エピソード1 弁当屋を語るシェフ
手稲山の旧道を少し下ったところに、かつて観光客がよく車を停めていた見晴らしの良い退避スペースがある。
僕はキッチンカー『ハクリュウ』のハンドルを切り、そこに車を停めた。
エンジンを切ると、山を撫でる初夏の風の音だけが聞こえてくる。開け放した窓の向こう、眼下には碁盤の目のように区画された札幌の街並みと、その奥に広がる石狩平野がパノラマのように広がっていた。
先ほどの半田さんの言葉が、どうしても頭の片隅から離れない。
スパイダーウルフ。自治体からの直接依頼。
眼下に広がるこの平和な街のすぐそばで、何かが静かに狂い始めているような、そんな微かなノイズを感じていた。
「どうした? ミナト」
不意に、助手席で丸まっていた白い毛玉が顔を上げた。
サファイアのような青い瞳が、じっと僕の顔を見上げている。
「ナッツさんか」
「ダンジョンに戻りたくなったか?」
ナッツが、少しだけ面白がるような響きを込めて言った。
「まさか……ただちょっとね、気になることがあって」
僕は窓枠に肘をつき、遠くの街並みに視線をやったまま答える。
「しがない弁当屋なんか辞めて、そろそろ潜ったらどうだ?」
「キミがそういうこという……?」
僕は苦笑いして、ナッツのふわふわした頭を軽く撫でた。かつて始原のダンジョンで共に死線を潜り抜けた相棒からの、からかい半分の提案だ。
「いいだろ、別に」
「弁当屋、楽しいよ。僕は」
それは強がりでもなんでもない、僕の嘘偽りない本心だった。
「いろんな魔物も解体できるし、ダンジョンには挑んでないけど、時々潜って新鮮な肉を調達してきているしね」
「結局、同じじゃないか」
ナッツが呆れたように鼻を鳴らす。
物理的にやっていることは、かつての「探索者」時代と変わらないように見えるかもしれない。けれど、僕の中での意味合いは全く違っていた。
「違うよ。前とは違う」
僕は、自分の両手を見つめた。
かつては生き残るためだけに振るい、数え切れないほどの魔物を切り捨ててきた手だ。でも今は、美味しいご飯を作るための包丁を握っている。
「今の僕は、生命を奪っていない……いただいているだけだからね」
僕の言葉に、ナッツは少しだけ目を細め、静かに息を吐いた。
「そっか、しばらく退屈しそうだな」
「いいんじゃない。どうせ永遠なんてないんだから」
「それもそうだな」
ナッツは納得したように短く鳴くと、再び丸くなって目を閉じた。
退屈。それはかつて血をすするような日々を送っていた僕たちにとって、何よりも贅沢で尊い時間だった。
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