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捨てられた気象官は、今日も海を読む  作者:


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8/10

第八話 提督の名前

 公聴会の前夜、セイラは眠れなかった。


 不安ではなかった。証拠は揃っている。数字は正直だ。ただ、初めて大勢の前で話すということが、少し緊張した。


 夜中の二時頃、セイラは起きてノートを開いた。今日の気圧、風向き。記録をつける。


 明日は晴れる。


 数字はそう言っている。


 公聴会はギルドの大広間で行われた。


 王国の海事官が二名、ギルド長、港の有力商人たち、そしてヴィンダール子爵本人が出席していた。


 ヴィンダール子爵は会場に入ったセイラを見て、一瞬だけ顔が固まった。


 セイラは気づかないふりをして、自分の席に座った。


 提督が議長を務めた。


「本日は過去十年の難破事故について、新たに得られた証拠を検討する」


 提督の声は静かで、感情がなかった。でも会場の空気を一瞬で引き締めた。


 セイラが最初に立った。


「過去十五年の難破事故記録、気象データ、灯台の修理記録を照合した結果をご報告します」


 用意した一覧を配布した。全員が受け取り、読み始める。


 ヴィンダール子爵は一枚目を見た瞬間、顎が少し動いた。


「事故が起きた夜の共通点は、中程度の嵐と灯台の光の消灯です。灯台守カール氏の証言によれば、指定された夜に灯台を消すよう依頼を受けていました。依頼者はヴィンダール子爵です」


 会場がざわめいた。


 ヴィンダール子爵が立ち上がった。


「でたらめだ。魔力もない令嬢の戯言を証拠と呼ぶのか」


「魔力は関係ありません」とセイラは言った。「数字に感情はありません。記録は事実を示しているだけです」


「カールは私を恨んでいる。証言の信頼性がない」


「オットー気象台長の証言もあります。また、修理業者ハルト工務の台帳によれば、修理依頼を受けたが実際の作業はキャンセルされています。修理記録に名前が使われただけで、実際の修理は行われていません」


 ヴィンダール子爵の顔が少し白くなった。


「それでも状況証拠にすぎない」


「十五年分のデータが一つの方向を指しています」とセイラは答えた。「数字は嘘をつきません」


 海事官の一人が手を挙げた。


「セイラ嬢、あなたはどのような立場でこの調査を行いましたか」


「個人として記録を読んでいました。特別な立場はありません」


「魔力なしで、これだけの分析を」


「データがあれば魔力は必要ありません」


 海事官は提督を見た。提督はうなずいた。


「私がこの調査に同行し、記録の正確性を確認しています」


 会場が静まった。


 王弟である提督が保証した事実の重みは、ヴィンダール子爵の反論を超えた。


 公聴会は三時間続いた。


 最終的に、ヴィンダール子爵の海運免許の停止と詳細な司法調査の開始が決まった。完全な断罪は司法の手続きを経る必要があるが、それは始まった。


 会場を出ると、提督が隣に来た。


「お疲れ様でした」


 提督が労いの言葉を言うのを、セイラは初めて聞いた。


「ありがとうございます。提督の保証がなければ、もっと難しかったと思います」


「あなたの数字が正確だったからだ」


 二人は港の方へ歩いた。夕日が海を染めている。


 しばらく無言で歩いてから、提督が言った。


「一つ、聞いてもいいか」


「はい」


「あなたはなぜ、婚約を解消されてもここで記録を続けたのか」


 セイラは少し考えた。


「数字が気になったので」


「それだけか」


「……あと、ここの海が好きになったので」


 提督は少しの間、セイラを見た。


「ラースヴと呼んでほしい」


 セイラは驚いて提督を見た。


「提督、ではなく?」


「提督は役職だ。私はラースヴという人間として、あなたと話したい」


 セイラはしばらく考えた。


「では、セイラと呼んでください」


「分かった、セイラ」


 提督……ラースヴは前を向いた。


 セイラも海を見た。


 波の音がした。灯台が光り始めていた。今夜は正しく、規則正しく。


 数字が示す通りの、静かな夜だった。

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