エピソード7 緊迫するシェフ
札幌市内の中心部から少し外れた場所にある、無機質な外観の研究施設。
ここが今日の朝の配達ルート、その最後の目的地だ。
今からちょうど十年前。世界各地に突如として『ダンジョン』が発生した時、一番初めに動いたのは自衛隊だった。だが、彼らはダンジョンの中に入ることすらできなかった。内部と外部では物理法則や次元の構造が違いすぎたのだ。
やがて、次元の壁を越えられる適格者――『重奏』と呼ばれる覚醒者たちの存在が確認され、彼らが持つ『スキル(異能)』の力も発覚した。そうして自衛隊とは別に、探索者協会の下に『ARCANA』という独自の探索者ギルドが発足することになった。
表向きは、ここはそんなダンジョンの構造を解析するための政府公認機関ということになっている。
だが、所長である水島楓――通称カエデは、とんでもない偏人だ。政府の中枢と繋がっているだの、どこかの財閥の令嬢だのという噂が絶えないが、真相は謎に包まれている。彼女はただ、自分のやりたい研究――主に『魔素とダンジョンの影響』について――だけを嬉々として行っている。
僕とカエデが知り合ったのは、僕が『始原のダンジョン』を踏破して、地上に戻ってきた後のことだ。
僕が探索者を引退し、この西宮の沢で『弁当屋ハクリュウ』としてのんびり日常を送れているのは、彼女の強力なコネクションやサポートがあったからに他ならない。僕にとってカエデさんは、頭の上がらない恩人でもあった。
厳重なセキュリティゲートを顔パスで抜け、資料とモニターの熱気でごちゃごちゃになった所長室のドアを開ける。
「カエデさん、いる……?」
「湊か。入って、今、取り込んでるから」
白衣姿のカエデが、何台ものモニターから目を離さずに片手を挙げた。キーボードを叩く音が部屋に響いている。
「わかった」
僕の足元から、ふわりとナッツが部屋の中へ入り込んだ。それを見たカエデの眼鏡の奥が、キラーンと光ったような気がした。
「ナッツも来たのね、ちょうど良かった」
「ちっともよくねぇよ」
ナッツが毛を逆立てて僕の後ろに隠れる。
「カエデさん、お弁当はここに置いておくね」
「おい、ミナト。我はまた実験台にされるのはごめんだぞ」
「わかってるって……」
苦笑いしながらデスクの端に弁当を置き、僕は本題を切り出した。
「それで、カエデさん。何がちょうど良かったの?」
「最近またスパイダーウルフが繁殖期を迎えてるようでね」
「あぁ、それで自治体が……」
今朝、半田さんが言っていた討伐依頼のことだ。
「知っているのか?」
「内容までは知らないよ。知り合いの探索者から聞いただけで」
「……そうか」
カエデは手を止め、くるりと椅子を回転させて僕とナッツを見た。
「それと、ナッツさんとどういう関係が?」
「別に関係はないけど」
「ないのかよ」
ナッツの素早いツッコミ。カエデさんはニヤリと笑う。
「いや、関係はあるよ」
「どっちだよ」
「純魔素だね」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ冷たくなった気がした。
「そうよ。今回、スパイダーウルフの痕跡を見ると、純魔素が放出されていることがわかったのよ。でも、確定じゃない。そんなことはあり得ないから」
僕は黙って話を聞きながら、内心で首を傾げた。
(純魔素は、純血統の高位の魔獣――それこそナッツのような存在でない限り、保有していないからね)
ただの群れる獣であるスパイダーウルフが純魔素をまき散らしているとすれば、それは生態系のバグだ。
「もしも、スパイダーウルフが暴走したら……というわけだね」
「そうだ。そんなことにでもなれば、街にも被害が及ぶわ」
深刻な顔をするカエデを前に、僕はつい、いつもの料理人としての目線で答えてしまった。
「スパイダーウルフか……あれはあれで、美味い肉料理が作れるから大量に狩りができて僕は助かるけどね」
「ミナト、あれも食べるのね」
「もちろん」
「ま、あんたの調理技術を否定しているわけじゃないけど、あの見た目から食用になるイメージは私にはないわ」
「食わず嫌いはよくないよ。下処理さえ間違えなければ、結構いけるから」
「限度があるでしょ」
呆れたようにため息をつくカエデさん。
「とにかく……」と彼女が再びモニターに向き直ろうとした、その時だった。
――ピッ。
僕のポケットの中で、鋭い電子音が鳴った。
それは、普通のメッセージアプリの音ではない。『はくりゅうデリバリー』の裏回線――僕が本当に心配な相手にだけ持たせている、緊急時のSOS信号。
僕はスマホの画面を見て、息を呑んだ。
穏やかだった弁当屋としての意識が、一瞬にして、冷たく研ぎ澄まされた探索者のそれへと切り替わる。
「カエデさん、悪いけど。配達依頼が入ったからもう行くね」
僕の声のトーンが劇的に変わったことに気づいたのだろう。カエデが弾かれたように振り返った。
「誰からだ」
ただならぬ気配を察したナッツと顔を見合わせる。
「朱里さん」
「なぬ!?」
試験に向かったはずの彼女の現在地を示す座標を見て、僕は確信した。イレギュラーが起きている。それも、最悪の部類の。
「向かうは、30階層の『紅蓮の滝』へ」
僕は踵を返し、ナッツと共に所長室を駆け出した。
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