背中合わせの二人*その1
季節はめぐり、私と日向さんは高校3年生になった。
小姫ちゃんも無事に合格して私たちの後輩になり、今では同じ学校に通っている。
同級生の子達よりも一回り小さく愛らしい小姫ちゃんは中学の時と変わらずみんなの人気者みたい。
あの日向さんの妹ということもあって、3年の人達からもよく話し掛けられているのを目にする。
色々な人にちょっかいを出されて大変だと彼女は愚痴をこぼしていたけど、おかげで友達も沢山できたと無邪気に笑っていた。
小姫ちゃんも、日向さんも、私も、充実した楽しい学校生活を送っている。
けど、今年は私と日向さんが受験生だ。
教室の緊張感が日に日に増していくのを感じ取りながら、私は試験に向けてひたすら勉強をしていた。
担任の先生から安全圏内だから大丈夫と言われたけど、受験への不安は消えない。
日向さんは推薦入試の枠を貰ってもう合格したようなものらしく、勉強する必要がないので気楽だと言っていた。
受験の重圧とは無縁の彼女が、ちょっぴり羨ましい。
(……でも、平気)
私はポケットを探って幾つものお守りを取り出す。
少し前にお母さんが買って来てくれた学業成就のお守りと、瑠美さんが選んでくれた合格祈願のお守り、そして日向さんがくれた手作りのお守り。
このお守りを見ると、不思議と自信が湧いてきて大丈夫だって思えてくる。応援してくれてる人がいるんだって実感できて、暖かな気持ちになれる。
だから受験のことを考えて不安になるたび、このお守りを見るようにしていた。
「そろそろ休憩しようかな」
握りっぱなしだったペンを置いて、背筋を伸ばす。
部屋にこもって勉強に集中していたらだいぶ時間が経っていたようで、そろそろ買い物に出かけないといけない時間だった。
きりもいいし、気分転換を兼ねて夕飯の買出しに出かけようかな。早くしないと、お母さんが仕事から帰ってきちゃうし。
ノートや筆箱など机の上の物を片付けていると、飾っている『家族写真』が視界に入ったので、それを見て思わず頬が緩んでしまう。
左には照れくさそうにしているお母さん、右には嬉しそうに笑っている私、そして真ん中に挟まれるようにして立っている優しい顔をしたあの人が写っている。
こんなにも幸せで溢れた写真を部屋に飾れる日が来るなんて昔は想像できなかった。それこそ奇跡でも起こらない限り、無理だって思ってた。
ずっと叶わないと思っていた私の願いを全て現実にしてれたのは、あの人のおかげ。
お菓子が大好きで、寝ぼすけさんで、鈍感で、笑顔がとっても素敵な―――私とお母さんにとって大切な人。
今、彼女はバイトを頑張っている時間だろうか。いつもは邪魔になるから行かないようにしてるけど、今日は買い物の帰りに、寄ってみようかな。
もうすぐバイトを辞めると言っていたから、働いてるところを見れる機会なんてもうないかもしれないし。
出かける準備を整えて部屋のドアをあけたところで、私は後ろを振り返る。
「お母さん、日向さん……いってきます」
今は家に居ない家族のかわりに、机の上にある写真に向けて言ってから、私は部屋を出た。
*
買い物を終えた私の両手には、沢山の荷物が握られている。
今日の夕飯の分だけ買うつもりだったのに、3日分くらいの食料を買いこんでしまった。
タイムセールに間に合ったので、つい衝動的に余計なものをいっぱい買ってしまったのが原因だ。
あって困る物じゃないけれど、いくら安かったとはいえ、大きな瓶に入った醤油を買ったのは失敗だったかも。
凄く重くて、腕が千切れそうだ。
(うぅ、重たい…)
醤油の瓶だけじゃなく、他にも色々と袋に詰まっている。
両手にかかる重さに引っ張られるように、フラフラしながら帰り道を歩いていた。
日向さんのバイト先に寄るつもりだったけど、こんな状態で行っても邪魔になるだけだから、残念だけどまた今度にしよう。
今はこの重たい荷物を持って、早く家に帰らないといけない。段々と腕が痺れてきたので、気をつけてないと袋から手を離しそうになる。
このまま歩いてたら落としてしまいそうだったので、少しだけ休憩しようと通りがかった公園に寄ることにした。
「?」
ベンチに座って休憩しようと思ったけれど、そこには先客が居たので座れそうもない。
しかたなく他の場所に行こうとして、座っている人の様子がどこかおかしいことに気付いた。
俯き気味に身を屈め、口元を片手で押さえて苦しそうに顔を歪めている。もしかしたら具合が悪いのかもしれない。
「あの、大丈夫ですか?」
「ん?……ああ、ごめんなさい。ちょっと気分が悪くなっただけだから………」
傍に寄って正面から顔を覗き込むと、座っていた女性は力のない返事をして、ゆっくりと私のほうを見た。
「――え?」
目が合った瞬間、女性は目を大きく見開いて小さな声を漏らす。
驚いた表情をした彼女は、ずっと私の顔を見たままピクリとも動かなかった。
「あ、あの?」
「……………」
しばらくすると、女性の表情は驚愕のものから険しいものへと変化していく。
見られているというよりも睨まれているような感じがして、何か気に障るようなことをしてしまったのだろうかと不安になった。
ただ心配になって声を掛けたけれど、もしかしたら彼女にとっては余計な気遣いだったのかもしれない。
「ごめんなさい、私、何か―――」
「……倉坂、陽織」
「えっ!?」
今度は私が驚く番だった。
女性が苦しげに呟いたのは、私にとって一番身近な人の名前だったから。
「もしかして母のお知り合いの方ですか?」
「母……?まさか貴女、倉坂陽織の娘なの?」
「はい」
「ああ、なるほど……どうりで見た目がそっくりなわけだわ。雰囲気は、全然似てないけど……うっ、く」
「だっ、大丈夫ですか!?」
喋っている途中で吐き気を催したのか、再び手で口を塞いで耐えている。
とりあえず自分に出来ることをしようと重たい荷物を傍に置いてから、彼女の不安定な身体を支えてあげた。
やっぱり具合が悪いみたいだし、病院に連れて行ったほうがいいのかな。
でもここから病院まで遠いしタクシーで…ううん、救急車呼んだほうがいいかもしれない。
女性にそう提案すると、大丈夫だから呼ばなくていいと拒否されてしまった。
これからどうすればいいのか分からずオロオロしていると、女性は軽く息を吐いて曲げていた背筋を正したので、支えていた手を離した。
「平気よ。しばらくすれば良くなるから」
「そ、そうですか」
「……見た目は似てるのに、性格は全然似てないのね。まるで正反対だわ」
「よく言われます。それであの、母とはどういったご関係でしょうか?」
考えられるとしたら、勤め先の会社の人かな。うん、それが一番可能性が高い。
今まで母の知り合いに会ったことは何度かあるけど、それほど多くはない。
それに知り合いと言っても、ほとんど身内のような人ばかりなので母の交友関係の人とは全く会ったことがなかった。
「………倉坂陽織との関係、か。なんて言えばいいのか……難しいわね」
女性は空を見上げて、何処か遠くを見るような瞳をしている。
何かを思い出しているのか、何かを想っているのか、彼女は寂しそうに目を細めて小さく微笑んだ。
「この町に帰ってきてすぐにあの子の娘に会うなんて、彼女の仕業かもね」
「?」
「まあそうね……倉坂陽織と私は友人と呼べるほど親しい仲ではないけど、ただの知り合いなんていう希薄な関係でもなかった」
言い方が曖昧でどういう関係なのかよく分からないけど、お母さんとこの人は、何か深い繋がりがあるようだった。
それが決して良いモノじゃないというのは、女性の様子から簡単に察することができる。
私を通して母の面影を見ていた女性の目は、仲のいい友人に向けるようなものではなかったから。
「これも何かの縁。まあ、ずっと座ってるのも暇だからっていうのもあるけど……少しだけ昔の話をしてあげる。ずっと立ってるのもキツイだろうし、隣に座って」
「あ、はい」
もともと休憩するつもりだったし、この人とお母さんの関係が気になったので言われるまま隣に座る。
すると彼女は昔のことを思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
「――貴女のお母さんである倉坂陽織と出会ったのは私が中学3年の時で、彼女が中学1年の時。
新入生の歓迎行事の時に、親友から紹介されたのがきっかけで出会ったの。
彼女はいつもびっくりするほど無愛想で、口にするのは感情のこもっていない言葉ばかり。
常に他人を拒絶していて、一人でいるのを好んでいたわね」
それを聞いて、お母さんらしいなって思った。
今はとても表情豊かで性格もずいぶん丸くなったけど、日向さんが来る前のお母さんは大体そんな感じだった。
「そんな彼女と仲良くなれるわけもなく、学年も違うから会う機会はあまりなかった。お互いに顔と名前を知ってるぐらいの薄い関係。
彼女あんな性格だし、友人はいなかったみたいね…………あの人以外は」
「あの人って……」
「私の親友。中学に入学してからの付き合いで、いつも一緒にいた子なの。倉坂陽織とは幼馴染だったみたいで、よく彼女から話を聞かされたわ」
どうでもいい話を楽しそうに話してくるのよ、と女性は空を見上げて困ったように笑った。
その親友のことを話す彼女は、昔を懐かしんでいるように見えるけれど、どこか寂しそうにも見える。
お母さんの唯一の友達で幼馴染といえば、私の知る限りあの人しかいない。多分、きっと、そうなんだろう。
その証拠に、空を見上げる女性の瞳は、悲みを帯びたものだったから。
「親友の友達なら仲良くなれるかもって思ったんだけどね。相手はああだし、私も友達作るの下手だったし、無理だったわ。
……それに、他に色々と思うところもあってね。あまり、貴女のお母さんのことを好きになれなかったのよ」
「そうですか」
「好きになれなかったけど、嫌いではなかった。あの親友が大好きな子なら、根はいい子なんじゃないかって思ってた。
…でも…でも………“あの日”以来、私は倉坂陽織のことを―――どうしようもなく憎んでいるの」
途端、女性の顔が歪む。はっきりと表情に浮かぶ憎悪が、その憎しみの重さを十分に伝えてくれた。
「今でもそれは変わらず、消えることはないわ。高校を卒業してこの町を出ても、ずっとずっと、ふとした時に思い出してしまうのよ。
大切な親友との楽しかった思い出と共に、倉坂陽織を憎むこの気持ちを」
女性は無表情で、私を見つめる。
彼女の顔からは憎悪以外に何も読み取ることが出来なくて、それが少しだけ恐ろしい。
「教えてあげるわ。貴女の知らない貴女の母親のことを」
「え?」
「知らないんでしょう?あなたが生まれる少し前にあった事件のこと……」
私が生まれる前に何か大きな事件があったのだろうか?
もしかしたら、お母さんと私にも関係のある事件なのかもしれない。
多分この人が今から教えてくれるのは、お母さんが話してくれなかった“18年前のこと”だろう。
(私、このまま聞いてもいいのかな)
私のことを思って話さなかったお母さんの優しさを、好奇心で踏みにじってしまうかもしれない。
でも心のどこかで、お母さんがずっと抱えている本当のことを知りたいと思っている自分もいた。
「その様子だと知らないみたいね。まあ、普通は娘に話さないと思うし」
私が迷っていると、女性はこちらを凝視した。
強い視線を向けられて思わず怯んでしまう。
「娘の貴女に恨みはないけど……これは、倉坂陽織に対する私なりの復讐みたいなものよ」
「っ!?」
女性はうっすらと不気味な笑みを作り、ぼそっと呟く。
不穏な空気を感じたので、これ以上この人の話を聞いてはいけないような、そんな気がした。
けれど………もう、遅い。
「貴女が生まれる前、この町で殺人事件が起きたわ。被害者は高校三年生の女の子、そして容疑者は現場の屋敷に住んでいた女性」
18年前。殺された高校3年生の女の子。屋敷の女性。
自分の知っている情報と、女性が教えてくれる情報がどんどん勝手に繋がっていく。
だめ、だめだ。これ以上考えたら駄目なんだと、私の本能が叫んでる。緊張で、心拍数が上昇していく。口の中が乾いて気持ち悪い。
「凶器は生け花用のハサミ、屋敷に勤める使用人の通報で逮捕。殺した動機は黙秘により不明…………。
殺人事件だったけど、情報が少なくて面白みもなくあっさりしたものだったから、数年経てば皆の事件への関心は無くなってすぐに記憶から消えていったわ」
この町で、私の住んでいるこの辺りで殺人事件があったなんて、聞いたことが無い。
子供の私のことを気遣って内緒にしてくれていたか、それとも単に忘れていたから何も言わなかっただけなのか。
「でも私は、忘れてない。数年経った今でも忘れられない。――だって、私の大切な親友を奪った忌まわしい事件なんだから」
外れていた情報の鎖が―――カチン、と繋がった。
以前、お母さんは日向さんが私達を守ってくれたと言っていた。
それは、いったい何から?どうやって?どうして日向さんは……ううん、赤口椿さんは死んでしまったの?
今までずっと埋もれていたはずの疑問が、一気に浮かんでくる。
「殺された女の子の名前は『赤口椿』、大切な、私の親友。………そして殺した女性の名前は『倉坂神楽』、貴女の祖母にあたる人よ」
殺され、た?
私の、おばあちゃんに?
「そ、んな……嘘」
「事実よ。後で貴女のお母さんに聞いてみたらどう?きっと教えてくれるだろうから」
お母さんは確か、おばあちゃんのことを嫌っているようだった。
だから私がおじいちゃんやおばあちゃんのことを聞いても何も教えてくれなくて、ただ、もうこの世にいないってことだけ教えてくれた。
物心ついた時は赤口さんの家に居て、私が小学生くらいの時に今の家にお母さんと2人で引っ越してきたから、お母さんが昔住んでいた屋敷なんて一度も行ったことがない。倉坂の親戚にだって、会ったことがない。
特殊な家庭環境だったから子供の時からずっと不思議に思っていたけど、どうして私はそのことについて何も聞かなかったんだろう。
(ああ、そうか…)
お母さんと私の間には、ずっと距離があったからだ。だから聞くに聞けなくて、湧いた疑問は胸の奥に押し込んで隠していた。
赤口のおじさんとおばさんや、瑠美さんに聞くことも出来たはずだけど、そうしなかったのは、子供ながら何かを感じていたからかもしれない。
(話が、本当だと、したら……)
“私では幸せにしてあげられない”と、私と距離を置いて長い間悩んでいたお母さん。
ずっとずっとお母さんは、大切な人の命を自分の母親の手によって奪ってしまった責任を、ひとりで背負って苦しんでいたの?
小さかった私の面倒を見てくれた赤口の人達は、どんな気持ちで私を育ててくれたの?
日向さんはどうして、自分の命を奪った人のお墓参りを平然として、その人の子供を心から愛して、孫の私とも一緒にいて笑ってくれるの?
いつだって、みんなは私を見守ってくれていた。
辛い時は励ましてくれて、悲しい時は一緒に泣いてくれて、楽しい時は一緒に笑ってくれた。
苦しい時は支えてくれて、悩んでいる時はそっと背中を押してくれた。
当たり前のように、大切な家族だと言ってくれた。
(そんなことって……っ)
優しすぎるよ。
私の周りに居る人たちは、救いようのないほどに、優しくて―――暖かい。
「う…うぅ……っ」
嗚咽が漏れ、涙がこぼれた。
今まで与えられてきた沢山の愛情が溢れだすように、雫は滴り落ちていく。
「……辛いの?自分の身内に殺人犯がいたことが」
「いいえっ、違います。……私は、みんなに愛されてる幸せな人間だって、改めて思ったんです」
流れる涙を拭わず、私は女性を見つめる。
確かに女性の言う通り、自分の祖母が赤口椿さんの命を奪ったことは、辛くて、堪らない。
でも私よりもお母さんや日向さんや、みんなのほうがもっともっと辛くて、苦しくて、悲しかったはずだ。
その人達は今、幸せそうに笑っているのに、いまさら私が悲しい顔なんてしたら、その人達に失礼だと思うから。
みんなが必死で乗り越えてきた過去を、私が掘り起こして無駄にしてはいけない。
…自分が思っていた以上に遥かに深く、みんなは私のことを大切にしてくれていた。
ようやく、そのことに気付くことができたんだ。
「それは残念。あわよくば幸せそうな貴女たちをめちゃくちゃにしてやろうと思ってたのに」
女性の表情からは、それが本気なのか冗談なのかを見抜くことが出来なかった。
けど、たとえ何があろうと、私達の絆は二度と崩れたりしない。
涙をぬぐって、しっかりと前を見据える。
「私はもう子供じゃありませんし。それに母も……もう、未来の方を向いて生きてますから」
「そう……」
「それと、自己紹介が遅れました。私、倉坂椿といいます」
私が名乗ると、女性は驚いた表情をする。
彼女の親友であり、お母さんの幼馴染であり、私を守ってくれた女の子から譲り受けたもの。
幾つもの願いと、たくさんの想いが込められている、名前。
はっきり言って名前負けしているけれど、私はこの『椿』という名前が大好き。
「貴女が生まれる前にこの町を出て行ったから、名前は知らなかったけど……あの人の名前を付けたのね。ちょっと意外」
お母さんが私に椿と名付けたのは、もしかしたら自分への戒めの意味もあったのかもしれない。
自分の罪を忘れないように。彼女の行為を無駄にしないように。いつまでも、いつまでも忘れないように。
それでも私は、自分の名前を、とても誇りに思う。
「ああ、そういえば名乗ってなかったわね。私は沢村明。元々こっちに住んでたんだけど、高校を卒業してすぐ遠方に就職したのよ。
それからずっとこの町を離れてたんだけど、ちょっと事情があってつい最近実家に戻ってきたの」
沢村さんは辺りを見渡して、懐かしそうに目を細める。
「この町も、18年ぶりかな。…あれからもうそんなに時間が経ってるんだ」
頬を撫でるような緩やかな風が吹き、周りにある木が揺れてさわさわと音を立てる。
公園には私と沢村さんしかいないので、とても静かだった。
「帰ってこようと思えば、いつでも帰ってこれたけれど……やっぱり怖かったから。
今もね、胸の奥がざわついているの。あの人のことが忘れられなくて、現実を受け入れられなくて…ずっと過去に囚われてる。
これからの為に、私は帰ってきたはずなのに……」
両手で顔を覆って、苦しそうに言葉を吐き出す。
そんな沢村さんを見ていると、まるで昔のお母さんを見ているようで落ち着かない。
(もしかして、この人は―――――)
「椿?」
「え、お母さん?」
聞きなれた声がしたので振り向くと、お母さんがそこにいた。
お母さんは私のことを見て微笑んでから、隣に座っている沢村さんに視線を移す。
「貴女、たしか……」
「久しぶりね、倉坂陽織」
「…………………」
お母さんは眉を顰めて、沢村さんを凝視している。
2人はお互いに睨み合っている状態で、不穏な空気が流れていた。
「……私の娘と何を話していたのかしら?」
「18年前の事件のこと。彼女、知らなかったみたいだから教えてあげたの」
「……………余計なことを。いずれ椿には私から話すつもりだったのに」
お母さんは唇を噛み締め、憎々しげに目の前の女性を睨む。
「あらそう、それはごめんなさい。あ、椿ちゃんと出会ったのは本当に偶然だから。貴女にそっくりよね、外見だけは」
沢村さんは私とお母さんを見比べてから感心したように言う。
お母さんは呆れているのか、溜め息を吐いてから私のほうを見た。
「椿、先に帰ってなさい。貴女が聞いたことは、あとでちゃんと説明するから……」
「大丈夫ですよ」
お母さんの顔色は目に見えて悪い。
きっと知られたくなかったことを突然私に知られて、焦っているのだろう。
けどね、私はもう2年前の私じゃないから、心配しなくても大丈夫。
すれ違っていたあの時のように、取り乱したりはしない。
不安そうな顔をしているお母さんを安心させるように、私は笑う。
「ゆっくり話してきて下さい。私なら、平気ですから……」
「……ええ」
お母さんは驚いた顔をしていたけれど、すぐにいつもの表情に戻った。
私と同じように、お母さんだってもう昔のお母さんじゃない。
だからきっと、大丈夫だよ。
私が荷物を持って帰ろうとすると、お母さんに持って帰らなくていいと止められてしまった。
最初はタクシーに乗って帰れと言われたけれど、歩いて帰りたい気分だったので断ったら、手ぶらで帰らされた。
重たい荷物は後でお母さんが持って帰るらしい。もちろん、タクシーに乗って。
二人を公園に残して、私はとぼとぼと路地を歩いている。
「はぁ……」
深い溜め息が漏れる。
お母さんが話してくれなかった事実を受け入れることは出来たけど、やっぱり聞かされたことはショックだった。
日向さんに会う前の自分だったら、受け入れることが出来なくてまた同じように逃げていたかもしれない。
あれから精神的に成長できている自分がちょっとだけ誇らしい。
(日向さんに、会いたいな)
私の足は自然と彼女のバイト先に向う。
公園から近いところにあるお店なので、すぐに着くことができた。
お店の扉を開けて中に入ろうとして………やっぱり止める。
(でも、日向さんに会ってどんな顔をすればいいんだろう。何を言えばいいんだろう)
店の中には入らず、お店の近くの塀に背中を預ける。
ここで待っていれば、いずれ日向さんは仕事を終えて出てくるだろう。
けれど今、彼女と会って普通にしていられる自信はない。
(どうしよう)
悩んで決められないうちに、ついに日向さんがお店から出てきた。
私がいることに気付いてぱっと表情が明るくなり、こちらに寄ってきながら笑顔で手を振っている。
そんな彼女を見て、胸の奥底から熱いものが込みあがってきた。
「珍しいね、私のバイト先に来てくれるなんて。ここで待ってないで店の中に入ってきてくれて良かったのに」
「すみません、邪魔になるといけないと思って」
「あはは、そんなこと気にしなくていいって。いつでも気軽に来てくれていいよ?」
「はい」
「まあ、ここに勤めるのも、あと少しなんだけどね。あ、そうだ。余り物貰ったから、帰って一緒に食べよう?
大きいヤツが1個だけだけど、三等分すればいいし」
持っていた袋の中を覗いて、嬉しそうにしている。本当に、日向さんはお菓子が大好きみたい。
「陽織はもう帰ってるかな?」
「お母さんは、遅くなると思います……」
「あ、そうなんだ。うーん、みんなで食べたほうが美味しいし、揃ってから食べようか」
「そう…ですね」
「…椿?」
私の様子がおかしいことに気付いて、心配そうに顔を覗き込まれる。
いつだって日向さんは私が悩んだり悲しんだりしてるとすぐに気付いて心配してくれる。
そんな彼女に隠し事をするなんて、私には出来なかった。
「私、沢村明さんに会ったんです」
黙っていられなくなって、ついに打ち明けた。
日向さんは楽しそうにしていた顔を一変させて、顔を強張らせる。
「明……に?」
「はい。それから少し話をして、昔のことをちょっとだけ聞きました」
「昔のことって?」
「お母さんとの関係とか、18年前の事件のことです」
「そっか…なんていうか突然だなぁ…」
日向さんは困ったように笑う。そしてすぐに表情を引き締め、真面目な顔になった。
「……大丈夫?椿」
「私は、平気です。でも、お母さんが沢村さんと一緒にいて、近くの公園で話してます」
「そうなんだ」
日向さんの優しい声色が、涙を誘う。
目が潤んでいるのを悟られないように、少しだけうつむく。
「日向さんは、憎くないんですか?自分の命を奪った私のおばあちゃんのこと」
「うん」
「どうして、ですか?」
「悲しい誤解とすれ違いの結果だから。それに、自分の死は自分で招いたからだよ。陽織のお母さんが全て悪いわけじゃない」
「でも、結果的におばあちゃんのせいで、ひな…椿さんの人生は終わってしまったんですよ?続くはずだった未来を、閉ざされたんですよ?」
「それでも、後悔はないよ。もし生まれ変わることが出来なかったとしても、絶対に恨むことはしない。陽織とその子供が生きて、幸せに暮らしてくれればそれで良かったから」
そうだ。
彼女はこういう人だった。
他人の幸せを自分の幸せに変えてしまう、とんでもないお人好し。
「……~日向さんっ」
「ああもう、泣かないの」
目からこぼれる雫を日向さんが指で優しく拭ってくれたので、堪えきれなくなって彼女に抱きついた。
甘えん坊だなぁなんて笑いながら、よしよしと頭を撫でて私の髪を手櫛で梳いてくれる。
「……事件の動機とか、父親のこととかは聞いてないよね?」
「はい。…やっぱりまだ、秘密があるんですね」
「ごめんね。椿が望めば、きっといつか陽織が話してくれると思うから。それまで待っててあげて」
「はい、わかってます」
私が聞いて、お母さんが辛い思いをするのなら、本当のことなんて知らなくていい。
過去のことよりも、今の生活の方が大切だと思うから。お母さんも日向さんも、きっとそれを望んでる。
「椿は今、幸せ?」
「もちろんです」
「うん、それなら良し!」
日向さんは私から身体を離して、屈託なく笑った。
(凄い人、だよね……)
同い年とは思えないほどの包容力は、今までの経験から養われたのか、それとも彼女が本来持っていたものなのかわからないけど。
けど、彼女が持つ優しさや明るさなどの魅力は、ずっと前から備わっていたものに違いない。
その魅力に惹かれて椿さん…それから日向さんの周りに沢山の人が集まって、慕われていたんだろう。
彼女の家族も、沢村さんも、その他のお友達も、お母さんも、みんな彼女のことが大好きで。
私も、彼女のことが大好きで。
特別で。
「椿、そろそろ帰ろう?」
「はい」
―――ずっと前から、日向さんのことが好きでした。
お母さんと同じように、恋愛感情として―――
今はもう、その想いは恋愛から家族愛に昇華してしまっているけど、想いの大きさは変わらない。この先ずっといつまでも消えることはないと思う。
初恋は叶わなかったけれど、私はある意味特別な位置で彼女の傍にいることができるのだから、それで十分だった。
「……私、付き合うなら日向さんみたいな人がいいです」
「はぁ!?」
何気なくつぶやいた言葉に、日向さんは過剰に反応した。
両肩を掴まれて、必死な表情で詰め寄ってくる。
「いやいやいやいや!ちょっと待ってね!?椿はもっと理想を高くしたほうがいい!!私みたいな人は止めたほうがいい!っていうかそんな奴は認めんっ!!!」
「え、えっ?」
理想はかなり高いと思うんだけど。日向さんみたいに素敵な人なんて、なかなか見つからないと思う。
今はまだ、お母さんや日向さんと一緒にいたいと思っているから、恋愛は当分先でいいけれど、いつか私も誰かを好きになれるのかな。
「…こほん。まあ半分冗談として。椿に好きな人が出来たら、お、応援するからねっ」
「ありがとうございます」
なぜか日向さんの顔が引き攣っていて、面白かった。声も微妙に裏返ってるし。
「日向さん、手をつないでもいいですか?」
「もちろん」
了承を得たので、遠慮なく彼女の手を握った。
繊細で暖かいその手を握るだけで、とても安心する。
私たちは手を繋いだまま家に向って歩き出した。
守られてばかりの自分だけど、いつか私も誰かを守れるような人間になりたい。
振り返って、悔いはないと言えるような人生を送りたい。
今、隣を歩いている、私に幸せを与えてくれた彼女のように。