あなたはどんな人ですか?
【1】
「君、また本を読んでいるんだね」
不意に後ろからそんな声がした。私、驚いてしまって背すじがピンとなってしまった。
「どう? 面白い? その本。なんて名前なの? どんなジャンル?」
ああ、何処から聞こえるんだろうこの声は。きっと空から届いているのかもしれない、と思った。私は空というものに一種の憧れを持っていた。他のみんながアイドルに憧れるように、モデルさんに憧れるように、私は空というものに憧れを持っていた。
だから、私はあなたの声を、空からの声だと思ったんです。だってあなたの言葉は何よりも美しく、本で知ったビードロのように澄んで、冬の夜空に映える星々のように綺麗だったから。
【2】
私はずっと世界を知らない。聴覚的に触覚的に嗅覚的に知ることはできていたから、そんなことを言うのはとてもおこがましいことなのだけれど。つまり、一部に限って世界を知らない、ということ。
耳は大事。耳が聞こえなければ世界の音を知ることができない。楽しげな音楽も、鬱々とした気分をすぐに変えてくれる音楽も、悲しい時にはそっと傍で慰めてくれる音楽も聞こえてきはしないのだから。
パンが焼き上がった音、レンジがチンする音、信号機が鳴らす青の音、どれもが陳腐でありふれているけれど、その音が聞こえるのが何よりもの幸せ。その一見なんでもない音が、一日に私の体に知らず知らずリズムを与え、刺激を与えてくれている。何も聞こえない世界なんてどんなに怖いんだろう!
心を切り替える時はどうしたらいいの? ああ目が見えるのだったら美しい風景を見るのもいいね。その場に行かなくたってテレビ越しにその風景を見るのもいい。ゲームをするのだっていいよね。心がずいぶんあったまるから。みんなゲームを一緒にしている時は楽しそうにしてる。はしゃいでいる。五歳は若返りしているよね、うん。私はそれがとても羨ましい。
音。音。音。
どうかな。目に見えるものとどっちが勝っているかな。
片耳。それだけで世界はずいぶん変化する。両方聞こえる人は毎日が映画館なんだって! 羨ましさを覚えると同時に、いつもそうだったら頭がガンガンしないかなあ、とか余計なことを考えてしまう。両方聞こえるだけで幸せで、きっと幸せなはずなのに。
片方しか聞こえないとずいぶん不便だよ。音楽だって存分に聴くことだってできやしないんだから。イヤホンを手に取って、その片割れがあるのを感じたら、私はいつも微妙な心持ちになってしまう。ああ、私の聴いている音楽は偽者。どうしたって偽者にすぎないんだ、と思って、自然涙が出てきてしまう。どうなんだろうか、両方で聴く音楽というものは。私羨ましかった。羨ましかった。本当の音楽っていうものを、知りたかった。
喧騒が世界を支配している時、私はあなたの声をよく聞き取れない。両方あると聞き分けというものができるらしいんだけど、片耳じゃそう器用なことはできない。不必要な世界だって、どうしても耳にしてしまうのだ。あなたの言葉だけ聞いていたかった。
目が見えるのならば唇の動きが追える。それでもずいぶんな助けだ。でも私はそうはできやしない。ほら、こういう時だって、目は大事でしょう。
ね。
あなたはどんな人ですか?
【3】
肌。肌からの世界はまた多様的だ。触覚、痛覚、温度感覚。私は触覚があるから本を読むことができる。指から光が洩れるようで、そこに世界が生み出される。私はそのざわざわとしてにぎやかな感覚が好きで、何度も近くにある図書館に通っていた。図書館には数こそ少なかったけれど、それでも私を満足させるには充分だった。私は一冊読み終えると、次の一冊に手を伸ばし、あらかた読み終えると、また一周まわって初めの本を読む。指でなぞり、私は私なりの世界を生み出していく。
カン、カ、テン、ピイ、チチチ、タタタタ、トントトト。
ああ、にぎやか。とてもいい、心地いいリズム。何度読んでも私は楽しくなって、嬉しくなって、一冊の本に、色んな世界があることを改めて感じて、私は、いつだって世界から孤独じゃなく、いつも傍に寄り添って、一緒だった。
タンスに足の小指をぶつけたり、『お母さん、熱い!』お風呂が沸騰するくらいに熱くて、お母さん笑って『ああごめん』。娘をゆでダコにする所だったのに、お母さんってなんて薄情な人なんだろう。くすくす、ああおかしい。
痛さだって熱さだって冷たさだって私はそれを感じるたびに世界を感じる。私は独りじゃない。
もしかすると私はこうだったから世界をより深く知れているんじゃないか、って思ったりする。おこがましいね。目で見る世界はもしかすると何倍も何万倍も凄くて圧倒されるのかもしれないのに――。私はそう思うと、また羨ましくなってしまった。
ね。
あなたはどんな人ですか?
【4】
匂い。私は、朝の匂いに目を覚ます。パンの匂いだ。お母さんパンに凝ってるから、どうも食欲をそそられてしまうのだ。お母さんは『食いしん坊ね』と言って笑うけれど、それはお母さんに罪があるんだ、と思って私はプウと頬を膨らませて、それからやっぱり笑ってしまう。あはは、やっぱりパンはおいしい。お母さんの作るパンはとても上手。
コロに挨拶をして学校へ行く。コロと挨拶をする時、私は決まって頬ずりをしてあげるのだけど、懐いてくるコロは匂いがいい。私はコロの匂いが好きだった。頼りになるし、きっとかっこいからね。
学校までの道は自然に溢れていて、草いきれが凄い。草の匂いがして、それから花の匂いがする。私はどちらも好きだった。やっぱり、あれだもの。世界が感じ取れるから。受け入れられた気がするから。
世界から孤独っていうのは、怖いよ。例えばこの宇宙に、地球しか生命がいないんだ、ってもし分かった時の感覚。なんだかひどく寂しいと思う。広い一軒家に、例えば私が独り。
学校では私は優秀な方だった。先生に『君島さんは、頭がいいねえ』と言われると、嬉しくてたまらない。褒められるのはやっぱりいいものだ。これ、ちょっと違うけれど、これもある意味世界に受け入れられた、って感覚かも。
私、夢がありますから。ですから、こんなに頑張っているんです。司書です。私がなりたいのは。本がどこにあるかだって、私全部覚えてます。私パソコンだって上手いんですよ。ですから、本の管理だってできると思います。ほら、音声付きのパソコン。学校にあるじゃないですか。いじわるしないで下さい。あれです。あれで私パソコンができるんですよ。家にもあります。お母さんが買ってくれたんです。私嬉しかったんです。私はその時、絶対お母さんのためにも立派な仕事に就こう、って思いました。
『偉いね』。その言葉に私は、私ってつくづく子どもだなあ、と思いながら、やっぱり嬉しくなる。私、がんばっているでしょ。私、えらいでしょ。
世界から受け入れられている。その感覚が私、嬉しかったから。
私はそういう境遇だったから。だから、もしかすると私一人前に頑張れている。
ね。
あなたはどんな人ですか?
【5】
その日は小雨が降っていた。
「君島さん、こんばんは」
彼女の小さな声が、静かな図書館の中でよく聞こえた。 彼女の声は、とても心地がいい。私の耳の穴の形にぴったり嵌まっているんじゃないか、って思えるくらいに心地いい。夏の風鈴のように、綺麗な声だ。
「こんばんは、鍵野さん」
私は左の方を向いて鍵野さんを迎える。鍵野さんは私が右耳に疾患を抱えていることを知っているので、必ず私の左に座るようにしているのだ。私もその厚意に応えて、左の席を空けて座るようにしている。鍵野さんはその空いた席を引いて座った。
「今日はね、君島さんの気に入りそうな話を見つけてきたよ」
彼女は本当綺麗な声でそんな言葉を言う。私は首をちょっとかしげてみせる。
「えっ、どんな話?」
「こんな話」
本が机に置かれた音がして、続いてページをめくる音がした。
『水晶が立てる音が、空気を隅々まで透明にさせる。水色の淡い空気の球があちらこちら、桃色の淡い空気がそちらどちらにぷかぷか浮いています』
『でも幼い少女が、ちょん、と腰をかけると、淡い空気は柔らかく少女を受け止めてくれます。彼女はそこから見る空が好きでした』
『空は時に空色で、少女の心を空色にします。少女はそんな時、所構わず裸足で駆け回って、止まることを知りません。近くを流れる川も今日の空色になり、水しぶきを立てると飴玉になるものですから、少女は何回だってはしゃいでしまいます』
『空は時に夕焼け色で、少女の心を夕焼け色にします。少女はそんな時、淡い空気の丸椅子に座り、両手で顎杖をついて、彼方を見つめます。彼方では思い出が映り、昨日今日のできごとがありありと思い出されます。彼女はそれを見るたび、ちょっとセンチメンタルになってしまうのでした』
『空は時に夜色で、少女の心を夜色にします。少女はそんな時、空に瞬く星を見ては、そこに住んでいる人々の物語を考えます。流れ星が降るのを見ては、ここに誰かやってくるんだろうか、とワクワクします』
『少女はこの世界で独りでした。けれど、少女はさみしいなんてことを考えたことはありません。少女には彼方の人が『実際に』いると思っているのだし、それで満足だったからです。箱の中を覗いてみなければ、そこに猫がいるかどうか分からないように、きっとあの星々にも人がいるのです』
『……そして、少女は、今日も優しい夢を見ながら、眠りにつきました……』
【6】
鍵野さんと私が出会ったのは、一ヶ月前ほどだ。私がいつもの図書館で本を読んでいた時、彼女が声をかけてきたのだった。彼女は私が読んでいる本に興味があったようで、私がその本の説明をして、渡すと、彼女は興味津々に読んでくれた。
『ふうん、こうなっているんだね。私からすると、英語より難しそうだけど、君はどうなの?』
『慣れたら簡単だよ。すらすら読めちゃうよ』
『へええ、バイリンガルってわけかな』
私は思わず苦笑してしまった。そういえばそうだね、と私は遠く凄い存在に思っていたバイリンガルさんを少し身近に感じた。これも、立派なバイリンガルさんだ。
それから彼女は、『私、鍵野、っていうんだ。鍵野、儀』と自己紹介した。私も、『君島。君島理恵です』と自己紹介した。私と鍵野さんは、こうして友だちになった。
鍵野さんは私が図書館に行くとやってきて、こういう本があるんだよ、と紹介してくれるようになった。それは知らないお話で、しかも私の感性に合って、非常に興味を惹かれた。彼女と私は、誰もいない読み聞かせ室を使わせてもらって、いつも本を読んでいた。
鍵野さんの声は、本当に心地がいい。鍵野さんが選んできてくれる本がいつも私の感性に合うように、彼女の声はいつも私の感性に合い、心を穏やかにさせた。
鍵野さんは表現に強弱をつけて、感情をつけて、時に面白く、時に悲しく、時に心を温かくさせてくれる。
そして、何よりお礼を言うべきなのは、長い長いお話を、私なんかのために、何の見返りも求めずに読み聞かせてくれることだ。
私がある時申し訳なく思って、お母さんが作ったパンを渡そうとしたけれど、鍵野さんは『別にいいよ』と言って受けとらなかった。でも、私があんまり申し訳なそうに体を小さくしたためか、鍵野さんは苦笑して、それじゃあもらおうかな、と受けとってくれた。明日になって、『あのパン、おいしかったねっ』と声を弾ませていたのにはクスリとしてしまった。なら、今度からお母さんに頼んであげようか? と言うと、それじゃあお母さんに悪いよ、店で売ってるくらいのレベルなんだから、お金を払わないと、と言ってくる。私はそこで『別にいいよ』と返してやった。鍵野さんも私もくすくす笑った。
お母さん喜ぶから。そう言って、鍵野さんを納得させた。
【7】
鍵野さんはどんな人なんだろう。
私は鍵野さんと仲良くなる中、そんな思いが次第に膨らみ始めていた。
鍵野さんは近くの女子校に通っていると言っていた。そこではある時、学校の時計の上に生徒がよじ登っていたことがあったそうだ。どうしたらあそこまで登ることができるのか分からない、と鍵野さんは笑っていた。
私は、鍵野さんがどんな姿をしているのかも気になり始めていた。
私がパンを手渡す時、彼女の手に触れたことがあった。私はその時から、彼女の姿と言う物を意識するようになったのだ。
鍵野さんの姿。
私の想像では――、ほとんど声からのイメージなのだけれど――、すらりと背が高くて、綺麗で、かっこいいのだと思っていた。
そこで私は試しに、顔なじみの司書さんに鍵野さんの容姿について尋ねてみた。すると司書さんは『本当、綺麗な顔立ちをしているよね。中性的で、私があと十歳若かったら告白していたかもしらんねえ』と興奮気味に語っていた。司書さんは女性なのに、告白だなんて。私はおかしいな、と苦笑しながら思った。
鍵野さんは、やっぱり綺麗な人なんだ。
その事実に気づかされると、私はますます縮こまった。どうして、綺麗な人が、私なんかのためにいつも本を読んでくれるんだろう――。
【8】
ある日、鍵野さんがまた本を読み聞かせてくれた。その本は、とても悲しいお話だった。少女が、一緒に暮らしてきたタヌキとお別れしてしまうお話だ。私はひどく泣いてしまって、鍵野さんにハンカチで拭ってもらうほどだった。
『ありがとう、こんな悲しいお話、聞かせてくれて』
『いいよ、別に』
彼女の声は心なしか嬉しそうだった。私が泣いているのがそんなに面白いんだろうか、と思って噛みつくと、鍵野さんは『そうじゃないよ』と笑っていた。
私はいくらか拗ねて、パンを鞄から取り出して、ずいっ、と渡す。彼女はまた笑って、『機嫌直してよ』と言いながらそのパンをもらった。その時、
『――痛っ』
と不意に彼女が声を上げた。
『えっ』
私は自分がつっけんどんに渡したのが悪かったのだろうか、と思って慌ててしまった。私は拗ねた気持ちをすっかり忘れて、青くなって彼女の手を取る。
『だ、大丈夫? 痛いの? わ、私のせいっ?』
『い、いや、違うよ。ただ、ちょっとね』
鍵野さんはやや慌てた感じで私の言葉を否定すると、私の手の中で指をもぞもぞ動かして、
『……ちょっと、手を怪我しちゃったから、それがパンの袋に当たって、ね』
『ご、ごめん』
私はすぐに彼女から手を離すと、やっぱり私のせいでもある、と思って、私はまた小さくなる。すると、彼女はもう片方の手で私の頬に触れてきた。
『――ううん、いいんだよ』
――柔らかい掌。でも、どこか凛と張りつめた掌。
私はその手に、そっ、と触れると、そこから伝って彼女の体に触れた。
腕に、肩に、首元に。
彼女はそこに確かに存在していて、彼女の世界があった。
温かくて、温もりがあった。
髪の毛はわたしよりちょっと長くて、私よりずっとさらさらしていた。
頬は掌より柔らかくて、より彼女を感じた。
『――あっ』
私が我に返って、とても大胆なことをしてしまった、とあわあわしていると、鍵野さんは『ううん』と笑って、それから体をふわりと私に軽く預けてきた。
『……別にいいよ』
そう言う彼女の声は、やはりどこか、嬉しそうだった。
【9】
雨がいつもより結構降っていた。
私はその日も図書館で本を読んでいた。雨が降る中の読書もいいものだ。雨はざあざあ降りでない限り、心を落ち着ける音楽を奏でてくれる。世界の音。世界の音楽。自然が作る音楽は、自然の生き物の耳にぴたりと合う。
となると、鍵野さんも自然の生き物というより自然そのものなのだろうか。だから私の耳にぴったりと心地よく、どこまでも落ち着く声を持っているのかな、と思う。
そんなはずは無いよね。私は自分で自分の言葉を打ち消す。
しかし、鍵野さんは今日とても遅いな、と思う。
腕時計のガラスを開けて、文字盤に触れ、針に触れ、もう五時半は回っている。彼女はいつも五時には来てくれるのだった。
私はなんだか嫌な感じがして、雨の降る外に出た。玄関のドアとドアの間には、コロが、じっと待っている。私はコロと一緒にあてどもなく鍵野さんを探しに行こうと思った。
けれど、コロは何を思ったのか、私をどこかへと一心不乱に連れていく。
私がコロに引っ張られて走っていくと、私とコロが立てるばちゃばちゃ、という音の他に、何か物騒な音が聞こえてきた。
『大丈夫ですか!』『担架持ってこい! 担架!』『うう、こりゃあひどい』
もしかして、鍵野さん。ざあざあ降りになっていた雨と喧騒が私の片耳を責め立て、必要なことを知りたい私をイライラさせた。どうしたの。どうなったの。何があったの。ねえ、誰か誰か、教えて、教えて――。
「――儀ちゃん!」
女性の声がした。
お母さんですか、という声が聞こえる。
私は、唇を震わせた。やがてそれは全身の震えに繋がった。
【10】
鍵野さんが目の前で、どのような姿になっているのかは分からない。
ただ、片手片足を骨折したこと、頭を強く打ってここ一週間意識不明なことだけは分かっていた。
鍵野さんは学校での用事が長引き、図書館へ急いでいた所を曲がってきた車にはねられたという。どちらにも不注意な所があったらしかったが、私は、鍵野さんの不注意はきっと私がさせたんだと思って、悲しくなって、泣いて泣いて泣いた。
私は彼女の姿が見られないのが辛かった。彼女の姿を見られたら、痛みを少しでも知って、少しでも分かち合うことができるのに。私は未だ夢のような気がして、ふらふらとしていた。
私は学校が終わると、すぐに彼女のいる病院に行き、その時には目を覚ましていてほしいと願うのだけれど、昨日と変わりない様子で、私はその度に悲しくなった。
私がこうなるべきなのに。こうなるべきだったのに。神様はなんてひどい人なんだろう! 理不尽だ、理不尽すぎる。なんで神様は鍵野さんをこんな目に遭わせたのだろう?
きっと、彼女が神様みたいな人だから、嫉妬したのに違いなかった。
そうでなければどうか神様、どうか鍵野さんを元気にしてください。
私、私――、本当、分かったんです。
私、彼女が――鍵野さんのこと。鍵野さんがいないと、もう頭がダメになってしまって仕方がないことを。私、鍵野さんの声を聞きたい。鍵野さんとまた笑いあいたい。ふざけあいたい。
涙がこぼれた。どれだけ流れても尽きないものなんだと思った。
私は苦しくなって、どうしようもなくなって、
救いを求めるように、いけないと思いつつも彼女の大丈夫な手に触れ、いつかの日のように伝い、彼女の頬に、恐る恐る触れた。
彼女の頬は、あの日と変わりなく、柔らかくて――温かかった。
「っ」
その時、誰かの手が私のその腕に触れた。
私は誰かが止めに来たんだと思った。
私は「すいません」と慌てて手を引っ込めようとした。
でも誰かの手は私の腕をにぎって、離さなくて。
ああ。
この、感触。
「――鍵野、さん」
鍵野さんは、「君島さん」と呟いて、それから何かに気づいたように息を呑んだ。動く手で自分の目にかざし、それから口に当てる。
「私、目も見えるし、……しゃべれるんだね」
私が泣く中、
「なら、また……、君島さんに本を読んであげられるね」
と、あの声で、言った。