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捨てられた気象官は、今日も海を読む  作者:


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第一話 嵐の前夜と、婚約破棄の朝

 嵐が来る。


 セイラ・フォン・エルンスタットは窓の外を見ながら、そう確信していた。


 空の色が違う。夕暮れの雲の形が違う。港に停泊している船の旗が、いつもと逆方向にはためいている。気圧計の針は昨日から三目盛り分、じわじわと下がり続けている。


 前世の記憶が戻ってから、もう三年が経つ。


 前の自分は日本の気象庁でデータ分析を担当していた。衛星データ、気圧配置、過去の統計。膨大な数字を読み解き、明日の空を予測する仕事だ。地味で、誰にも注目されなくて、それでも好きだった。


 そして今の自分は、ヴェルン王国の伯爵家の娘、セイラ・フォン・エルンスタット。明後日に婚約披露宴を控えた、十八歳の令嬢だ。


「お嬢様、そろそろお支度を」


 侍女のマルタが声をかける。今夜は婚約者、グスタフ・フォン・ヴィンダール子爵との夕食会だ。


「マルタ、父上に伝えてほしいの」


「はい」


「明日の夜明けから嵐が来る。港に出ている船は今夜のうちに戻すよう、ギルドに知らせるべきだと思う」


 マルタが少し困った顔をした。


「それは……どちらでお調べに」


「窓から見えるもの全部と、気圧計と、過去三年分の気象記録」


 マルタはもう何も言わなかった。


 夕食会は王都の高級料亭で行われた。


 グスタフは二十四歳で、金髪碧眼の端整な顔立ちをしている。父親が海運業で財を成した新興貴族で、社交界での評判も悪くない。婚約は半年前に決まった政略的なものだが、セイラは特に不満を持っていなかった。


 不満がなかっただけで、好きでもなかったが。


「セイラ嬢、今日は顔色が優れないようだが」


 前菜が運ばれてきたとき、グスタフが言った。


「少し気になることがあって。明日の夜明けから嵐になります。お父様の船団は今夜のうちに帰港させるべきかと思いますが」


 グスタフの眉が動いた。


「嵐? 今日の空は晴れていたが」


「夕方から気圧が下がっています。雲の形も、旗の向きも、すべて嵐の前兆です」


「気圧計など、料理人の勘と同じようなものだろう」


 グスタフは笑った。隣に座っていた彼の父親、ヴィンダール子爵も同じように笑った。


「セイラ嬢は面白いことを言う。魔力もないのに嵐が分かるとは」


 セイラは微笑んだまま、何も言わなかった。


 この国では、気象を読む者は「風読みの魔力」を持つとされている。海の民が代々受け継ぐとされる特別な力だ。そしてセイラには魔力がない。生まれたときから、一滴も。


 魔力がなければ令嬢としての価値が低い。それはセイラも知っている。


 でも数字は魔力で動かない。統計は才能で変わらない。


「もし外れたら、私の予測を笑っていただいて結構です」


 セイラは静かにそう言った。


 翌朝、夜明け前に目が覚めた。


 窓の外では、風が唸っていた。


 嵐が来ていた。


 セイラは窓際に腰掛けて、雨を見ていた。港の方向から、船の警笛が聞こえる。夜中に帰港した船があるのか、それとも間に合わなかった船があるのか。


 マルタが青い顔で部屋に入ってきたのは、朝の七時を過ぎた頃だった。


「お嬢様……」


「どうしたの」


「ヴィンダール家の船が、一隻」


 セイラは立ち上がった。


「難破?」


「座礁です。乗組員は全員助かったと聞きましたが、船は……」


 沈黙が続いた。


 セイラは窓の外の雨を見た。昨夜、自分が言った通りの嵐だった。もし連絡が届いていたなら、あの船は帰港できたかもしれない。


 でも伝わらなかった。


 笑われたから。


 嵐が収まったのは昼過ぎだった。


 グスタフが屋敷を訪ねてきたのは、その夕方だ。


 応接室に通されたグスタフの顔は、昨夜の柔らかい表情とは別人のように固かった。


「グスタフ様、お怪我は」


「私は問題ない」


 彼は椅子に座らず、立ったままセイラを見た。


「お前の言った通りになった」


「……はい」


「父の船が一隻、座礁した。乗組員は助かったが、積み荷はすべて失った」


 セイラは黙っていた。


「なぜ昨夜、もっと強く言わなかった」


 セイラは少し考えた。それから答えた。


「言いました。ヴィンダール様に笑われました」


 グスタフの口元が少し動いた。


「笑ったのは父だ。お前はもっと強く主張すべきだった」


「強く主張したとして、聞いていただけましたか」


 沈黙があった。


 グスタフはしばらくセイラを見ていた。それから、深く息を吸った。


「……話がある。座れ」


 セイラは椅子に座った。グスタフも向かいの椅子に腰を下ろした。


「婚約の件だが」


 セイラは何も言わなかった。


「お前は魔力がない。気象を読む魔力も、他の魔力も。それは最初から分かっていたことだが」


「はい」


「父が言うには、魔力のない令嬢を嫁に迎えることは家格に関わると」


 セイラはグスタフの顔を見た。彼は視線を逸らした。


「昨日のこともある。お前が早くに嵐を予測していたのに、我々は聞かなかった。それは認める。だが父は、魔力もなく嵐を予測したと喧伝されることを好ましく思っていない」


「喧伝するつもりはありません」


「分かっている。だが……」


 グスタフはテーブルの上で手を組んだ。


「婚約を解消したい。父の意向でもあり、私自身の判断でもある」


 セイラは少しの間、窓の外を見た。


 雨上がりの空が、オレンジ色に染まっていた。


「……分かりました」


「恨むか」


「いいえ」


 本当のことだった。悲しくないと言えば嘘になるが、恨む気持ちはなかった。ただ、少し疲れた気がした。魔力がないことを、ずっと恥だと思わされてきた疲れが。


「ただ一つだけ、確認させてください」


「何だ」


「嵐の予測が当たったから解消するのですか。それとも、魔力がないから解消するのですか」


 グスタフは少し黙った。


「……両方だ」


 正直な答えだと思った。


「分かりました。婚約解消、了承します」


 セイラは立ち上がり、一礼した。


 その夜、セイラは自室で三年分の気象記録をまとめたノートを開いた。


 前世から続けてきた習慣だ。毎日の気温、気圧、風向き、雲の形。この国に来てから書き続けてきた記録。誰に見せるつもりもなく、ただ書いてきたもの。


 ページをめくると、去年の嵐のデータが出てきた。その前の年の嵐も。さらにその前も。


 気づいていたことがあった。


 この王国の港町では、毎年同じ時期に難破事故が起きている。嵐のせいとされているが、データを重ねると奇妙なことが見えてくる。嵐の規模と難破件数が、必ずしも比例していない。小さな嵐の日に大きな事故が起き、大きな嵐の日に事故が少ない年がある。


 なぜか。


 セイラにはまだ分からない。でも数字が語りかけている。何かがある、と。


 窓の外で、港の灯台が光っている。規則正しく、点滅している。


 セイラはノートに新しいページを開き、今日の日付を書いた。


 婚約破棄の日。そして、何かを見つけ始めた日。


 嵐はもう去っていた。明日は晴れる。


 数字は、そう言っている。

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