手のひらに書いた幸福*その3
すっかり日が沈んで暗くなった夜道を、一人ぽつぽつと歩く。
「もう、家に着いてるかもしれないなー」
結構長い間小姫と話していたので、家を出るのがすっかり遅くなってしまった。
急いで追ってはみたけど、彼女の家の近くまで来ても姿を見つけることはできなかった。
「…家まで届けに行くしかないよね」
正直に言うと、あの家に行くのは避けたかった。
この時間だと確実にお父さんとお母さんは家にいるだろうし。
行きたくないわけじゃないけれど、やっぱり胸の内は複雑で、心のどこかでブレーキがかかってしまう。
もう、割りきっているつもりだったけれど、そう簡単に心の整理はつかないものらしい。
自分の気持ちなのに、自分の思うように出来ないのがもどかしくて、歯痒かった。
けど、だからといってこのまま引き返すわけにはいかない。
私の手元にあるこの財布を、あの子に届けなくてはいけないから。
「よし」
気合を入れ己を奮い立たせ、過去に自分が住んでいた懐かしい家へとゆっくり足を進める。
ここからすぐ近くにあるというのに、なかなか辿り着かない。歩いている時間が、とても長く感じた。
もし、インターホンを鳴らしてお母さんが出てきたら…何と言えばいいだろうとか
どんな顔をすればいいんだろうとか、ずっと考えていた気がする。
実際掛かった時間は数分かもしれないけど、私が体感している時間はそれの数倍だと思う。
さっきから心臓がバクバクとうるさく鳴っているし、胃もキリキリと痛んでいる。
私…こんな状態で、まともに話すことが出来るだろうか。
でも、もう少しで家が見えてくるはずだ。
私は緊張で汗ばんだ拳を握りなおし、溢れてきた唾を飲み込んでから歩みを進めた。
あの角を曲がれば、ついに辿り着く……そんな時のことだった。
『っ!!!』
「…?」
どこか切羽詰ったような人の声が、私の耳に届いた。
誰かに訴えるような、無我夢中で叫んでいるような、けれど小さな、そんな声。
私にはその声が、助けを求めているような声に聞こえて、酷く気になってしまった。
けれど周りを見渡してみても、人の気配なんてなかったから、私の気のせいかもしれない。
極度の緊張のせいだと思うことにして、歩みを進めようとした。
でも。
『助けっ……!!…っ』
「!?」
今度ははっきりと聞こえた。
気のせいなんかじゃない、助けを求める誰かの声。
私はすぐに声の聞こえた方に行こうとしたが、意識せずピタリと足が止まってしまう。
『庇ってくれたのは嬉しいけど、でも、自分を省みない行動はしないで。お願い』
「……………」
先日、必死な表情で訴えていたあの子の言葉が頭に響いた。
あの時の彼女はきっと、『私』のことを思い出して言ったに違いない。
自分のことを省みず行動して、死んでいった姉のことを。
「……っ」
行かなくちゃ。
そう思っても過去の出来事を思い出してしまい、私の体は動けなくなっていた。
簡単に首を突っ込んで“あの時”みたいに取り返しのつかないことになったら―――
そう考えると怖くて足が竦んでしまい、動いてくれなかった。
また失うのが怖い、悲しませるのが怖い。
でも、だからといって無視して放っておくこともできない。
(臆病になっちゃったね……私)
昔の自分なら、何も考えず走り出していたはずなのに。
以前の自分を失って16年。冷静さや慎重さを身につけることはできたけど、
かわりに昔の無鉄砲な自分を失ってしまったのかもしれない。
大人になるって、こういうことなんだろうか。
関わらなければ、自分には何も起こらない……でもその代わりに別の人が犠牲になるんじゃないか。
そう思うといてもたってもいられない。
自分でも馬鹿だとは思う。決して褒められる行為じゃないって解っているけど。
また同じことを繰り返してしまう可能性だってあるのに、それでもやっぱり私は。
(誰かが困っているのに見過ごすなんてことは、無理みたいだ)
何もしないで後悔なんて、したくない。
躊躇なんてしてて、間に合わなかったなんて、そんなことになったら……嫌だから。
私はしっかりと前を見据えて、声のした方へと勢いよく走り出す。
来た道を少し戻って、通っていない細い道に入ると、人の影が見えた。
フードを被った体格のいい男に掴まれている小柄な女の子を見つけて、私は何も考えずに2人の元へ走る。
そして何も考えず、今まさに振り下ろされようとしていたモノを少女の身体に届く前に掴んで止めた。
間一髪、といったところだろうか。
「なっ………!?」
「ぁ……」
「……っ!」
ポタポタと、自分の手から赤い雫が地面に落ちていく。
男と少女の気が逸れている隙を見計らって、素手で握り締めていた携帯用のナイフをもう片方の手で奪う。
そして固まっている少女の手を引っ張ってから、唖然としている男から急いで距離をとった。
考えなしに飛び出したけれど、どうにか上手くいったようだ。
「はぁ…っ、なんとかなった…かな?」
緊張が緩んで息を吐く。
傍にいる女の子を見ると、驚きで目を見開いていた。
「な、なんで…アンタが…ここに……」
「それはこっちの台詞だってば、ストーカーさん」
そう、私が助けた少女は先日出会った瑠美のストーカーさんだった。
どうしてこんな時間にこんな場所に…って思ったけれど、どうせまた瑠美をストーキングしていたんだろうなぁ。
この子、あんなにきっぱり断られてもまだ諦めてなかったんだ。
ええと名前はなんていったっけ…なんとか島さんだったっけ?
「あっ!!あの男が逃げるっ!」
「っ!」
私たちが話している間に男は背を向けて慌てて走り出していた。
今すぐ追えばもしかしたら捕まえる事が出来るかもしれない。
「お、追わないの?」
「……うん」
可哀想なぐらい顔を青くして、身体を恐怖で震わせている彼女を置いていくわけにもいかないし、それに深追いするのも危険だ。
彼女の安全を確保できたのだから、十分。ここから先は本職の警察に任せた方がいいだろう。
さっき私が奪ったナイフと、変質者の特徴を伝えれば捜査も進むかもしれない。
「大丈夫?」
「ん…うん…。って、それは私の台詞じゃないっ!何よその血だらけの右手!!!」
「え?あー…ほんと」
言われるまで気付かなかったので、指摘されてからようやく痛みを感じだした。
この子を守ることに集中してたから怪我してることをすっかり忘れてた。
よく見ると鋭利な刃を受け止めた私の右手は真っ赤に染まっており、とてもグロい状態なので直視したくない。
結構深く切れているようなので血が止まらず、未だにだらだらと流れ出していた。
ちょっと、やばいかもしれない。
「と、とにかく病院に!ああ、一応、応急手当を…そ、それに警察も呼ばないとっ」
「まあまあ落ち着いて」
「アンタなんでそんなに落ち着いてるのよっ!?」
彼女はハンカチをポケットから取り出して、私の手にぐるぐると巻きつけてキュッと縛る。
けれどすぐ血が染みてしまってハンカチは真っ赤に染まってしまった。
一枚じゃ心許ないので、私は自分のハンカチを取り出して上から二重に巻いておく。
「なんで…こんな怪我までして助けてくれたのよ……私、この間アンタに酷いことばっかり言ったのに…っ」
「だって放っておけないし」
「わ、私とアンタは顔見知り程度の関係でしょ!?むしろ敵よ、敵っ!それなのに身体張って助けるなんておかしいわよ!」
「うーん、確かにいい印象はないけど」
「でしょう!?なんで放っておかないのよ!馬鹿じゃないの!?」
そりゃ、瑠美は彼女のストーキング行為に迷惑していたし、私も結構色々言われたし、初対面の印象は最悪といってもいい。
妹のストーカーだっていう人間を好きになれと言われても困るだろう。
「わ、私を庇ってそんな傷まで負って……なんでなのよ…なんなのよ…。アンタ、頭おかしいわよ」
負傷してまで助けたのに酷い言われようだった。
恩を着せるために助けたわけじゃないから、何と言われようがどうでもいいんだけど。
「貴女が傷ついたら、瑠美は悲しむからね」
「……………なによ、それ」
私が傷ついても、瑠美は悲しんでしまうだろう。
だから、私が彼女を助けたのは自己満足。
彼女のためにやったことじゃなくて、自分の為にやったことだ。
ただ、瑠美の悲しむ顔を見たくなかっただけ。
「もしかして最近この辺りで出没してる変質者って、今の男だったのかな?」
「多分そうじゃない?…あの男、急に後ろから抱き付いてきて……凄く驚いたわ」
襲われた時のことを思い出したのか、自分の身体を抱きしめて身震いをする。
「私があんまり騒ぐから、ナイフ取り出して、黙らせようとしたみたい…」
「なんにせよ無事で良かった」
「良かった、じゃない!!アンタは無事じゃないでしょうが!いい加減、病院にいくわよっ!」
「ぎゃー!引っ張ったら傷が!傷がぁああたたたたたー!!」
「うっ、ご、ごめん」
掴んだ手をパッと離して、申し訳なさそうな顔をする。
……この子、口は悪いけど、もしかしたら結構いい子なのかもしれない。ストーカーだけど。
「そうだ。この怪我のこと、瑠美には黙ってて欲しいんだけど」
この前、自分を省みない行動をするなと釘を刺されたばかりだったので、怒られそうだし。
「………………いいけど」
「ありがとう」
「アンタさ、先生とはどういう関係なのよ」
じとっとした目で睨まれる。
「前に言ったと思うけど…。そうだなぁ、とりあえずストーカーさんが心配するような関係じゃないよ?瑠美は私にとって妹だし」
「は、はぁ?妹?え、そういうプレイってこと?…え、アンタって変態?」
「ストーカーに変態って言われた!!」
自分だって変態じゃん!ストーカーじゃん!なんでそんな軽蔑の眼差しを向けるの!
「やっぱアンタ敵だわ。私と先生の敵…いや、世界の敵」
「私が何したっての!?」
何も悪いことしてないのになんか重罪人みたいな評価されちゃってるよ!?
「ああ、それと言い忘れてたけど」
「?」
彼女は視線を私の背後へと向ける。
「後ろに先生がいるから」
「………は?」
恐る恐るゆっくり後ろを振り返ると、すぐ傍に泣きそうな顔をした瑠美が仁王立ちで立っていた。え、何、この威圧感……。
このまま処刑されてしまうんじゃないかと錯覚するほど、私と瑠美の間に流れる空気は重かった。
もう家に帰ってると思ってたので、まさかこんなところで会うなんて予想できませんでしたよ。
なんでもっと早く言ってくれないんですか!ストーカーさん!!
「おっと…」
私は怪我した右手をさりげなく後ろに隠して、瑠美から見えないようにする。
けれどもう既に彼女の真剣な目は、私の赤い右手を捉えていた。
「その、怪我………」
「えーっと、そう、ドジって転んじゃったんだよ!運悪く釘が落ちてたからグサッと刺さっちゃってこんなことに!」
「変質者に襲われた私を勝手に助けて勝手に怪我したんですよこの人」
真顔であっさりと白状された!
おーい、黙っててくれるんじゃなかったんですかー。
瑠美は俯いていて顔がよく見えないからどんな表情をしているのかわからない。
これから何を言われるんだろうかと身構えていると、瑠美は私から視線を逸らしてストーカーさんの方を向いた。
「大丈夫?貴女は、怪我してない?」
「は、はいっ」
「……無事で、良かった」
「ありがとう…ございます…」
私と2人だった時の冷たい態度ではなく、嬉しそうに頬を染め素直に返事をする。
「詳しい事は明日聞くとして、心配だから家まで送っていくわ。ご両親にも説明しないといけないし。……日向、ちゃんも一緒に来て。同じ方向に病院があるから」
「……うん」
淡々としている瑠美の態度に拍子抜けしてしまう。
なんか、こう、もっと心配されるか怒られるかを予想していただけに肩透かしをくらってしまった。
「日向ちゃん?」
「あ、ごめん」
ボーっとしている間に2人はもう歩き出していて、少し離れた位置に居た。
ストーカーさんが傍に来て、怪我した手のほうをじっと見つめている。
「手、痛むの?」
「ううん。大丈夫だよ、ただ考え事してただけだから」
どうやら手が痛んで動けないと思われたらしい。
どこか心配そうな目を向けられたので、笑って平気だと言ったら少し安心みたいだった。
「よし行こう、ストーカーさん!」
「ちょっとアンタ、その呼び方やめてよね。私は島埼由歌って名前があるんだから」
「はいはい、島埼さん。じゃあそっちもアンタじゃなくて日向って呼んでよね」
「はあ?何で私がアンタのいうこと聞かなくちゃいけないのよ」
「えー」
「……2人とも、早く行くわよ」
「「はーい」」
私達は睨みあいながら、瑠美が待ってる場所へと歩いていった。
「ありがとうございました」
私は医師にお礼を言ってから診察室を出た。
包帯でぐるぐるに巻かれた滑稽な自分の右手を見て、思わず笑いが漏れてしまう。
いや、笑い事じゃない。完全に治るまで二週間はかかると言われたし、その間いろいろと不便なので大変なのだ。
利き手が使えない状態なので食事とかお風呂とか着替えとか片手でやらなきゃいけない。
(面倒だなぁ)
でも、それだけで済んで良かったと思う。
色々と不便で大変だけど、すぐに元通りになるのだから。
重症とか負ったり、最悪また死んでしまったらそれこそ色々な人達に顔向けできない。
「瑠美さん」
「あ……」
受付を終えてロビーに向かうと、瑠美が椅子に座って待っていてくれていた。
私が診察を受けている間に島崎さんを家に送っていったようで、一人のようだ。
私の姿を見つけると、すぐ立ち上がって私の元へと駆け寄ってきてくれる。
「全治二週間だって。大したことなくて、傷も残らないらしいよ」
「そう……良かった」
私の言葉を聞いて瑠美は力なく微笑んだ。
言葉少ない彼女の様子を不思議に思いながら、診察の内容を伝え終える。
「そろそろ、帰ろうか」
「うん」
小姫には電話で遅くなると伝えてあるけれど、心配かけないように早く帰らないと。
病院を出て静かな住宅街を2人で歩く。
明るい話なんて出来る空気じゃなかったし、話しかけるタイミングさえも掴めず、気まずい沈黙が続いていた。
家に帰るまでこんな状態が続くのかと思うと、気が滅入るわ。
ちらりと瑠美の方を見る。
暗くて表情はよくわからないけど、真っ直ぐ正面を向いて、何を考えているのだろう。
私の視線に気付いたのか、彼女は目線だけをこちらに向けた。
「あ、そうだ」
ポケットを探って、財布を彼女に渡す。
「すっかり忘れてた。忘れ物を届けようと思って、瑠美さんの家に向かう途中だったの」
受け取った財布をじっと見つめてから、突然くしゃりと綺麗な顔を歪ませる。
「……私が、この財布を忘れたから…こんなことに。私が、忘れなければ、日向ちゃんは……」
「?…なんで、瑠美さんがそんな顔をするの?大体、届けようと思ったのは私の意志だから関係ないよ」
「私が財布を忘れなければ日向ちゃんはあの場所に居なかったじゃない。原因を作ったのは私よ」
どうして私の周りの人達は、こうして自分から責任を背負おうとするんだろう。
きっと真面目で、優しすぎるから……かなぁ。
「でもさ、瑠美さんが忘れ物をして、私が届けに行って、結果的には島埼さんを助ける事が出来たんだから」
あの場所に私が居なければ、島崎さんは今頃どうなっていたかわからない。
私があの場所に居なくても彼女が自力でどうにかしてたかもしれないし、最悪の事態になっていた可能性もある。
でも、結果的に彼女は助かった。それで、いいんじゃないんだろうか。
「うん、結果オーライだよ」
「よくないっ!!!!」
「っ!」
辺りに響き渡る、瑠美の悲痛な叫び。
彼女の表情は悲しみとか怒りとか、色々な感情が交じり合っていて、とにかく見ていて辛くなるようなものだった。
「よく、ないよっ!だって、そんなに酷い怪我してるじゃない…」
「ううん、見た目より随分軽い怪我だし、そんなに心配しなくても…」
曖昧に笑いながら軽い調子でそう言うと、瑠美は鬼のような怖い形相で詰め寄ってきた。
あまりにも迫力のある顔だったので、息を呑んでしまう。
「心配するに決まってるじゃない!どうして姉さんは自分のことに無頓着なの!?他人ばっかり気にして…いつも自分は後回しで!!」
「え、あ、すみません」
凄まじい勢いに圧倒されて、仰け反ってしまう。
「今回は幸い怪我で済んだけど、もしかしたら“また”死んじゃう可能性だってあるのよ!?」
「いや、それは自分でも十分解ってるんだよ?でも放っておけないし…」
「私だって解ってる!それでも、それでも言わずにはいられないのよ!!」
「ご、ごめんね……って、ん?」
何かがおかしいことに気付いて、思考が止まってしまう。
…
………
…………………。
えーと。
「あの、瑠美さん?もしかして……気付いてたりする?」
「……何のこと?『姉さん』」
「……………」
疑うとかそんなレベルじゃなく、瑠美は明らかに確信していた。
私が赤口椿だったということを。
どうして、気付かれた?
いつ、気付いた?
咄嗟に言葉が出なくて、アホみたいに口をぱくぱくと動かしていた。
瑠美は狼狽している私を拗ねた目で睨んで、大きく息を吐いた。
「性格、好きなもの、嫌いなもの、癖………日向ちゃんは何もかもが姉さんと全く同じで驚いたけれど、偶然似てるだけだって思ってた。
だって名前も姿も違うし、姉さんは確かに16年前に死んでいてこの世界に居るわけがないんだから。
でも……よく考えると、姉さんしか知らないはずのことを、なぜか日向ちゃんは知ってて不思議だった」
「………………」
「それでも、解らなかった。日向ちゃんが姉さんのわけがないし、それじゃあどうしてだろうってずっと考えてたの。
そして今日……酔った私を迎えに来てくれた日向ちゃんは『姉さん』そのものだった。私の、知ってる姉さん、で……」
目元に涙を浮かべて、喋る言葉の端々に小さな嗚咽が混じっていた。
「最初は酔ってるせいだと思った…夢かもって思ったよ。でもね」
それから彼女は、“酔っていた時のことを全部覚えていて、ずっと起きていた”のだと教えてくれた。
落ち着くのを待ってから、彼女は再び語り出す。
「見守ってるって言ってくれた。生まれ変わっても、ずっと私の姉でいるって……言ってくれた」
「……ぁ」
「あれで気付かないわけないよ。信じられないけど、信じたくなっちゃうよ」
瑠美は、はにかんだように笑う。
まさか酔っていた時のことを全部覚えていて、寝ていると思っていたのに実は起きてたなんて、思わなかった。
やっぱり、そこまで言われたら誰だって気付いてしまうだろうものだろうか。
「それで、日向ちゃんが姉さんだって気付いたけど、それからどう接すれば良いのか解らなくて、混乱してて」
私の部屋で起きてから態度がおかしいと思ってたけど、そういう事だったんだ。
姉の生まれ変わりだと気付いたのはいいけど、まだあの時は心の整理が出来ていなかったんだろう。
それで、慌てて帰っていったんだ。
「家に帰らないで、回り道をして頭を冷やしてたの…。それで、家の近くで島埼さんと怪我した姉さんがいたから」
「……今まで、黙っててごめん」
何といえば良いのか解らなくて、考えなしに吐いた言葉は陳腐な謝罪だった。
「……姉さんは絶対、自分から本当のことを言わないだろうって、言ってた」
「えっ?」
「あのね、回り道をして帰ってる途中で陽織さんに電話で相談したの」
「…………」
「そしたら陽織さんは、姉さんのこと知ってるって言ってた。今思えば、姉さんのおかげで陽織さんはあんなに笑うようになったんだね」
「陽織、何て言ってた?」
「“あの人は本当のことを知らない方が幸せだなんて思ってるかもしれないけど、瑠美ちゃんは知る権利があるわ”って。色々、教えてくれた」
少しだけ寂しそうな顔をして、目元に溜まった涙を指で拭う。
「姉さん」
「うん」
「姉さん、だよね」
「…正確にはもう、姉じゃないけど、ね。でも、それでも私は瑠美のこと、大事な妹だって思ってる……」
「うん……うん。それで、いいよ。姉さんが生きていてくれたら、それでいい」
「……ありがとう。それと、本当にごめん」
今まで黙っていたことと、瑠美を悲しませたこと。
もしかしたらまた心に傷を負わせてしまうところだったのかもしれない。
自分の行動に後悔はないけれど、心から心配してくれる人達のことを考えると、苦しい。
「姉さんは、もっと自分の為に生きてよ……」
「自分勝手に生きてると思うけど」
「………中身は全然、変わってないね」
眩しいものを見るかのように、目を細めて優しく微笑んでいる。
私も同じように、瑠美を見た。
「瑠美は大きくなったね。見た目も、中身も、立派になって」
「……姉さん」
自分より背の高い妹を見上げて、思いっきり手を伸ばす。
ちょっと苦しいけど、大雑把に彼女の頭を数回だけ撫でた。
「もう、危ないことしないで。また居なくなるなんて嫌だよ……。椿ちゃんも、今のご家族も、陽織さんも、悲しむよ」
「……大丈夫だよ、私は欲張りだから。今度こそ、一分一秒でも長く生き続けるつもりだよ」
死ぬってことは、自分ひとりの問題じゃないってことを、嫌というほど思い知ったから。
「“お姉ちゃん”、手を出して」
「う、うん?」
言われたとおりに、怪我をしていない左の手を差し出す。
すると瑠美は私の手のひらに何か文字を書き始めた。
何と書いてるのか気になったので覗こうとすると、覗いちゃだめ!と怒られてしまったので大人しく待つことにする。
「できた。はい、お姉ちゃん飲み込んでね」
「りょーかい」
自分の手のひらには何も乗っていないけれど、私は手のひらに書かれた見えない文字を食べるように飲み込んだ。
もちろん味なんかしないし、感触だってない。
これは、おまじないだから。
私たち、2人だけのおまじない。
「なんて書いたの?」
手のひらから伝わってきた指の感触で二文字ということは解ったけれど、正確な文字は解らなかった。
瑠美は悪戯をする子供のような顔で、楽しそうに笑っている。
どうやら答えを教えてくれる気はないらしい。
「姉さんが私に沢山くれたものだよ」
「?」
「ふふっ」
首を傾げている私を見て、瑠身は一層笑みを深めた。
なんだかとっても、くすぐったい。
『私』のことを知られてどうなるかとヒヤヒヤしたけれど、こんなに嬉しそうな顔をしてくれるのなら隠さなくても良かったのかもしれない。
ずっと知られることを恐れていたのに、こんなにあっけなく受け入れられるなんて、拍子抜けだった。
無駄に考えすぎ……だったのかなぁ。
「でも、本当に信じられない。日向ちゃんが、姉さんの生まれ変わりだったなんて」
全身を探るように眺められて、なんだか落ち着かない。
改めてそんなに見ても変わったところなんてないし、意味ないと思うんだけど。
「姉さん私より背が低いね」
「……うっ、それはそうでしょ。私の方が何歳も年下なんだから」
「昔とは逆だね」
昔の瑠美よりは背が高いと思うんだけどね。
今は誰が見ても瑠美のほうが姉で、私のほうが妹に見えるに違いない。
…むむ、仕方ないとはいえなんか悔しい。
「見た目なんてどうでもいいよ。誰がどう思っていようと、私にとって、日向ちゃんは姉さんだから」
「瑠美……」
私のことを姉と認めて、姉と呼んでくれることが嬉しくて涙腺が緩むのを感じる。
16年もの間私の死を悲しんでくれていたのに、今もこうして普通に生きている私を責めることなく受け入れてくれた。
…こんなにも、私は周りに恵まれている。
なんて贅沢者なんだろう。
「あの、ね」
「なに?」
「不審に思われるから今まで通り日向ちゃんって呼ぶけど……二人のときは、姉さんって呼んでもいい?」
「それは、もちろんいいけど」
「日向ちゃんは姉さんだけど、日向ちゃんだし。…小姫ちゃんっていうちゃんとした妹もいるって解ってるんだけど」
「私は小姫も瑠美も、二人とも大事な妹だって思ってるから」
「う、うん…ありがとう、姉さん」
照れくさそうに頬を染めて、微笑んでいる。
私も似たような顔をしているに違いない。
「は、早く帰らないと小姫ちゃん心配するね」
「そだね。じゃ、急いで帰ろっか」
むず痒い空気を振り払うように、私達は止めていた足を動かして帰路を急いだ。
しかし……随分と帰りが遅くなってしまった。
でも何だかんだいって、小姫はきっと起きて帰りを待っていてくれる。
そして私を見れば、憎まれ口を叩いてくるに違いない。
わがままで、生意気で、素直じゃないけれど、根はとても優しい子だから。
「ねえ、姉さん」
「ん?」
もうすぐ自分の家に着くというところまで来て瑠美が突然ピタリと足を止めたので、私もつられてその場で立ち止まる。
どうしたんだろうかと首を傾げていると、彼女はしばらく黙ったまま私を見つめていた。
それからゆっくりと息を吸い込んで、私を驚かせるには十分な表情を向ける。
それは、昔と変わらない、花の咲くような満面の笑顔。
「姉さんはね、私の自慢のお姉ちゃんだよ」
そう伝えると、瑠美は満足したのかご機嫌な様子で再び歩き出した。
けれど私はだらしなく口を開けてその場に立ったままで。
……視界がぼやけているのは、きっと気のせいだろう。
喉がチリチリとするのも、きっと気のせい。
「姉さーん?」
瑠美が呼んでる。
昔はよく、涙声で呼ばれていたっけ。
待たせると、どんどん機嫌が悪くなっていって大変だった。
あの頃と今では、何もかも変わってしまったけれど。
あの頃と変わらないものだって、確かにある。
濡れた目元を腕でごしごしと拭う。
さぁ、行かなくちゃ。
私を呼んでる、妹の元へ。
*
次の日。
週末なのでいつものように倉坂家に遊びに行くと、来た早々陽織に捕まってしまい部屋に連れ込まれた。
無表情の彼女と一対一で向かい合って、座る。
陽織は椅子に。私は自主的に床に座って背筋を伸ばし、正座をした。
彼女はいつもと変わらない顔をしているけれど、明らかに怒っている雰囲気を纏っていて、緊張を肌で感じてしまう。
も、もう昨日の事が伝わってたんだ…。
もしかして陽織と瑠美の間には私のことを逐一報告しなきゃいけない義務か何かあるんじゃないだろうか。
情報の伝達が素早くて、恐いんですけど。
「日向」
「はい」
彼女が私の名前を呼ぶだけで、身体が震える。
いつもより少し低い声が、彼女の今の心境を表しているようだった。
陽織は私の顔を真っ直ぐ見ているけど、私は陽織を真っ直ぐに見ることはできない。
少し顔を伏せて、彼女が言葉を発するのを今か今かと待ち続けていた。
「…………私が何を言いたいのか、貴女は解ってるんでしょう?」
「なんとなく」
包帯の巻かれた手を見つめられる。
そして呆れた顔で、大きく溜め息を吐いた。
「貴女の人生なんだから、貴女の好きに生きるのは当然だわ。私が、口出ししていいことじゃない」
「………………」
「もう、お節介ってレベルじゃないわね…たちの悪い病気だわ。運が悪ければ命にも関わるし、治りそうもない難病」
お手上げだと言わんばかりに、手をひらひらと振って、再びため息を吐く。
「私が言いたいことは、瑠美ちゃんがほとんど言ってくれたみたいだから言わないけれど……」
本当はもっとたくさん、言いたい事があるだろうに。
私のことを責めてくれて良いのに、怒鳴ってくれていいのに、彼女は冷静なフリをする。
残酷なほどに彼女は“優しい”。
陽織は椅子から立ち上がって私の傍にしゃがみ、目線を合わせた。
怪我した手に、優しく自分の手を重ねてくる。
「お願いだから、もう二度と、いなくならないで……………馬鹿」
その切羽詰ったような……小さな掠れ声が、大きく胸に響いた。
怒鳴られたり、憎まれたり、嫌われたりすることなんかより………何よりも、彼女の言葉と悲しげなその表情が、堪えた。
「ごめん」
彼女が、死を人一倍恐れてるって、知っていたはずなのに。
「陽織、ごめん」
彼女を悲しませたことが、どうしようもなく苦しい。
「……謝らなくていいわよ、もう」
私が顔を伏せていると、陽織が優しい声をかけてくれた。
そして怪我している手を恐る恐る擦ってくれる。
「……手、痛む?」
「いや全然平気」
本当はチクチクと今も痛んでいる。
でも、悲しそうな顔をしている陽織を見ていたから、痛みのことなんて忘れていた。
手の怪我よりも彼女を悲しませている事のほうがよっぽど痛い。
コンコン
控えめなノックの音が聞こえて、部屋のドアがほんの少しだけ開かれる。
その隙間からちょこんと顔を出したのは、椿だった。
「あの、お話は終わりましたか?」
「どうかしたの?」
「ご飯の準備が出来たので、呼びに来ました」
「そう。話は大体終わったから、すぐに行くわ」
「えっと……あの、早く来て下さいね?」
「うん、ありがと椿。手伝えなくてごめんね」
椿は照れるように微笑んでから、そっとドアを閉めて戻っていった。
「……あの子。日向のことが心配だったみたいね」
「え?」
「私が貴女をこっ酷く叱ると思っていたんでしょうね。わざわざあの子が私達を呼びに来たのも、話を切り上げさせる為だわ」
な、なるほど。陽織のお説教を延々と聞かされる私を不憫に思って助けてくれたんだ。
実際はそんなに怒られていないんだけど、気持ちはとても嬉しい。
「椿は優しいなーえへへ」
「…はぁ、まったくもう。椿は日向に甘いんだから。あの子も貴女のこと凄く心配してたのよ」
「うぅっ!」
そう言われてしまうと申し訳なくて何も言えない。
私が押し黙っていると、陽織は静かに立ち上がってから部屋のドアの方に近づいた。
ドアノブに手をかけて、顔だけ振り返る。
「きっと今日はあなたの好きな料理が並んでるんじゃないかしら」
「わ、それは楽しみ~」
これから食べる料理のことを考えていると、陽織は呆れた顔をして本日何度目になるかわからない溜息を吐いた。
彼女は先に部屋を出て行こうとしたので、その背中に向けて私は言い忘れていた言葉をさりげなく投げかける。
面と向かって言うのは、なんとなく恥ずかしかった言葉を。
「ずっと、傍にいるからね」
「っ……馬鹿」
彼女らしい、それでいて優しい声色で呟いてから、陽織は振り返ることなく慌てて部屋を出て行った。
耳が赤くなっていたのが見えたので、もしかしたら照れていたのかもしれない。
普段の冷静な彼女とのギャップが可愛くて、愛しくて、心の奥が不思議と熱くなる。
誰も居ない部屋で、私はしばらく頬を緩めていた。