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捨てられた気象官は、今日も海を読む  作者:


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第二話 港町の気象台と、拾われた日誌

 婚約破棄から一週間後、セイラは王都を出た。


 行き先は港町レイヴン。王都から馬車で半日ほど南に下った先にある、漁業と交易で栄える小さな町だ。


 父は引き止めなかった。


「しばらく向こうで頭を冷やせ」と言っただけだった。父なりの優しさだと分かっているが、要するに厄介払いだ。魔力のない娘が婚約まで破棄されては、社交界での体裁が保てない。


 セイラも引き止めてほしいとは思わなかった。


 王都にいても、することがない。


 レイヴンに着いたのは昼過ぎだった。


 潮の匂いがした。


 馬車の窓から港を見ると、大小さまざまな船が停泊している。漁船、交易船、帆の色がまちまちで、波に合わせてゆっくり揺れている。岸壁では漁師たちが網を繕い、荷揚げ人夫たちが声を掛け合いながら樽を運んでいた。


 セイラは深く息を吸った。


 悪くない、と思った。


 用意された宿は港から少し離れた静かな通りにある小さな建物で、一階が貸し部屋、二階が家主の住居という造りだった。家主はヘルガという六十代の女性で、元は船乗りの妻だったらしい。亡くなった夫の話を三分で終わらせ、家賃の話を十分かけてした。現実的な人だと思った。好感が持てる。


「二階の物置に前の借り人が置いていったものがあるが、邪魔なら捨てていい」


 ヘルガはそう言って鍵を渡した。


 荷物を片付けてから、セイラは物置を開けた。


 埃っぽい棚に、木箱がいくつか積まれている。古い漁具、割れた陶器、使い古した航海道具。


 そして棚の奥に、日誌が三冊あった。


 表紙に「気象観測記録」と書いてある。


 セイラは手に取った。


 開くと、几帳面な文字で毎日の気温、気圧、風向き、雲の形が記録されている。日付は十二年前から始まっていた。三冊合わせると、およそ八年分の記録になる。


 前の借り人が残していったものだ。


 セイラは日誌を持って部屋に戻り、自分のノートと並べてテーブルに置いた。


 自分の記録は三年分。これと合わせれば十一年分になる。


 心臓が少し速くなった。


 これは、使える。


 翌朝から、セイラは町を歩き始めた。


 まず港のギルドに行き、過去の難破事故の記録を見せてほしいと頼んだ。受付の男は令嬢風の格好をした若い女が来たことに少し驚いた顔をしたが、「公開記録ですので」と言って帳簿を出してくれた。


 十年分の難破事故記録。セイラはそれを書き写した。二時間かかった。


 次に気象台に行った。


 レイヴンの気象台は港の端にある小さな建物で、老人が一人で管理していた。名前はオットーといい、白髪で背が曲がっているが、目だけが若々しく光っていた。


「観測記録を見せていただけますか」


「何者だ」


「エルンスタット伯爵家の娘です。気象の記録に興味があって」


 オットーはじっとセイラを見た。


「魔力はあるか」


「ありません」


「ならなぜ気象に興味がある」


「数字が好きだからです」


 オットーはしばらく黙っていた。それから、「入れ」と言った。


 気象台の中は狭く、棚に記録帳が並んでいた。オットーが管理してきた二十年分の観測記録だ。


「全部見ていいですか」


「好きにしろ」


 オットーは椅子に座り、セイラが記録帳を開くのを黙って見ていた。


 セイラは気圧のページを開いた。日付順に数字を追う。頭の中で自動的にグラフが描かれる。前世からの習慣だ。


 三十分ほどして、セイラは顔を上げた。


「オットーさん、一つ聞いていいですか」


「何だ」


「毎年八月の第二週に、気圧の記録が一日だけ抜けている年があります。五年前、七年前、九年前。何かあったんですか」


 オットーの目が少し動いた。


「記録し忘れただけだ」


「三回とも同じ週に?」


 沈黙があった。


「……風が強くて、外に出られなかった」


 セイラはオットーの顔を見た。嘘ではないかもしれない。でも全部でもない気がした。


「そうですか」


 セイラはそれ以上聞かなかった。


 数字はすでに何かを語り始めていた。急かす必要はない。


 宿に戻り、テーブルに記録を広げた。


 自分のノート三年分。前の借り人の日誌八年分。ギルドの難破事故記録十年分。オットーの気象台の記録二十年分(書き写せた範囲)。


 これを重ねると、見えてくるものがある。


 難破事故は毎年八月に集中している。それ自体は嵐の季節だから不思議ではない。でも事故が多い年と少ない年がある。そしてその差は、嵐の規模とは連動していない。


 では何と連動しているのか。


 セイラはまだ分からない。でも前の借り人の日誌の中に、気になる一文があった。


 八年前の八月十三日の記録。気圧と風向きのデータの後に、小さな字でこう書いてある。


「灯台の光、いつもと違う」


 それだけだ。それ以上は何も書いていない。


 セイラは窓の外を見た。


 港の先に、灯台が見える。夜になれば、あそこから光が出る。


 規則正しく、点滅する光。


 いつもと違う、とはどういうことか。


 その夜、セイラは初めて灯台の光を時計で計った。


 点灯、消灯、点灯、消灯。


 間隔は一定だった。


 今夜は、いつも通りだ。


 セイラはノートに記録を書き込んだ。今日の気温、気圧、風向き、灯台の点滅間隔。


 王都にいたころと同じように、ただ記録する。


 違うのは、ここには誰もいないことだ。笑う人も、無視する人も。


 セイラは窓を少し開けた。潮の匂いがした。遠くで波の音がする。


 悪くない、とまた思った。


 数字と、海と、自分だけの夜。


 これが今のセイラにとって、一番静かな場所だった。

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