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Warm Place  作者: ころ太
本編
28/41

回想 ―最期に願ったこと―

いつものように陽織に会いに行こうと、屋敷の裏にある森を通り、約束の庭に向かう。

彼女と待ち合わせているこの場所には私以外に誰もおらず、静かなものだった。

普段は陽織のほうが早くこの場所に来ていたけれど、彼女が体調を崩してからは私が先に着くことの方が多かった。

彼女がこの場所に来るのを待つ為に、大きな木の根元に腰を下ろす。

身重の彼女に負担をかけるわけにはいかないので、会う回数を減らそうと提案したけれど、彼女は首を縦に振らなかった。

陽織が言うには過度の運動はよくないけれど、あまり動かないのも体に良くないらしい。

私にそういう知識は全くなかったので、この先必要になるかもしれないから勉強しようと本屋で妊娠に関する本を読み漁ってたら

知り合いに見つかってしまい、妙な誤解をされて大変だった。


「ふう…」


息を吐いて、空を見上げる。

暖かくて穏やかな風が、さらりと優しく頬を撫でた。



「…………」


少し前、明らかに様子のおかしい彼女に、隠し事を告げられた時のことを思い出す。

何かに怯えるように彼女がずっと隠していたことを告白された時は、頭が真っ白になって、そして愕然とした。

しばらく思考が止まって、彼女の言ったことをようやく飲み込んで、それから湧き上がってきたのは悲しみと怒りと憎しみと、自分の不甲斐なさ。

誰かをこんなに憎んだのは初めてのことだった。

内側から突き破るような激しく黒い感情が自分にあったことにも驚いた。

陽織を追い込み悲しませた男と、そして何も出来ず気付くことも出来なかった自分が憎かった。

いろんな感情が詰まって吐き気がしたけれど、本人が一番辛いのだから、必死に我慢した。


彼女に事の全てを聞いてから、すぐに件の男に会いに行こうとしたけれど、私とその男を

関わらせることが嫌だったらしく、彼女に止められた。

頭に血が上っていた私は振り払ってでも行こうとしたけれど、必死に食い下がる陽織の姿を見て、渋々諦めるしかなかった。



“お願いだから誰にも、何も、言わないで。何も、しないで”



そう切実に懇願されてしまっては、私は何も言えなかった。

自分の内で渦巻いている感情をどうすればいいのか、目の前で苦しんでいる彼女をどうすれば救えるのか、そんなことも全然、解らなくて。

やっぱり、ただ黙って陽織を抱きしめることしか出来なかったのだ。


――悔しかった。

ただひたすらに悔しくて、悲しくて、苦しかった。とても、とても。これ以上、ないくらいに、辛かった。

腕の中にいる彼女の方が私の何倍も辛いのだと思うと、身を引き裂かれるような思いだった。

どうして、彼女がこんな目に合わないといけないんだろう。彼女が、いったい何をしたっていうんだろう。


…陽織の両親は、彼女に起こった事を全く知らないらしい。

知っているのは陽織と、鹿島という男と、私だけ。

せめて両親には話したほうがいいという私の意見は、彼女の拒絶の一言で却下されてしまった。

両親と不仲なのは知っていたけれど、私が思っていた以上に、双方の溝は深いようだった。

私は彼女のことを何も知らない……その事実を今になって嫌というほど思い知ってしまう。


そして、陽織に宿った命をどうするか。

お腹にいる子を産むつもりはないと言う彼女の意見は最もだと思う。

大人びているとはいえ陽織はまだ子供だし、何より好きな相手との間に出来た子供ではないのだから。

……彼女が望んで宿した命でないのだから。

でも。芽生えた命に、罪はない。

例え憎むべき相手の血が流れていようとも。

だから、私は産んで欲しいと、思った。

他人の私が言うべき言葉ではないと十分解っているし、これはただの我儘だってことも理解してる。

子供を産むことが、子供を育てることが、どんなに大変なことか。子育てを経験したことがない私が甘いことを言っている自覚はある。

最後に決めるのは結局のところ彼女だ。だから、彼女が最終的に出した結論について何か文句を言うことはしない。

例え彼女がどんな答えを出そうと、私は彼女を支えるつもりだ。



「陽織、遅いなー……」



待ち人がなかなかやってこないので、携帯で時間を確認しようとポケットに手を伸ばす。

しかし、いくら探ってもそこにあるはずの感触がなくて焦ってしまう。


「…やば、携帯忘れてきちゃった」


自分の部屋に置きっぱなしだったことを今更思い出して、深い溜め息をついた。

まあ、特に困ることもないだろうし、今日ぐらい別にいいかな。緊急の用事なんて滅多にかかってこないだろうし。

そう思って、家に戻り携帯を取ってくるという選択肢を消した。それにそろそろ陽織も来ると思うから、大人しく待っていよう。


うーん、しかし。


「むぅ、眠くなってきた…」


ポカポカ陽気で気持ちの良いこの空間に暫くいたせいか、段々と眠気が襲ってきた。

聞こえる音は鳥のさえずりと木々のざわめきだけで、丁度良くそれが子守唄となり、眠りへと誘われる。

ああ、だめだ。寝てしまったら彼女が怒ってしまうので起きてないと。

閉じようとする瞼を必死で開き、ぼやける頭を小刻みに動かして眠らないようにする。


『……っ!…!』


(人の声!?)


まどろんでいた意識が、聞こえてきた声によって覚醒する。

陽織が来たのかと思ったけれど、周りに人の気配はないようなので違うみたいだ。

じゃあ、今聞こえた声はどこから聞こえてきたのだろうか?

屋敷の中から人の声が聞こえることは今までなかったと思う。

ということはこの近くに誰かいるという事で。

こっそりこの屋敷に来ている自分が見つかってしまうと、私も陽織も困ったことになる。

とりあえず身を隠そうと草むらの中に駆け込み、見えないようにしゃがんだ。

見つからないように気を配りながら、どこかに人がいないか周囲を探る。


(! 近くに誰かいる…)


ちょうど屋敷の陰になっているところに人影が見えた。

どうやら2人で何か言い合っているようだけれど、少し離れていてよく見えないし聞こえない。

失礼だと思ったけれど何やら険悪な雰囲気で気になったので、気付かれないようにこっそり近づいて聞き耳を立てる。

草木の陰から様子を盗み見ると、陽織と良く似た女性と幾分か若い爽やかな好青年が言い争っているようだった。


「だから、誤解だと言ってるじゃないか!」

「何が誤解なの。さっき認めたじゃない、あの娘の相手は貴方だって!」

「だ、だから、それはっ」


女性は鬼気迫る勢いで狼狽している男を問い詰めている。

テレビドラマでよくある修羅場の場面を今まさに見ているようだった。

他人事のように聞いていたけれど、次に聞こえてきた言葉によって一気にそんな余裕は消えてしまう。



「どうして、私の娘に…陽織に手を出したのよ!!」



娘…!?



驚きのあまり声を出しそうになったので慌てて口を手で塞いだ。

どうやら2人には聞こえなかったらしく、変わらず口論を続けているのでホッと胸を撫で下ろす。

けど、あの女性が陽織のお母さんだったのか……どうりで面影があると思った。


「私を愛してるって言ってくれたのは、嘘だったの!?」

「ほ、本当だ、嘘じゃない!信じてくれ」

「ならどうしてあの子は妊娠しているのよ!」


(陽織のお腹の子のことを、知ってる!?)


知らないものと思っていたから驚いたけれど、いくら仲が悪くても同じ屋敷に暮らしていれば気付いてしまうものかもしれない。

そして、私は男の方を睨みつける。陽織の母親が詰め寄っている若い男が………そうなんだろう。

陽織を傷つけた、張本人。鹿島雅之。


(落ち着け…私…)


今にも飛び出して殴りつけたい衝動を抑えて、爪が食い込むほど握り締めた両手を、地面に置く。

そんなことをしたら―――私の気は晴れるかもしれないが、彼女を取り巻く状況は悪くなってしまうだけだから。

気を抜けば憎しみが溢れてしまいそうだったので、歯を食いしばって堪える。


「あいつが…あんたの娘が俺を誘惑してきたんだ!追い詰められて、無碍に断れなくて…だ、だから仕方なかったんだよ!本当だ!!…俺が愛してるのは貴女だけだ…!」


「……………」


今、何て言ったんだろうか、あの男は。


陽織にあんなことをして、さらに責任を押し付けるようなことを言って。

あの男は、どこまで腐った人間なんだろう。

私はどこまで、あの男を憎めばいいの。


「……………っッ!!!」


ふざけるな。

ふざけるなっ。


動いてしまいそうになる足を両手で押さえつける。

叫んでしまいそうになる口を閉じる。

もう、我慢の限界かもしれない。

次にあの男が口を開けば、私は2人のもとに飛び出し自分勝手な怒りをぶつけてしまうだろう。


「そう……あの子が…そう、そうなの……」


ぶつぶつと聞こえるか聞こえないかの声で呟いている。

彼女の表情は虚ろで、瞳は濁っているように見えた。


「ちょ、お、おい……?」


異質な何かを感じ取ったのか男は後ずさりし、女性から少しづつ距離をとっていく。

陽織の母親はフラフラとおぼつかない足取りで歩きだしたかと思えば、近くにあった物置から何かを取り出した。

それは、ナイフに良く似た、生け花用の鋭利なハサミ。


「当てつけのつもりかしら…ふふ……ふ…ふふふ…っ」


口元は笑みを浮かべているけれど顔は笑ってなんかなくて、恐ろしくて、ゾクリと寒気がした。

人はこんなに恐ろしい笑い方が出来るのだと、私はこの時初めて知ったんだ。


「な、何を…する…つもりなんだ…」

「………………」


女性は答えない。けれど、とてつもなく嫌な予感がした。

だって彼女の目が向いている方向は、陽織のいる部屋だったのだから。

どくり、どくりと心臓が鳴る。ダメだ、このままじゃダメだ、と頭の中で警告が鳴り響く。


女性はふらつきながらもゆっくりと足を動かし、陽織のもとへ近づいていく。

歪んだ目つきと口元、手に持ったハサミ。これから何が行われるかなんて、想像するのは容易い。

そう思った瞬間、恐怖より勝る衝動に突き動かされ、私は草陰から勢いよく飛び出した。


「な、なんだお前!?どこから……」


男は驚き、目を見開く。顔は恐怖に染まっており、口からは大人とは思えない情けない声が出ていた。

こんな男に陽織が傷つけられたのか。そうだ、この男のせいで陽織は……いや、今は、駄目だ。

最優先なのは、この男を責めることではなく、彼女の母親を止めること。


私は両腕を広げて、これ以上この人を進ませないよう正面に立つ。


「ま、待って! 陽織は何もしてません! 誤解なんです!」

「お前ッ…な、何を言ってるんだ…!!」


私が声を張り上げると、陽織の母親はピクリと反応して、俯いていた顔を少し上げる。


「……貴女は、確かいつも陽織に会いに来てる子ね」

「知って…たんですか…」

「…………」


わたしがこっそりこの敷地に忍び込んでいたことを、この人はずっと前から知っていたらしい。

それなのに咎める事をせず黙認していてくれたのはどうしてなのだろう。

娘を想う親心からなのか、それとも無関心なだけで放置していたのか、判別がつかない。


「どうしてあの子だけ…こんなに愛されるのかしらね……」

「え?」


彼女は自嘲めいた笑みを浮かべる。

虚ろだった瞳に宿ったものは、狂気。

その瞳は私ではなく、後ろにいる男に向けられた。


「私はこんなに愛しているのに、どうして私を愛してくれないのよ……!!」

「ひっ!な、なんだよ、この女!おかしい…狂ってるっ…!」

「私のこと、愛してるって、言ってくれたじゃないのぉ!!」

「…っな、なんだよ!こっちに来るなっ!」


男は優しい言葉の一つも投げかけることもなく、逃げ腰でただ怯えて拒絶するだけ。

そんな男の様子を見て彼女は力なく笑い、今度はどこか遠くを見つめる。


「そう。やっぱり、いつだって、誰も愛してくれないね……」


手にしているハサミを強く握り締めて、母親はしっかりとした足取りで屋敷の離れの方へと歩いていく。

向かう先はきっと、自分の娘がいる部屋。


「…だから、誤解なんです! 陽織は本当に何もしてないんです! 落ち着いて話を聞いて下さい!!」

「邪魔しないで」

「!?」


立ち塞がっていた私にハサミを突き付け、邪魔をするなと脅された。命の危険に脅かされ、恐怖で体が固まり、動くことができない。

置物と化した私の横を通って、彼女は進んでいく。一歩一歩、確実に。憎しみの対象に、向かっていく。

どうにか誤解を解こうと思ったけれど、私の叫び声には一切耳を貸さず、歩みを緩めることもない。

あの人の頭の中はきっと陽織に対する憎しみだけでいっぱいなんだろう。


どうすればいい。

どうすればあの人を止めることが出来る?


混乱した頭で必死に考えてみても、思いつくことは出来ない。

考えている間にも、彼女はどんどん陽織の元へ近づいていっている。

早く止めないと、失ってしまう。


私のかけがえのない、大切な人を。




「っ!!」




身体が動く。

何か考えがあるわけじゃなく…ただ、止めなきゃという思いだけで、身体が勝手に動いた。

後ろから彼女にしがみついて、これ以上先に進ませないように引き止める。


「邪魔をしないでって、いったでしょう!!!」

「ぐっ!?」


強い力で振り払われてから、体全体でぶつかるように、勢いよく『何か』を腹部に押し付けられる。

トスッ、と自分の身体に異物が入りこんでくる感覚。


「――ッあ…」


突如、襲ってくる激しい痛み。

恐る恐る腹部を見ると、そこにはハサミが差し込まれていた。徐々に血が滲み、服が真っ赤に染まっていく。


「…ぇ…あ…?」


自分のした事に気付いた彼女は、慌ててハサミを私の体から引き抜いた。


「――――ッ!!!!!?」


凶器を引き抜かれた衝撃で、声にならない悲鳴が口から漏れる。

今まで経験したことのない焼け付くような痛みと熱さがお腹を襲う。

あまりの激痛に意識が飛びそうになったが、必死で堪えた。


「…ぁ…ぐぅ…ああぁ…っ」


のた打ち回りたい程の痛み。

頬を冷汗が伝い、体温が少しづつ下がっていくのを感じた。


「はッ…ふぅ…!」


血が溢れている腹部を片手で抑え、膝をつきそうになる足に力を込めてそのまま立ち続ける。


だめ……私は、ここで倒れるわけにはいかない。


このまま眠ってしまったら、陽織はどうなる?

お腹が痛くて痛くてしかたがないのに、私は不思議と自分の身体よりも、陽織のことを考えていた。


「私は…何を……どうして、貴女を…」


さっきまで憎しみに満ちていた彼女の顔は、困惑と驚きで顔を歪めていた。



「な、なんだよ…これ…。ひ、人殺しッ…う、うあああああぁっ……!!!」



そんな彼女に、なりゆきを黙って見ているだけだった男は酷い罵声を浴びせて、なりふり構わず逃げていく。

これが、彼女を愛していた者が放つ言葉なのだろうか。あまりにも酷く、残酷だ。

その滑稽な男の後姿を、陽織の母親は呆けたように見つめているだけだった。

そして力の抜けた手から、真っ赤に染まったハサミが滑り落ちて地面に転がる。


「ちが…違うんです……陽織は、悪くないんで、す…。陽織は、あの男に襲われた、被害者で…」

「…………………」


彼女は呆然と私のほうを向く。

どうやら、私の話を聞いてくれる気になったらしい。


「貴女も、被害者、なんです……」

「…………っ」


あの男の態度から見るに、愛なんてものは感じることが出来なかった。

あいつが与えたものは愛なんかじゃなくて、悲しみや絶望や憎しみといった負の感情ばかりだ。

でも。それでも、陽織の母親はあの男から優しい幻想を貰っていたのかもしれない。

偽りだとしても、幸せな時間を過ごせていたのかもしれない。


「貴女は、騙されて、いたんですよ」

「違う…あの子が、私のあの人を奪って、だから……」

「……陽織はそんなこと、しません」

「あの子は、私を憎んでるもの…なんだってやるわ、あの子なら……」

「確かに陽織はあなた方ご両親を、憎く思ってる。けど、だからといって、大事なモノを奪うような真似なんて、絶対にしません」


冷たい言葉を吐くし、素っ気ない態度もとる子だけれど、陽織は凄く優しい子なのだ。

どんなに憎くても、その感情で相手を傷つけるような真似はしない。不器用だから、自分の中に溜め込んで、抱え込んでしまうんだよ。

長い間ずっと一人で溜め込んで、苦しんで、相手ではなく自分自身を傷つけていったんだ。


「信じて、あげてください」


喋るのが辛くなって、一旦息を吐く。

言葉を吐くたびに力が抜けていくような気がしたけど、話すことは止めない。


「母親の貴女が、信じてあげなくて、どうするんですか。愛してあげなくて、どうするんですかっ」


自分で何を言っているのか解らないけれど、言いたいことを叫ぶように、相手に伝えた。


「子供から、逃げないでください。拒絶されても、ぶつかってください。伝わるまで、伝えてください」

「……………」


私は陽織と両親の関係の事は何も知らない。

そんな私が口を出すなんて、正直おこがましいとも思う。


「お願いですから、憎しみなんて感情…娘に向けないで下さい…」


でも言わずにはいられない。願わずにはいられない。

様々なしがらみが邪魔をして、上手く絆を築くことが出来なかった、不器用な母娘のことを。


「陽織のこと、守ってあげて下さい…お願いします…」



私はもう守ってあげられないかもしれないから



という言葉を口に出さずに飲み込む。

自分を刺した相手にこんなお願いをするなんて、どうかしてる。

けれど彼女は、形容しがたい表情を浮かべて、細められた目を私に向ける。

先程感じた恐怖はないけれど、どこか不安になってしまう。そんな表情だった。


「もう…何もかも、遅すぎたのよ……何も、かも…」

「そんなこと、ない、ですよ」


すぐ傍に落ちていた血濡れのハサミを拾い上げて、握りしめる。それは自分を刺した、凶器。


「あ、はは。私ったら、ドジだから、うっかり転んでハサミで、自分のお腹刺しちゃった。あー、馬鹿、だ、なぁ」

「……何を、言ってるの? それは、私が――」

「違います。これは、貴女のせいじゃ、ない、です。事故、だから。私が自分で刺したことに、してください」

「違わないわ! 私は殺意をもって刺したのよ! 貴女が邪魔をするから!! 娘だって、殺す気で……っ」

「うん。私が邪魔しちゃったから、ね。私が、もっと上手く、誤解を解けば、良かったんです」

「違う、違うのよっ!! 全部、私が!!」


私からハサミを奪おうとするその手を掴んで、握る。

力が入らなくて上手く握れなかったけど、彼女は無理に振り払うことはしなかった。

震えて、弱々しいその手を、精一杯握りしめる。私の願いが伝わってくれることを信じて。


「寂しかった、んですよね。ずっと、ずっと、寂しかったんですよね」


ぎゅっと手に力を込めると、彼女はびくりと震える。どうしたらいいのかわからないのか、茫然と私を見ていた。

ああ、なんか、今の顔は、陽織にそっくりだなぁって思ってしまう。彼女もよく、私の行動に呆れてそんな顔をするのだ。

そのあとすぐしかめっ面になって、怒られてしまうのだけど。


「陽織も、寂しかったんです。両親のことは憎んでるって言ってましたけど、きっと、本当は、寂しかったんです」

「…………」

「だからどうか、支えて、あげてください。これからは、守ってあげてください。陽織と、そして、お腹の子供を」


彼女の瞳が揺れる。そして、何かを決心したのか真っ直ぐに私を見る。そして――


「貴女って、馬鹿なのね」


ふわりと、小さく笑った。

その不器用な笑い方が、やっぱり陽織にそっくりで。

だからきっと、私はこの女性のことも守りたいなんて思ってしまうのかもしれない。


「……ごめんなさいね」


そう短く呟いて、彼女は手を放し、ゆっくりと歩き去っていった。

陽織の部屋がある方向ではなく、屋敷の本邸の方に向かって。


「大丈夫、かな…」


どうやら最悪の事態だけは回避する事が出来たみたいだけど、まだ、やらないといけないことがある。

この怪我は自分でやったのだと、これから陽織に伝えなければいけない。


「うぐ…ぅ…」


気を抜いたせいか、思い出したように激痛が腹部を襲う。

あの男を追い駆けてまだ話したいことがあったけれど、もう体が限界のようだった。


(ここまでか…)


血濡れのハサミを握り締める。

足から完全に力が抜けてしまう前に、いつもの待ち合わせの場所へと足を引きずるように歩いていく。

いつもの場所に辿り着き、大きな木に身を預けるようにして座り込んだ。ここにいれば、陽織は私を見つけてくれる。


「はぁっ……」


こんな状態の私を見たら、陽織はどう思うだろうか。

優しい彼女のことだから必要以上に心配するに決まってる、よね。

彼女を心配させたくないけれど、これ以上身動きするような体力は残っていない。

ならせめて、平気に見えるよう気丈に振舞って誤魔化してみようか。


(……陽織?)


痛みに耐えながら暫く待っていると、ようやく陽織が来てくれた。

意識が途切れ途切れになってて、来てくれたことに気付かなかったのは失敗だったなぁ。

体を揺さぶられて、陽織が傍にいることを知った。


……もう、自分に残された時間は、少ないみたい。


焦点の定まらない視線を陽織に向けると、ぼやけた彼女の顔を見ることが出来た。

ああ、視界も霞んできている…。

なんとか目を凝らして、彼女の表情を心に焼き付けた。

心配そうで、悲しみに満ちた顔だったのが、少しだけ、残念だった。

安心させようと笑ってみたけど、あまり効果がなかったみたい。

普段冷静な彼女がこんなに取り乱していて、不謹慎だけど、少しだけ微笑ましかった。


「……すぐ、呼んでくるからっ」


救急車を呼ぶため屋敷に戻って行く彼女の後姿を、ぼんやりと見つめる。

本当は、もっと傍にいてほしかったけれど、もう、声を出す力も、手を伸ばすことも出来なかった。

ああ、伝えなければいけないことが、たくさん、あったのに。

後はもう、上手くいってくれることを願うことしかできない。






陽織。








幼い頃に初めて出会ったあの日からずっと一緒にいた女の子。




家が近所だったから、幼馴染と言っても良いのかもしれない。



彼女は私より年がふたつも下のはずなのに、いつだって偉そうにしていた。



おまけに才色兼備で家は旧家でお金持ちというのだから、それこそ絵に描いたようなお嬢様で。



待ち合わせの時間を1分でも過ぎれば機嫌を損ねて私を罵り、



私がテストで悪い点を取れば厳しい表情で何時間も説教をし、



何もない道で転べば精神的に人を殺せるのではないかと思うほど冷ややかな眼で見られた。



普通の人間ならば再起不能になってしまうような彼女の仕打ちの数々に

ついに『私ってばもしかして嫌われてるのかも?』という考えに至り、

おもいきって彼女に聞いてみたが、どうやらそうでもないらしい。

私は、彼女と過ごす時間が楽しかったから、嫌われていないと知って素直に嬉しかった。

彼女が本当のところ私の事をどう思っていたのか、今になってもよく解らないけど。


一番じゃなくてもいい、何番でもいい、特別じゃなくていい……





彼女が私の事を友達だと思ってくれていればよかった。






(はは……)




無表情で私の作ったクッキーを食べて美味しいと呟いた彼女の顔が頭に浮かぶ。

本当に美味しいの?と聞けば二度も同じ事を言わせないでと怒られたっけ。

滅多に笑わず本心をなかなか口にしない、そんな女の子だった。

だから、幼馴染というのに彼女の詳しいことは何も知らない。



言いたくないのなら聞かないでいるほうが、彼女の為だろうと思ってずっと何も聞かなかった。




(私ってほんと馬鹿だったなぁ)



テストで悪い点を取るたびに彼女に怒られていたから、おかげで成績はよくなったけど

根本的な頭の部分はどうやら馬鹿のままだったらしい。

もう少し、自分が利口だったのなら、こんな結果にはならなかったのだろう。


自業自得なんだ。


(しかたがない)


それでも自分なりにやれることはやったのだから、いい方なのかもしれない。

何もやらずに後悔するよりは、ずっといいに決まっている。


(でも、すっごく怒るだろうなぁ)


もう目も見えなくて耳も聞こえないから、彼女の不機嫌そうな顔も見れないし、凛としたあの声も聞く事が出来ない。

そう思うと寂しくて辛かったけど、叱られるのは苦手だから前向きにラッキーと思っておく。


(あ、もう痛くないや)


視力も痛覚も無くなり体を動かす力も無くなったので確認する事が出来ないけれど、

私の身体からはきっと大量の血が零れていて瀕死の状態なんだろう。

最後に見た時の自分の身体は真っ赤に染まっていたのだから、もう、私は助からない。


(死んじゃうんだ)


そういえば死ぬときは笑いながら死にたいってふざけて言ったことがあったっけ。

それを聞いていたあの子は不機嫌そうな顔で何かを言いたそうにしていたけど。


(でも結局最後は笑ってる余裕なんてなかったから)


せめて一言、お父さんやお母さん、そして妹に何か言えたらよかった。

せめて一目、もう一度、みんな顔を見たかった。

思い返せば色々な心残りが湧いてくるけど、こうなってはもうしかたがないから。


(私は、守れたんだろうか。彼女を)


もう自分は何も出来ないのが悔しいけれど、どうか、幸せになって欲しい。

たくさん、たくさん、幸せになって笑って欲しい。


(もう、そろそろかな)


意識が掠れて、何も考えられなくなってくる。

段々とこの世界から自分が消えていく。

最後に見た彼女の悲しみに染まっていた顔が頭の中でぼんやり再生される。

笑顔じゃなくてもいい。どうせなら、もっと彼女らしい顔が良かった。



もう、死は覚悟していた。

どう足掻いても、逃れる事はできないから。


けど。


やっぱり、私は…





(……死にたくなかった、なぁ)







本当は、もっと、彼女の傍に居たかった。












彼女が生きるこの世界で、生きていたかった。













(……ごめん…ね)






伝えられなかった言葉と願いと共に、私はゆっくりと息をひきとった。







 

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