可愛がったらいいか判んないよね。どんなに虫歯が可哀想だからって、自分の子供に全然キスしないのはおかしいと思うんだ。ね、そう思うでしょ」

 一概にそうとも言えないのは、口腔内に常駐する菌類にはミュータンス連鎖球菌以外にもサリバリウス菌やサンギス菌といったものがあり、こちらはミュータンス菌の付着を防ぐ働きをしてくれるからだ。先にサリバリウス菌やサンギス菌が移った子供は虫歯になりにくくなる。だから赤ちゃんにキスをする行為は、いずれの可能性をも内包したギャンブルのようなものである。

 ギャンブルというと聞こえが悪いが、〈虫歯の出来ない人は、つまり幼少時に親から愛されなかったわけだ〉などという噴飯ものの風説に比べたらよっぽど公正だろう。彼だったら、口の端をひん曲げて『誤謬論理だ』と切って捨てるに違いない。

「なんかさ、ヤマアラシのジレンマみたいな話だよね。好き同士だからこそ、抱きしめたら傷つけちゃうっていう。我が子に痛い思いをさせたくない気持ちも、判るっちゃ判るしねぇ。愛情を取るか虫歯を取るか。んー悩むわあ……あ、だったらほっぺにキスすればいいのか。要はママの唇と赤ちゃんの唇が直接触れなきゃいいんだよね。一回口にキスする代わりに、五回でも十回でもほっぺたにチューすればいいんだ。そうだそうだ、これで愛情も伝わるでしょ。よし、これで解決だね」

 思わず吹き出しそうになった。そもそも解決するしないの問題じゃないっての。それでも明るさを取り戻した彼女を見ていると、胸の痞えが取れて和やかになる。心安らぐひととき。丸めた紙片を蹴って走る小学生たちとすれ違った。走れ走れ。走れるうちに。もっと速く。走る意味について考えが及ばない、今のうちに。

 ショップに到着だ。彼女に合う服を探すのが唯一の目的なので、『あなたも服買いなよ』『これなんか似合うんじゃない? スタイル抜群なんだしさ』と勧められても首を振るしかない。最低限の見映えで充分だからだ。ただし彼女の衣装となるとそうもいかない。彼女のセンスはややもすると実年齢を度外視しまくったハイティーン向きカジュアルに突っ走りかねないので、その辺のバランスを見て取るべく服選びを手伝うのは当然の成り行きだった。

 服を当てて子供のようにはしゃぐ彼女が眩しく見える。口角の下がっている人は幼少期に笑顔の乏しい生活を送っていた……これもかつて彼女から聞いた俗説だが、どのみちこの娘には関係ない話だ。

 会計を終え外へ。穏やかな風が心なしか涼しさを帯びていた。歩道を渡った少し先にある、行きつけのシーフードレストラン。客の入りは全席のおよそ半分。窓際の二人掛けの席に座り注文を済ませると、彼女はテーブルの角をトトトンッと軽やかに叩いた。

 占いの催促だ。

「お笑いグランプリの結果が知りたいな」机上に広げた裏返しの大アルカナ二十二枚を勝手知ったる様子でシャッフルしながら、彼女は羞恥に頬を染めて言った。「彼、自分のネタいじられるのがイヤみたいで、あたしの意見なんてちっとも聞いてくれないけど、でもあなたの占いの結果次第で、アドヴァイスみたいなことなら何か出来るかもしれないしね」

 一つの山にまとめたカードを三つにカットし、また一つの山に。

「はい」

 カードを受け取る。微かに触れたその手は思ったより冷たい。コンビ名でも訊いておこうかと思ったけど、結局やめておいた。

 展開法(スプレッド)はタロット占いの大定番〈ケルト十字〉。原音に忠実にタロウ・カードだのタロウ占いだの呼ぶ向きもあるが、正式な読み方なんて心底どうでもいいので専らタロットと一般的な呼称を用いている。無論声には出せないから心の中で。

 山の上から数えて七番目のカードを、定められた配置に従い順番に置いていく。使う枚数は全部で十枚。通常は小アルカナ五十六枚を加えた計七十八枚で占うため問題なく抜き出せるが、二十二枚しか使わない簡易版だと一度に三枚しか抜き出せないので少々工夫が要る。

 テーブルに配した十枚の小宇宙。彼女の求めた答えが、ここにある。

 現在を示す第一の場。カードは〈隠者〉の正位置。

 障害を示す第二の場。〈愚者〉のカード。

 顕在性を示す第三の場。〈塔〉の正位置。

 潜在性を示す第四の場。〈吊された人〉の正位置。

 過去を示す第五の場。〈運命の輪〉の正位置。

 未来を示す第六の場。〈死神〉の逆位置。

 自身の問題を示す第七の場。〈魔術師〉の正位置。

 環境を示す第八の場。〈恋人たち〉の逆位置。

 願望を示す第九の場。〈星〉の逆位置。

 そして結果を示す第十の場。〈審判〉の正位置。

「なんかやだなぁ。未来のとこに死神がいる」

 けれども上下が逆さだから、意味合いは相当変わってくる。彼女にカードの意味が記されたメモ帳を手渡した。ここでは最早占い師は運命の語り部(フォーチュン・テラー)ですらなく、単なる媒介に成り下がっている。それぞれのカードの解釈さえ相手に委ねてしまうのだから、これでは怠慢と誹られても仕方ないところだ。口頭で伝えられないのを考慮した上でも。

 彼女はこの結果をどう捉える? 最後の場のカードたる〈審判〉が最重要事項であることは疑いえないが、他にも二、三注目すべき箇所が見受けられる。二番目の〈愚者〉、八番目の〈恋人たち〉の逆位置、それに大アルカナ二十二枚中最悪のカードともいうべき〈塔〉が出ている点も看過出来ない。見た感じでは五分五分といったところだけれど、〈審判〉が正位置で出ているため結果オーライというか割と良好な全体運ではなかろうか。問題は〈愚者〉のカードだろう。この第二の場に顕れた〈愚者〉は、全二十二枚の大アルカナの中で唯一番号が振られていない奇妙なカードであり、解釈も非常に難しい。従って他の場のカードを盛り込んでの総合的判断が不可欠となる。

 彼女は一つ一つのカードの意味を読み上げ、うーんと唸ってテーブルに今一度視線を落とした。

「〈復活・位置の変化・更新・結果〉……このお終いのカードは、最終的に審判が下されるってことだよねぇ。あたし、その結果がなんなのか知りたいんだけどな。逆位置のほうに悪いことばっかり書いてあるから、これはいい結果になるって考えていいの?」

 微笑み返す。リーディング結果としては上々だ。参考程度に、障害の場に配された〈愚者〉を指差して意見を促す。

「〈夢想・愚行・極端な熱狂・ゼロからの出発〉? ……ダメ、良く判んない。どういうこと?」

 縋るような眼で見られても、返事のしようがない。それに最終判断を質問者本人に任せる方針は、彼女も前々から知っていることだ。

 残りの九枚と異なり、第二の場だけは例外的にカードが第一のカードの上に横向きに並べられる。その時点で従来の正位置・逆位置という見方が通用しない上、場の全体から真意を汲み取らねばならないとなると、経験の少ない彼女に理解が困難であるのも無理はなかった。

「思い当たる節が全然ないよ。あなたはちっとも愚者っぽくないし。身近な人じゃないのかな? だとしたら多すぎて絞りきれない」

 こめかみを掻いて頭を悩ませる彼女。自身の問題を示す場には〈魔術師〉の正位置が鎮座ましましている。かなり好感触の相なのだから、独りでそこまで思い悩む必要はない。どちらかというと環境を示す場に出ている〈恋人たち〉の逆位置のほうが気懸かりだが、そちらには全くといっていいほど思いが及んでいないらしい。

 示唆するべきか否か。刹那の逡巡。ここは報せずにおくことにした。環境の場から読み取れるのは、まず間違いなく彼の存在。ここでは相方と呼ぶのが相応しそうだけれど。しかも逆位置。やれやれと肩を聳やかしたくなる。

 年に一度の大イベント、大手お笑い事務所主宰のお笑いグランプリ。演目は漫才・コントその他面白ければなんでもオーケー。ウリはエントリーフィーさえ払えばズブの素人でも参加出来る間口の広さと高額賞金。決勝戦の模様がテレビ放映されることもあって注目度は高く、年々参加者は増加の一途を辿っており、予選会だけでも随分と長期間の日程が組まれているという。ただし彼女曰く、アマチュアが決勝進出を果たした前例はほとんどないとのことだった。

 彼のことは良く知っている。ともすれば、彼女より知っている事柄は多いかもしれない。どう贔屓目に見てもお笑いには不向きな人間だった。演芸からは最も程遠い人種だと、今までずっと思っていた。今もそうだけど。そんな彼が、どういう風の吹き回しか彼女を連れ立ってお笑いのコンテストに参戦するというのだから驚きだ。人というのは判らない。

 テーブルとの長いにらめっこののち、彼女は項垂れて溜め息を吐いた。料理が届いた。素早くカードを片付ける。

「ここで落ち込んでてもしょうがないよね、判んないものは判んないんだし。食べよっか」

 この過去を引き摺らない前向きさは紛れもなく長所だ。真似しようと思って出来るものじゃない。天賦の才だとさえ思う。熱々のグラタンを頬張る顔が愛くるしいのも、きっとそれなんだろう。

 彼女との時間はこれまでだった。表に出て、別れ際に口づけを交わす。通りの外れに立つ白樺の陰。クリスタル・グロスが付着し妖しく光る唇でにっこり笑いながら、彼女は、

「あたしの虫歯、移っちゃったかもね」

 そう言って蕾のような舌を出した。

 酒屋の軒先に据えられた信楽焼ならぬ木彫りの大黒様が、ニタニタ厭らしく笑っているのが見えた。おいおいそんなとこで何イチャついてやがんだ、こんなお天道様の沈まねえうちから盛りやがって、とでも言いたげに。

 何はさておき、易者の忠告は的外れだったわけだ。だが、それを責める気は更々ない。質問者の希望に反して、占いというのは百パーセント言い当ててはならないものなのだから。確かに人間は蓋然性の高いものを信用するけれど、あまりにも百発百中だと今度は以前ほど信用しなくなる。猜疑心が擡げ、絡繰りを勘繰り出す。人間は完全無欠なものに耐えられない構造になっているのだ。良くて八割。それ以上の的中率は商売の妨げになる。完璧を追い求めながら、その現前を容易には認めようとしない心理のバランス。人を相手にするからには、占いは心理戦となることを免れえない。会話だってそういうものだろう。当事者らが意識するしないに関わらず。

 遠くを歩いていた彼女が、振り向いて大きく手を振った。勝ち負けの存在しない心理戦に、一体なんの意味があるんだか。手を上げて応え、ゆっくり踵を返した。

 もし機会があれば、あの易者を占ってみるのも面白いと思った。占い師は自分自身の運勢を占うことが出来ない。出来ないなんてことはないだろうが、本来の精度に関係なく占いは必ず外れると言われている。じゃあ二人で相互に占い合ったら? 自分を占う禁忌は回避しているわけだし、大きく外すことはないはずだ。相手の人生云々はさておき、占術という行為を考察するにはお誂え向きの材料ではなかろうか。占ってあげる代わりに占ってもらう。等価交換の成立。ことによると従来の手段では到達不可能な、占いの本質に迫れるかもしれない。

 ん? 本質? 自嘲気味に舌打ちする。本質か。もしくは定義か。どっちでもいいや。あーしょうもな。彼女の残り香は、とうに消え失せていた。

 携帯電話がメールの着信を報せた。相手と内容を確認して携帯を閉じる。用事が一つ増えた。占いの当否は次の現場まで持ち越しとなった。

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