コトノハ1 ~雪とユキ~
★
もう、動きたくなかった。
お腹がすいて、すいてすいて、立ち上がる力も声をあげる力も残っていない。
寒さに耐えようとずっと物陰に隠れて蹲っていたけど、とうとう震える力すら無くなってしまったのだろう。証拠にボクはいつのまにか、白い絨毯に手足を投げ出していた。
気づいた時には、寒さも感じなくなってしまっていた。お腹が減った事なんて、どうでもよくなった。
眠たくてたまらない。こうなったら、もう寝てしまおう。
明日の朝にはきっと、この雪も止むだろう。そうしたら、この凍てつく寒さももう少し優しくなるに違いない――
「ううん。明日も雪だって」
ふいに上から声が聞こえた。重たい瞼をこじ開けると、ボクを見下ろしている何かがいた。
何かがいたけど、それが何かを確認する前にボクは再び瞼を閉じた。だって、眠いんだ。何かがなんだって、どうでもいい。
「明日はもっと寒くなるって聞いたよ」
最悪だ。
明日が来ても、もっと寒いなんて。太陽はいったい何をしているのだろう。仕事をサボるにもほどがある。
「太陽を責めたって仕方がないよ。だって、太陽は太陽でしかないもの。そこにただ在るだけなんだから」
高い音で、おかしそうにくすくす笑っている。声を出してもいないのに、ボクを見下ろしている何かは、ボクが何を考えているのかがわかるみたいだ。不思議だな。
もう一度、重たい瞼をこじ開けた。
真っ暗な夜の闇。遠い街灯の光を受けてうっすらとシルエットが浮かんではいるが、顔がよく見えない。
ぼんやりとしていてよくわからない影に、やっぱり見るのを諦めて瞼を閉じようとした。
「ねぇ、キミ。死ぬの?」
何でもない事のように淡々と、目の前の影はそう尋ねる。
え? ボク死ぬの?
「たぶん。そのまま寝たら死んじゃうと思うよ」
そうか。確かにボクは今、全ての感覚が鈍感になっている。これ、死ぬって事なのかな?
「うーん、そうとは言えないんじゃない? ケースバイケース、だと思うよ」
よくわからないことを言う。影にとってもそれは難しい質問だったようで、高い音が少し困った風に響いた。
「だってわたし、死んだことないもの」
そりゃ、そうだ。
でもキミはボクが死ぬ事がわかるんだね。
「たぶん」
なんでそんなこと言えるの?
「いままでたくさんの死を見てきたから」
そうなんだ。それはすごいな。
ボクは一度だけだよ。それも、つい最近。
「誰が死んだの?」
おばあちゃん。
「キミの?」
うん。ボクのおばあちゃん。
だけど、おばあちゃんには別に家族がいたんだ。でも、おばあちゃんが死んだら、みんな喧嘩ばかりするようになって、そのうちどこかに行っちゃった。
「キミはどこにもいかなかったの?」
行くあてもなかったし、しばらくはその家にいたんだけど、さすがにお腹が減って。町に出てみたんだ。
「お腹は膨れた?」
全然。だって、ボクが呼んでもみんな、無視して通り過ぎるんだ。
ごくたまにボクに気づいてくれる人がいたけど、目を逸らして忙しそうに歩いて行っちゃう。
ひどい時なんて、引き留めようとしたボクを蹴飛ばして先を急ぐ人もいたんだから。
「それは悲しいね」
うん。悲しかった。
ボクの言葉は誰にも届かない。
その内、声を出す事に疲れて、ここに蹲った。
家に帰ろうとも思ったんだけど、帰ってももう誰もいないし。そもそも適当に歩いてきたから、帰り道なんてわからないんだよ。
人の気配がして、慌てて飛び出して、助けてって言っても無視されて。その繰り返し。
諦めて、もう何日もここに蹲ってたんだ。
「疲れちゃったんだ」
うん。さすがに疲れた。
……そういえばキミは、ボクの事、無視しないんだね?
「だって、聞こえたもの」
ボクの声が?
「うん。だから助けに来たよ」
じゃあ、ごはんくれる?
「ごめん。わたし今、食べ物も、それを買うお金も持っていないんだ」
……なんだ。
じゃあ助けられないじゃないか。
「ごめんね」
謝る事ないよ。それこそ仕方のない事だから。
このまま死ぬとしたって、別にいいんだ。
おばあちゃんにまた会えるから。
最後に、ボクの言葉を聞いてくれたキミに会えてよかったよ。
「待って。食べ物は持ってないけどその代わりに、わたしがキミにできる事、一つだけあるよ」
キミがボクにできる事?
「うん。キミが約束してくれたなら」
ボクが約束すれば、何をしてくれるの?
「キミの願い、なんでも一つだけ叶えてあげる」
その言葉にぎょっとして、完全に瞼を開けた。
真っ暗な空に、浮かんだ大きな影――それは髪の長い少女だった。
本当になんでもいいの? そんなこと、キミにできるの?
「うん。キミがわたしと約束してくれるなら」
少女はジャンパースカートから出た膝を両腕で抱え込んでボクの前にしゃがんだ。
「どんなだって大丈夫だよ。キミが生きたいと願うんならそうなるようにする」
だってキミはただの人でしょ?
そう言うと(思うと?)、少女は困った顔で首を傾げた。長い、少女の腰まである髪がさらりと揺れる。
「信じなきゃ何も始まらないよ」
……そんなこといったって。
「ねぇ、何を願う? 生きたい?」
少女に急かされ、考えてみた。
生きたい……事はない。そんな気にならない。
だってもう、ボクの声は誰にも届かない。
いままでボクはずっと、おばあちゃんの作ってくれたご飯を食べて生きてきたんだ。おばあちゃんがいない今、ボクに食べ物を与えてくれる人はいない。この少女にねだったって……一度だけだって話だし。ボク自身に食べ物を用意できる技量はないんだ。また、ここで蹲るしかなくなる。
じゃあ、なんだろう。ボクの願いって。
ボクのやりたいこと……それは……。
「それは?」
大きな瞳を見開いて、ボクを覗き込んでくる少女を見上げる。
こんなこと言ったって、どうせ無理に決まっている。でも、彼女はボクの言葉を聞いてくれた人だ。どういう訳か、意思疎通できてるし。まだ少しだけ話していたいし……言うだけタダだろう。
「いいから、何? 早く言って」
恩返しがしたい。
「恩返し?」
うん。おばあちゃんに恩返しがしたいんだ。
「恩返しかあ。でも、恩返しって言ったって、キミはおばあちゃんに何をしてあげたいの?」
問われて困った。ただそう思っただけで、ほかに何にも考えていなかったから。
うーん……。何をしたら、おばあちゃん喜ぶかな?
「わたしはそのおばあちゃん知らないし。キミが考えてよ」
そんなこと言ったって。ボクにもわからないよ。
だって、おばあちゃんの言葉、ボクにはわからなかったから。おばあちゃんが何を考えていたのかなんて……。
「なら、わかるようになりたい?」
え?
「おばあちゃんの言葉がわかるようになったら、おばあちゃんへの恩返し、思いつくかもしれないじゃない」
まぁ、そうかもしれないけど……。
「じゃあ、決まりね」
すくっとその場に立って、少女はにこりとボクに笑いかけた。
「今からキミを、おばあちゃんが生きてた時間に戻すよ」
え?
目を見開いて、少女を見た。
そんなこと、本当にできるの?
「うーん、でもそれだけじゃ、不十分だから……」
腕を組んだ少女は細い眉を顰めてブツブツと、あーでもないこーでもないと呟いている。
でもやがて。花が咲くような笑顔で、ボクに笑いかけた。
「猫くん。キミを人にするよ!」
唖然と見上げていたボクに、少女はニッと白い歯を見せたのだった。
★
おばあちゃんの家の前に立ったボク。太陽を受けて地面に浮かんだボクの影は間違いなく人だった。
少女は本当にボクの願いを叶えてくれたのだ。
あの少女は一体何者なのか。考えても答えは出ないし、それよりなにより、おばあちゃんに早く会いたかった。
おばあちゃんはいつものように、広い庭の縁側に座って日向ぼっこをしている事だろう。いつものように垣根の隙間を通ろうとしたけど……体が大きくて、通れない。
それでもなんとか、頭だけは庭に入る事が出来た。草木の枯れた、冬の寒々しい庭。開けた視界に映る景色は、記憶している景色よりも少し小さい感じがしたが、この日向のにおい、間違いない。おばあちゃんの庭だ。
縁側に視線を向けると……いた! おばあちゃんだ!
おばあちゃんは膝の上に白い子猫を乗せたまま、小さな目を丸くして、しわしわの口をあんぐり開けてボクの事を見ていた。
でもその内、いつもの日向のような微笑みを浮かべて、ボクに優しい声をかけた。
「おや。今日はまた珍しいお客がきたねぇ」
あ。おばあちゃんの言葉がわかるようになってる!
嬉しくて早くおばあちゃんの傍に行きたいとじたばたして垣根を抜けようとした。でも、どんなに頑張っても首までしか入らない。
おばあちゃんに引っ張ってもらってようやくボクは庭に入る事ができた。おかげで垣根には大きな穴ができてしまったけど、おばあちゃんは笑って許してくれた。
膝の上には先客がいたので、仕方なくおばあちゃんの隣に座り、話をする。
ボクがおばあちゃんに恩返しをしたい事を話すと、おばあちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「でも、おばあちゃんは、僕に何もしていないよ?」
言われて、それもそうだと思った。だって、ボクは今人間の姿をしている。この姿でおばあちゃんに会うのは初めてだ。
「でも、あの、ボクおばあちゃんが大好きなんだ。おばあちゃんに何かしてあげたいって、それでボク……」
必死に伝えると、おばあちゃんはにっこり微笑んでぽんぽんと優しく背中を叩いてくれた。
「よくはわからないけれど、僕のその気持ち、おばあちゃん本当にうれしいよ」
「気持ちじゃだめだよ、おばあちゃん、何かボクにしてほしい事ない?」
「そうだねぇ……」
なんだか楽しそうに空を見上げるおばあちゃん。
「じゃあ、お菓子を一緒に食べてくれるかい?」
「それじゃあ恩返しにならないよ、だってそんなの絶対、ボクの方が嬉しいもの」
「そんなことないよ」
くすくすと愉快げに笑っておばあちゃんはボクを見た。
「最近じゃ周りの友達はみんな天国に出かけてしまってね、話し相手に困っていた所だよ」
「話し相手? おばあちゃん、話し相手がほしいの?」
「そうだねぇ。僕が時々こうして話し相手になってくれるとありがたいねぇ」
「じゃあ、なる! ボク、話し相手に! 時々じゃなくて、毎日来るよ!」
身を乗り出して必死に叫ぶと、おばあちゃんは笑ってボクの頭を撫でた。
★
人のお菓子って、なんておいしいんだろう。
甘くて少し辛くて、固くて柔らかくて。なんだか、幸せになる。
おばあちゃんが出してくれたお菓子をいつも、ほっぺたいっぱいに詰め込むボクに、おばあちゃんは笑ってお茶を差し出してくれる。でも、このお茶苦くてボクは嫌いだ。おばあちゃんは幸福そうに飲んでいるからそんな事言えないけれど。
でも、その内、なぜか、ボクの飲み物はミルクになった。
いつもおばあちゃんの膝の上に載っている白い子猫と一緒のものだ。
「そういえば、僕がここに来てくれるようになってずいぶん経つけど、まだ名前も聞いていなかったねぇ」
「なまえ?」
名前かぁ……おばあちゃんがつけてくれた名前ならあるけど……言ってもいいのかな?
ちらっと見上げると、おばあちゃんはボクが答えるのを優しい瞳で見守っていた。うーん。言わないとおばあちゃん、不思議に思うかも。
「ユキって言うんだ」
「おやまぁなんて偶然だろう。この子と同じ名前なんだね」
え? とおばあちゃんを見て、それからおばあちゃんの視線を追って膝の上の白い子猫を見た。
この猫……ボクなの?
人になってしまったボクの言葉が、ましてや心の言葉なんて届く訳もなく、白い子猫はボクを見上げてにゃあと鳴いた。
「この子、今年の秋に、この庭に入り込んできてね。その頃はまだ掌に乗る位に小さかったんだけれど」
おばあちゃんは愛しげに子猫の体を撫でる。
「その頃はまだ、こんなに人懐っこい感じじゃなくてね。人に怯えて、でも庭を出る方向を見失って、仕方なく庭の隅で丸くなってたんだよ。外に逃がしてやろうにも近寄らせてもらえなくってね。それで残り物のご飯を猫まんまにして置いておいたんだけど」
子猫は気持ちよさそうに喉をごろごろ鳴らした。
「初めて食べてくれた時は、それはそれは嬉しかったよ」
「おばあちゃん、嬉しかったの?」
「ああ、そうさね。だんだん懐いてくれるようになったこの子が愛しくてねぇ。猫嫌いの家族に頼み込む程さ。とうとうみんな折れてくれた。昼間はこの家には誰もいないから、猫がばあちゃんの相手してくれるならってね。そんな訳でこの子にも家族の一員になってもらったんだけれど。自由気ままな猫にとっちゃあ迷惑な話だね」
「そんな事ないよ!」
気が付くと、思わず身を乗り出して叫んでた。
おばあちゃんの驚いた顔を見て、自分の失態に気づいて小さくなる。
「そ、その……きっとその猫も、おばあちゃんの家族になれて幸せだ……と、ボクは思うよ」
ごにょごにょと小さい声でつぶやくように言ってから、ちらっとおばあちゃんの反応を見る。
その時、おばあちゃんが浮かべていた笑顔は、いままで見た中でも一番の笑顔で。
ボクはボクの宝物にしようとひそかに思った。
膝の上の子猫を見る。
このボクはまだ、何も知らないけれど。もう少ししたら、ボクには何もかも失くしてしまう。
無くなるんだ。
この陽だまりの時が。
暖かい時間が。
涙がこぼれそうになったから、あわてて空を見上げた。
広がる世界は胸の透くような青。
暖かい光の中、笑ってくれているおばあちゃん。
……決して消さない。
世界から消えてしまっても、ボクは絶対に忘れない。目に焼き付けておくんだ。そうすれば。おばあちゃんは消えない。ボクの中でずっと笑ってる。そうすればきっと。
やがて来る、痛い程寒い夜も越えられる――
★
おばあちゃんのお葬式の日。
体はあるのに、どこにもいない。
おばあちゃんを消してしまった世界が悲しくて悲しくて。目をぎゅっと瞑ったその時。
「また会ったね。猫くん」
聞き覚えのある高い声に、ボクはゆっくりと瞼を開けた。
……ああ。
ボクは嘆息した。
また、この凍てつく夜に戻ってきたんだ。
ボクは猫の姿に戻っていて。
長い髪の少女はボクの前にしゃがみ込んでいた。
「恩返しはできた?」
……わからない。
おばあちゃんは、ああ言ってくれたけど、でもやっぱり、おばあちゃんよりボクの方が嬉しかったと思うんだ。
「せっかく願いを叶えてあげたのに」
うん。残念だ。
でも、ひとついい事があったよ。
「いいこと?」
うん。キミが、言葉が届くよう、言葉を受け取れるようにしてくれたからわかった事がある。
「どんな?」
おばあちゃんの名前。雪って言うんだ。
「雪?」
うん。雪ばあちゃん。
おばあちゃん、ボクと同じ名前だったんだ。おばあちゃん、自分の名前を、ボクにつけてくれてたんだ。
「嬉しいね」
うん。嬉しい。
ボクにはもう、何も残っていないと思っていたけれど。
名前があったんだ。
おばあちゃんがボクにくれた名前が。
知らなかったんだ。名前って、こんなに大事な宝物だったんだね。
「よかったね」
うん。よかった。
どうもありがとう。
「お礼なんていいよ」
言わせてよ。せっかく届くんだ。
「届くって何が?」
言葉。
「それ、わたしの名前なんだよ」
キミの名前は言葉っていうの?
「言葉って字を書いて、コトハって読むの。お母さんが付けてくれたんだって」
それは素敵な名前だね。
ボクの言葉が届くキミにぴったりだ。
「キミの名前も負けてないよ」
ありがとう。
おばあちゃんがいなくなって、独りになったボクはずっと、絶望の世界に震えてたけど。
ほんの少しの真実に気づけたら、少しだけ、世界は違って見えるよ。
こんなに暗い世界にも、雪は降って。ボクを包む。
やっぱり世界は冷たいけれど、それでもボクはこんなに満たされている。
「もうさみしくないね」
うん。
だから今。約束を果たすよ。
言って目を閉じると、少女が立ち上がった気配がした。
……本当に。どうもありがとう。コトハ。
「ありがとう、雪くん」
言ってコトハは、宙に浮いたボクの体を優しく包み。
世界から、消し去った。
……どこからか。
ボクの名を呼ぶ、おばあちゃんの声がした。
ボクは駆けた。
重い体を捨てて、今、大好きな陽だまりの元に――
★
「コトハ! どこ行ってたんだい? 探したよ」
深夜十時。
帰路を歩く八歳の小さな女の子を、眼鏡をかけた中肉中背の男が優しく抱き上げた。
「心配かけてごめんなさい。パパ」
「そうだよ。本当に心配したんだからな。罰として肩車の刑に処す!」
抱き上げた体を頭に近づけると、コトハはよじよじと男の肩に乗る。
「もうすっかり重くなったなぁ、コトハは。パパ潰れそうだよ」
「女の子に対して失礼だよ」
「でもそれが、僕にとっては嬉しいことなんだよ……って、あれ?」
男が、コトハが持っていた一冊の本を目にする。
「この絵本……また誰かから貰ったのかい?」
「うん、ユキくんに貰ったの!」
「そうか。よかったなぁコトハ。後でそのお友達にお礼を言わないと」
「でも、ユキくん、もう会えないんだ」
「そうなの?」
「うん。お礼ならコトハがちゃんと言ったから大丈夫」
「そうは言ってもなあ……。しかし、コトハは本当にこのシリーズの絵本が好きなんだね」
「コトハが好きなのはいっぱいあるよ」
「そうだったね。……それにしても流行ってるのかなぁこの絵本。コトハの友達、みんな持っているよね。それに随分たくさんの物語がある。家にだって今まで貰ってきたのが何十冊とあるし、よっぽど人気なんだろうな。今度の絵本はなんていう本? どんな話か、パパに聞かせてくれないかい?」
「えっとね……」
雪が積もった白い道。二人の楽しげな声が徐々に遠ざかっていく。
暖かい家まで、あと数十分。
「『雪とユキ』って言う本だよ!」
話はまだまだ、尽きそうにない。