醜悪
醜悪
私は醜悪な人間だった。
もっとも、それは顔貌のことではない。私の顔には、私自身が耐え難くなるほどの欠陥はなかったし、他人の美貌を前にして、己の顔を呪うほどの嫉妬も持ち合わせていなかった。私の醜さは、もっと深いところに根を張っていた。人間の目には決して映らず、神が仮に存在したとしても、その御手が届くことはないであろう、心の底の暗がりに。
私は、人に親切にすることができた。
落とした鉛筆を拾い、重たい荷物を持ち、風邪を引いた者には心配そうな顔をしてみせた。誰かが泣いていれば、どうしたの、と声を掛けることもできた。私は人々の前に、よく手入れされた善意の庭を持っていたのである。誰も、その土の下に何が埋まっているかを尋ねなかった。
実際、私はよく優しい人間だと言われた。
そのたびに、胸の奥で小さな灯がともった。
ああ、この人は私を知らないのだ。
私がいま差し出した手が、いつかあなたの不幸を数える指にもなることを知らないのだ。私があなたの涙を拭いながら、その涙が私の手によって流されたものでないことを、心の片隅で惜しんでいるのを知らないのだ。
私は、誰かを傷つけることが嫌いだった。
否、正確に申せば、誰かを傷つけた人間として、他人の記憶に刻まれることが嫌いだったのである。
この二つのあいだには、深い溝があった。私はその溝に橋を架けることをせず、ただ向こう岸に立つ善良な人間の顔を眺めていた。
私には、ひとりの友人がいた。
名前を、佐伯という。
佐伯は、私を疑わなかった。
人間は、自分を愛してくれる者の胸に、わざわざ刃を探しにゆくことはしない。信頼とは、相手の美徳を数えることではなく、その人間の暗がりに扉を設けずにおくことなのかもしれなかった。佐伯は、私の中にあるものを知らなかった。知らないということが、彼の優しさだった。
佐伯は、私のことをよく褒めた。
「お前は、本当にいい奴だな」
彼は、何かにつけてそう言った。
初めてそう言われたとき、私は照れたように笑ってみせた。二度目には、そんなことはない、と首を振った。三度目には、もういい加減にしろよ、と冗談めかして肩を叩いた。
そして四度目には、私は彼の言葉を待っていた。
彼の称賛は、私の胸に掛けられた免罪符だった。彼が私を善人と呼ぶたび、私の中の罪は、しばらくのあいだ名前を失った。私はその白い紙を大切にしまい、次の罪のために取っておいた。
私は佐伯が好きだった。
これは嘘ではない。
ただし、その好きという感情の根には、腐った水が流れていた。
佐伯は私よりも成績がよかった。人望もあった。教師からの覚えもめでたく、誰に対しても分け隔てなく接することのできる人間だった。彼の笑顔には、私がいくら練習しても手に入れられそうにない、曇りのない明るさがあった。
私は彼を尊敬していた。
そして、彼の光が少しずつ弱まってゆく光景を、心の中で何度も描いた。
彼が試験に失敗したらいいと思った。誰かに誤解されればいいと思った。彼が自信を失い、いつもなら容易くできることにつまずき、誰にも相談できずに途方に暮れたとき、最後に私のところへやって来ればいいと思った。
そうして私は、彼の肩を抱いて言うのだ。
大丈夫だよ。僕がいるから。
なんと美しい光景であろう。
私は、彼の不幸の果てに、自分だけの玉座を築こうとしていた。彼がすべてを失った場所で、私だけが彼の救いとして残る。彼の世界から色が消えたとき、最後に残る一色が私であればよかった。
他人の不幸を願うことは、誰にでもできる。しかし、その不幸の終着点に自分を置き、相手が自分を頼らざるを得なくなることまで望む人間は、いったいどれほどいるだろうか。
私はその光景を想像するたび、胸の奥に甘い蜜が満ちるのを感じた。
そのくせ、佐伯が実際に困っているときには、私は誰よりも親切に振る舞った。
彼が提出物を忘れれば、私のものを見せてやった。彼が教師に叱られれば、あとで慰めてやった。彼が誰かと喧嘩をすれば、双方の言い分を聞き、いかにも公平な顔をして、最後には彼の味方をした。
私は善人であった。
少なくとも、佐伯の目には。
彼の信頼が深まるたび、私の中の暗がりには、もうひとつ部屋が増えた。
人間は、罪を犯すことによってばかり悪人になるのではない。罪を犯さずに済んだ己を褒め称えながら、その罪を犯したかったという欲望を、胸の奥に宝石箱として保管しておくことによっても、十分に醜くなれるのである。
私は佐伯を苦しめた。
けれども、初めのうちは、それが苦しめるという行為であることさえ、はっきりとは認識していなかった。
たとえば、佐伯が楽しみにしていた約束を、私は何気ない一言で台無しにしたことがある。
「それ、本当に行くの?」
私はただ、それだけを尋ねた。
佐伯は、行くつもりだけど、と答えた。
「いや、別にいいんだけどさ。お前が楽しみなら」
私は笑った。
それ以上、何も言わなかった。
言葉を置かなかった場所に、私は小さな棘を残した。佐伯はしばらく黙っていた。それから、やっぱりやめようかな、と言った。
私は止めなかった。
彼が約束を取り消したと知ったとき、私はひどく後悔したような顔をしてみせた。
「え、なんで? 行けばよかったのに」
佐伯は、少し困ったように笑った。
「君が嫌そうだったから」
その瞬間、私は自分が恐ろしい人間であることを知った。
私は、彼に行くなとは言っていない。
行くなと言わずに、行かないほうがよいと思わせたのである。彼の自由を奪いながら、その手を汚さずに済ませた。鎖を掛けたのは私であるのに、彼は自分の足で扉を閉じたと思っていた。
これほど都合のよいことが、ほかにあるだろうか。
私は彼の自由を侵害しながら、彼の自由な意思を尊重した人間として、その場に立っていられるのだった。
それから、私は少しずつ同じことを繰り返した。
佐伯が新しい友人の話をすると、私は興味深そうに耳を傾けた。
「へえ、いい奴じゃん」
私はそう言ってから、ほんの少しだけ間を置いた。
「でも、お前って、そういう奴に気を遣いすぎるところあるよな」
佐伯は、そうかな、と笑った。
私は、そうだよ、と答えた。
彼が何かに夢中になっているときには、以前よりも連絡を控えた。彼がこちらを気にして連絡してくれば、私はいつもどおりに応じた。彼が私の知らないところで楽しそうにしていると、私は少し寂しそうな顔をした。
どれも、ほんの些細なことだった。
私は彼に嘘を吐かなかった。彼を罵倒しなかった。彼の秘密を暴露することもなかった。
私はただ、彼の幸福に薄い曇りを差し込み、その曇りがいつしか彼自身の心から生じたものであると信じられるようになるのを待っていた。
やがて佐伯は、何かを決める前に私の意見を求めるようになった。
「これ、どう思う?」
「お前ならどうする?」
「僕、間違ってるかな」
私はそのたび、慎重に答えた。
賛成すべきときには賛成し、反対すべきときには、反対ではなく心配を口にした。
「僕はお前の好きにすればいいと思うよ。ただ、あとで傷つくのはお前だからさ」
私は、彼を守るために忠告する友人の顔をしていた。
佐伯は、次第に自分の判断に自信を持てなくなっていった。
彼は以前よりも口数が減り、笑う前に一度、周囲の顔色を見るようになった。何かを楽しんだあとには、決まって、これでよかったのかな、と私に尋ねた。
私は、そんな彼を見て、悲しかった。
本当に悲しかったのである。
彼が以前のように笑えなくなってしまったことが。何をするにも不安を抱くようになってしまったことが。私の知らないところで、彼が彼自身を疑い始めてしまったことが。
そして何より、私は悲しみながら、安堵していた。
彼はもう、私なしでは安心していられない。
その事実が、私にはたまらなく嬉しかった。
私は、なんという人間であろう。
友人が苦しんでいる。その苦しみの底には、私が落とした石が沈んでいる。にもかかわらず、私はその深さを、友情の証として測っていたのである。
私は彼に必要とされている。
彼が不安であればあるほど、私の言葉には値打ちが生まれる。彼が自分を信じられなくなればなるほど、私の肯定は彼にとって救いとなる。
私は、彼を救うために、彼が救いを必要とすることを望んでいた。
この矛盾を、私は長いこと愛していた。
ある日の放課後、佐伯が私に言った。
「最近さ、僕、なんかおかしいんだよ」
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。夕日が机の上に長く伸び、佐伯の手の甲を赤く染めていた。
「何をしてても、これでいいのかなって思うんだ。誰かと話してても、変なこと言ってないかなとか、嫌われてないかなとか。前は、こんなこと気にしなかったのに」
私は黙っていた。
「君は、僕のこと、どう思う?」
彼は私を見た。
その目の中に、私は自分の姿を見た。彼の信頼が、私の顔に善人の輪郭を与えていた。
彼は私に答えを求めていた。私なら自分のことをわかってくれると信じていた。私なら、自分の価値を教えてくれると信じていた。
私は、その信頼を裏切ることができた。
ここで一言、君は考えすぎだよ、と言えばよかった。少し疲れているだけだ、と言えばよかった。私などに頼らず、自分の好きなように生きればいい、と言ってやればよかった。
しかし、私は言わなかった。
「……佐伯は、昔からちょっと、人の顔色を気にしすぎるところがあるよ」
彼は俯いた。
「そっか」
「でも、悪いことじゃないと思うよ。優しいってことだし」
私は微笑んだ。
「僕は、そういうお前も好きだけどな」
佐伯は、ありがとう、と言った。
その言葉は、私の胸に落ちた小さな種だった。私はそれが何を芽吹かせるか知っていた。
私は彼を慰めた。
そして、彼の不安を肯定した。
彼が自分を疑う理由を、彼の性格という名のもとに説明してやった。そうすることで、彼が苦しんでいる原因を、彼自身の中に閉じ込めてしまったのである。
私は彼のために言葉を選んだのではなかった。
私のために、彼がこれからも苦しみ続けられるよう、言葉を選んだのである。
その帰り道、私は吐き気を覚えた。
自分が嫌になったからではない。
私は、あまりにも自分が嫌にならなかったので、吐き気を覚えたのである。
私は悪いことをした。佐伯を傷つけた。彼の善意を利用した。彼が私を信じることを知りながら、その信頼を自分のために使った。
それなのに、私は家に帰り、夕飯を食べ、風呂に入り、いつもどおりに眠ることができた。
人間というものは、己の罪に耐えられないのではない。
己の罪に、いとも容易く馴染んでしまうことが恐ろしいのである。
罪は、初めこそ異物として胸に刺さる。しかし、時が経てば肉はそれを包み、痛みさえ自分の一部にしてしまう。私はもう、自分の中に何が埋まっているのか、確かめることすら億劫になりつつあった。
翌日、私は佐伯に声を掛けた。
「おはよう」
彼は、少し驚いたように顔を上げた。それから、いつものように笑った。
「おはよう」
私は安堵した。
彼はまだ私を嫌っていない。
彼はまだ私を信じている。
私は、そのことが嬉しかった。
そして、そんな自分を恥じた。
恥じながら、私は彼の隣に座った。
私は、佐伯にすべてを話そうと思ったことがある。
お前が何かを決めるたびに不安になるのは、俺がお前の不安を利用しているからだ。お前が自分を信じられなくなったのは、俺がお前の自信を少しずつ削ってきたからだ。お前が俺を必要とするように、俺はお前を弱くしてきたのだ、と。
そう告白すれば、彼は私を憎むだろう。
憎んで、私から離れてゆくだろう。
私は、それを想像することができた。
そして、その想像の中で、私は彼の憎しみさえも独占したいと思っていた。
彼が私を憎むのなら、私は彼の人生にとって、決して忘れられない人間になる。彼が私を恨むのなら、私は彼の記憶の奥に、抜けない棘として残り続ける。
愛されたい。
その願いが、私をここまで連れてきたのだろうか。
いや、違う。
私は、愛されたいのではなかった。
愛されるだけでは、足りなかったのである。
誰かの心の中に、自分だけが入ることのできる部屋を持ちたかった。誰かが幸福なときにも、不幸なときにも、その心の片隅に自分の影を落としていたかった。私の知らないところで笑い、私の知らない人間と親しくなり、私の知らない幸福を見つけてしまうことが、たまらなく恐ろしかった。
だから私は、彼の幸福に小さな疑いを混ぜた。
彼の喜びに、ほんの少しの不安を添えた。
彼が自分の足で歩こうとするたび、転ばないかと心配するふりをして、その足元に影を落とした。
私は、彼を独り占めしたかったのである。
彼を愛していたからではない。
彼が私を必要とする人間であることを、愛していたのである。
この違いを、私は知っていた。
知っていながら、私は彼の隣にいた。
ある日、佐伯は私に言った。
「僕さ、ちょっと、ひとりで考えてみようと思うんだ」
私は顔を上げた。
「何を?」
「いろいろ。僕、自分で決めるのが怖くなってる気がしてさ。誰かに聞かないと、何も決められないみたいになってるから」
私は笑った。
「いいんじゃない?」
声は、驚くほど自然に出た。
「自分のことなんだから、自分で考えるのが一番だよ」
佐伯は、少しだけ安心したような顔をした。
「うん。ありがとう」
その顔を見たとき、私は彼を引き留めたいと思った。
やめたほうがいいよ、と言いたかった。急に変わろうとすると疲れるよ、と。ひとりで抱え込まないほうがいいよ、と。いつものように、彼のためらいに寄り添い、そのためらいを、彼が歩き出さないための理由に変えてしまいたかった。
しかし、私は何も言わなかった。
佐伯は帰っていった。
私は教室にひとり残し、彼の座っていた椅子を見つめた。
窓の外は明るかった。
私は、彼が私の知らない人間になってしまうことを恐れていた。私を必要としなくなり、私の言葉を求めなくなり、私の顔色を窺わずに笑うようになることを恐れていた。
それでも、私は彼を引き留めなかった。
それが友情であると、私は思いたかった。
しかし、本当のところはわからない。
私は、ただ疲れていたのかもしれない。自分の醜さを隠し続けることにも、善人の仮面を磨き続けることにも、彼の苦しみを自分の喜びに変えてしまうことにも。
あるいは、私は初めて、彼が私の手を離れてゆくことを許そうとしたのかもしれない。
けれども、そんな自分を、私はまだ信じていない。
人間は、反省したからといって、たちまち善人になれるものではない。己の醜さを認めたからといって、その醜さが消えてなくなるわけでもない。心の闇に名を与えたところで、夜明けが訪れるわけではなかった。
私はいまも、佐伯が私を褒めてくれた日のことを思い出す。
「お前は、本当にいい奴だな」
あの言葉を思い出すたび、私は嬉しくなる。
そして、その嬉しさを感じる自分に、ひどくうんざりする。
私は醜悪な人間だった。
いや、過去形にしてしまうのは、あまりにも都合がよい。
私はいまも、醜悪な人間である。
ただ、以前よりも少しだけ、自分の中に広がる暗がりの形を知っている。
それが救いになるのか、ならないのか、私にはわからない。
ただひとつ、確かなことがある。
もし明日、佐伯が私のところへやってきて、泣きながら、こう言ったなら。
「僕、君だけは僕の味方だと思っていたんだ」
私はきっと、彼の肩に手を置くだろう。
そして、できるかぎり優しい声で、こう言うのだ。
「大丈夫だよ。僕がいるから」
その言葉が、彼を救うものであることを願いながら。
その言葉が、彼を苦しめるものであったことを、私は決して忘れずに。
そうして私はまた、善人の仮面を顔に戻し、何食わぬ顔で朝を迎えるのである。




