第八話 提督の名前
公聴会の前夜、セイラは眠れなかった。
不安ではなかった。証拠は揃っている。数字は正直だ。ただ、初めて大勢の前で話すということが、少し緊張した。
夜中の二時頃、セイラは起きてノートを開いた。今日の気圧、風向き。記録をつける。
明日は晴れる。
数字はそう言っている。
公聴会はギルドの大広間で行われた。
王国の海事官が二名、ギルド長、港の有力商人たち、そしてヴィンダール子爵本人が出席していた。
ヴィンダール子爵は会場に入ったセイラを見て、一瞬だけ顔が固まった。
セイラは気づかないふりをして、自分の席に座った。
提督が議長を務めた。
「本日は過去十年の難破事故について、新たに得られた証拠を検討する」
提督の声は静かで、感情がなかった。でも会場の空気を一瞬で引き締めた。
セイラが最初に立った。
「過去十五年の難破事故記録、気象データ、灯台の修理記録を照合した結果をご報告します」
用意した一覧を配布した。全員が受け取り、読み始める。
ヴィンダール子爵は一枚目を見た瞬間、顎が少し動いた。
「事故が起きた夜の共通点は、中程度の嵐と灯台の光の消灯です。灯台守カール氏の証言によれば、指定された夜に灯台を消すよう依頼を受けていました。依頼者はヴィンダール子爵です」
会場がざわめいた。
ヴィンダール子爵が立ち上がった。
「でたらめだ。魔力もない令嬢の戯言を証拠と呼ぶのか」
「魔力は関係ありません」とセイラは言った。「数字に感情はありません。記録は事実を示しているだけです」
「カールは私を恨んでいる。証言の信頼性がない」
「オットー気象台長の証言もあります。また、修理業者ハルト工務の台帳によれば、修理依頼を受けたが実際の作業はキャンセルされています。修理記録に名前が使われただけで、実際の修理は行われていません」
ヴィンダール子爵の顔が少し白くなった。
「それでも状況証拠にすぎない」
「十五年分のデータが一つの方向を指しています」とセイラは答えた。「数字は嘘をつきません」
海事官の一人が手を挙げた。
「セイラ嬢、あなたはどのような立場でこの調査を行いましたか」
「個人として記録を読んでいました。特別な立場はありません」
「魔力なしで、これだけの分析を」
「データがあれば魔力は必要ありません」
海事官は提督を見た。提督はうなずいた。
「私がこの調査に同行し、記録の正確性を確認しています」
会場が静まった。
王弟である提督が保証した事実の重みは、ヴィンダール子爵の反論を超えた。
公聴会は三時間続いた。
最終的に、ヴィンダール子爵の海運免許の停止と詳細な司法調査の開始が決まった。完全な断罪は司法の手続きを経る必要があるが、それは始まった。
会場を出ると、提督が隣に来た。
「お疲れ様でした」
提督が労いの言葉を言うのを、セイラは初めて聞いた。
「ありがとうございます。提督の保証がなければ、もっと難しかったと思います」
「あなたの数字が正確だったからだ」
二人は港の方へ歩いた。夕日が海を染めている。
しばらく無言で歩いてから、提督が言った。
「一つ、聞いてもいいか」
「はい」
「あなたはなぜ、婚約を解消されてもここで記録を続けたのか」
セイラは少し考えた。
「数字が気になったので」
「それだけか」
「……あと、ここの海が好きになったので」
提督は少しの間、セイラを見た。
「ラースヴと呼んでほしい」
セイラは驚いて提督を見た。
「提督、ではなく?」
「提督は役職だ。私はラースヴという人間として、あなたと話したい」
セイラはしばらく考えた。
「では、セイラと呼んでください」
「分かった、セイラ」
提督……ラースヴは前を向いた。
セイラも海を見た。
波の音がした。灯台が光り始めていた。今夜は正しく、規則正しく。
数字が示す通りの、静かな夜だった。




